もっと強くなりたい
涙が止まらない。嗚咽の奥で、重い足音が近づいてきた。顔を上げると、彼は少し困ったような表情を浮かべていた。
「おいおい……そんなに泣くのか?」
困ったように頭を掻くヴィル。当惑しつつも目元が緩み、そこに宿る温かさが私をほぐす。それでも、視界は霞んだままだった。
「やれやれ……」
困り果てたようにそう漏らすと、彼は私の気持ちを汲み取ろうとするかのように、静かに一歩ずつ近づいてきた。
「勝負は俺の負けだ。――安心しろ。お前は正真正銘、ユベルの娘だ」
その言葉が耳に届いた瞬間、驚きとともに、胸がひくつき声にならない息が漏れる。
喜びと安堵、そして父への懐かしさ。感情の奔流に、ただ身を委ねた。
「ほ、本当……? ――じゃあ、私のことを認めてくれるの?」
震える声で問いかけると、ヴィルは優しく微笑み、深く頷いた。その微笑みが、どこか父さまの面影と重なって見える。
修練場に、私の嗚咽だけが小さく響いた。
冷たい石壁が、その音を吸い込んでは押し返す。
次の瞬間、彼は無言のまま手を伸ばした。そのごつい指先は、ためらいがちに近づいて、やがて私の頬にそっと触れた。その温もりに父の面影が重なり、胸がじんわりと満ちていく。
ぎこちなく微笑み返そうとしてみたが、まだ胸に小さな不安が残っていた。
彼は優しく、私の顔をのぞきこみながら、静かに息を吐いた。
「もちろんだとも。お前は凄いことをやってのけたんだぞ。自信を持て」
その言葉は、父が近くで励ましてくれているかのようで、心の奥に深く染み込む。
「そう、なの……?」
まだ不安は残っている。私はもう一度ヴィルを見上げた。
その視線を正面から受け止め、ヴィルはわずかに表情を引き締めて言葉を続けた。
「ああ、そうだ。こんな化け物じみた強さは、なかなかお目にかかったことがない」
不意の言葉に、どきりと心臓が跳ねた。
一瞬、言葉を探す間が空く。
「な、なにそれ……化け物って。そもそも、あなたの動きこそ人間技じゃなかったし、あんなのを見せられたら、父さまだって大変だと思うわ」
反射的に強く反論してしまう。黒鶴の力が、この世界では明らかに異質なのは感じている。だが、ヴィルが言いたいのは、それだけじゃない気がした。
ヴィルは再び頷く。声色を落として、続きを口にした。
「当然だろう。俺は四十年以上も剣を振るい続けてきたんだ――」
ヴィルは肩を回し、軋む音を確かめるように息を吐く。
「――それに比べてお前はどうだ? 剣を握ってまだ間もないくせに、ユベルの動きのほんの一部分かもしれんが、まるで生き写しのように再現してみせたんだ。そりゃあ、驚くに決まってる」
「えっ……本当?」
「そっくり」という言葉が、心の奥に温かい光を灯す。息が浅く跳ねた。
「ああ。お前の中で、あいつの命が確かに繋がれている……そう思ったら、嬉しくなった」
ヴィルの瞳にひと筋の煌めきが灯る。彼は本当に父を大切に思っていたのだ。その思いを感じ取ると、胸にあった暗い雲がゆっくりと晴れていく。
私は確かめるように、もう一度問いかけた。
「そう映ったの?」
ヴィルは、少し微笑むような表情で答える。
「お前の動きは、まさにユベルそのものだった。俺の流儀とは真逆だが――ずっとあいつの戦いぶりを近くで見続けてきたこの俺が言うんだ、間違いないさ」
彼が父の戦いを認め、私を通じてそこに近づけたと言ってくれることが、胸にほのかな熱を灯していく。
「そう言ってもらえると、本当に嬉しい……。
――でも、私にはまだまだ足りないことがたくさんあると思うの」
視線を落としてそう告げる私に、ヴィルは穏やかな声で応える。
「ああ、人は常に成長し続けるものだ。俺だって、今の力を得るまでに長い年月がかかっている。だが、お前はまだ若い。だからこそ、もっと強くなれるはずだ。もしかしたら、俺やユベルすら超える境地に辿り着けるかもしれんぞ?」
その言葉は、新たな希望となって私の胸に芽吹いた。呼吸がようやく落ち着き、心が軽くなる。
「……そっか。ヴィル――私、もっと前へ行くわ」
ヴィルは目を細め、拳で自らの胸を軽く叩いた。
「その意気だ」
彼は少し考え込むような表情を見せた後、私に尋ねた。
「ところで、一つ確かめたいんだが。さっきのお前、すごい数の術を同時に使っていなかったか? 宙に小さな球状の術式が浮かび、そこから風が吹き出しているように見えたんだが?」
鋭い指摘に、私は少し戸惑う。黒鶴の力や場裏の存在をどう説明したものか。
「あら? やはりあなたには見えていたの?」
ヴィルは興味をそそられたような眼差しで首を傾げる。
「俺の目は節穴じゃない。一体あれはなんなんだ?」
彼の問いかけに、私はどう答えたものかと少し戸惑った。
「あれは――ただ『こう在りたい』と願っただけで応えるわたしだけの“残像”──まだ名も持たない存在よ」
ヴィルは感心したように息をつく。
「剣を握ったままで、あんなに複雑な魔術を同時に制御するなんて……一体どういう頭をしてるんだ? それに、一瞬、黒い……翼のようなものが見えた気がするんだが……」
案の定見られていたのか、と私は内心で納得する。
ヴィルはただ強いだけじゃない。その超人的な動体視力と冷静な観察力、そして膨大な戦闘経験で、ほんの一瞬の情報から相手の手の内を読み解いてしまうのだ。
「私に翼なんてないわ。きっと目の錯覚よ」
「そうか? うーん……」
ヴィルは納得しかねる様子で、考え込んでいる。彼の追及を避けるため、私は言葉を続けた。
「私、ただ無我夢中だったの。あなたの剣を避けなきゃって、そのことだけを本能的に願っただけ」
ヴィルは、ほとんど呆れるようにかぶりを振る。
「おいおい……」
そのあまりに素直な反応が可笑しくて、私は思わずくすりと笑ってしまった。
「それから、苦し紛れに宙へ跳んで下を取られた時、急に父さまの戦い方が頭に浮かんできて……身体と“魔術”が、自然に私に応えるように動いてくれたの」
素直にありのままを話すと、ヴィルは胸を揺らし、深い息と共に笑いをこぼした。その低い声が石壁に反響する。
「ははっ、なるほどな。願いは力と言うが、そう簡単にどうにかなるって話じゃないぞ。まったく、お前は末恐ろしい……いや、面白いな」
「面白い、って……?」
彼の、子供のような無邪気な笑顔に戸惑いつつも、胸の奥で期待が灯る。
「ああ、ますます気に入った。お前がどんなふうに成長していくか、楽しみで仕方ない。俺が教えられることだって山ほどある。お前はまだ知らないことばかりだろうからな」
その言葉に、胸が少し温かくなる。心細さが和らぎ、ほんのわずかだけれど、自信が芽生えた。
「そう言ってもらえると、なんだか心強いわ。ありがとう。あなたのおかげで、少しだけ自信が持てたみたい」
ヴィルの知識と経験を私に分け与えてくれたなら、それはきっと大きな力になるはずだ。
「それじゃ、これからもよろしくね……ヴィル」
「もちろんだ。ああ、今日はもうゆっくり休め。明日は狩りにでも行こう。お前の腕前を、ちゃんとこの目で拝見したい」
そう言って、ヴィルは手を差し出す。
節くれ立った大きな掌。そこには、戦いの年月を刻んだ温もりがあった。その感触はどこか父の手に重なり、未来への無言の契約のようだった。
私は息を吸い、そっと握り返した。
胸の奥が、熱く脈打つ。
「うん」
その声は、石壁に柔らかく吸い込まれていった。