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朝の光に揺れる心

 翌朝、私は一睡もできないまま、ぼんやりとした朝の光に包まれていた。

 夜明けの静寂が、皮膚の表面に冷たくまとわりつく。窓辺から差す光が、木枠の影を床に落とし、私の視界はどこか霞んで映る。体の芯にまで重たさが染み込んで、胸よりもむしろみぞおちの奥が鈍く痛む。

 毛布の上から、指先で布のしわを何度もなぞってみる。


「ミツル……」


 ヴィルの低く、ためらいがちな声が、部屋の空気を振動させた。

 その響きは、寝床と仕切りの布を抜けてこちらへ届く。でも私は、目を閉じたまま、返事をしなかった。何かがピンと張り詰めるような気まずい間が、部屋の隅で動かずにいる。彼がもう一言話しかけようとする気配に、私は無意識に喉を詰まらせて唇をきつく噛んだ。


 ヴィルは昨夜の私の行動をどこかで察している。きっと、気づいている。それなのに今さら、どんな顔をすればいい? 

 毛布の中に足を抱き込み、指先をふくらはぎに食い込ませる。どうか私に近づかないで。布団の中で、ただそう祈っていた。


「……着替えるから、出てって」


 自分でも驚くほど冷たい声。台詞が部屋の壁に反響し、耳の奥まで染みる。吐き出した息が、かすかに白くなった気がした。


 ヴィルは、短く息を吸う気配だけ残して、無言でドアのほうへ歩く。床板が靴の重さにたわみ、扉がゆっくりと閉まる音が空間に沈んだ。

 彼の背中は見ずに、私は毛布の端をぎゅっと握りしめてうつむく。扉の隙間からすべり込む冷たい朝風が、裸足の甲を撫でていく。


 その時、茉凛の  .声が剣の奥から響いてきた。


《《昨夜はごめんね。マウザーグレイルに繋がって調べ物をしてたから、気づくの遅すぎた……。わたしもショックだったよ。慰めてあげたくても、どう言ってあげたらいいのか、わからなくて……本当に、ごめん……》》


 彼女の声に込められた、息を詰めるような申し訳なさ。その震えが、布団越しの皮膚にじわりと沁みてくる。胸じゃなく、むしろ胃のあたりが冷たくなった。


 茉凛自身もあの出来事には動揺していたのだろう。大人の男性の感情――頭でわかっていても、現実に触れるのは初めてだったに違いない。私だって、こんな感情がどこから来るのか分からなかった。


「茉凛が謝ることないよ。とりあえず、すっきりしたいから顔を洗う……」


 声をかけるとき、無意識に自分の髪の先を指でつまみ、絡まった毛をほどいた。

 起き上がると、足元の冷えが畳にしみて伝わる。洗面桶の水に手を浸すと、骨の芯まで冷たさが這い上がる。

 場裏・赤の熱を指先に集め、そっと力を込めた。水面に淡い紅色の光が広がり、湯気が立つ。


 だが、その湯気をじっと見ていると、どこか現実感が失われていく。茉凛が何を言っても、今は心の奥にまでは届かない。湯気が頬に触れても、指先の震えは止まらなかった。


「うわ、熱っ……」


 水から手を引いた瞬間、熱が皮膚を焼くように刺し、指先の赤みが疼く。自分の思考がどれほど散漫だったか、その痕跡が指に残る。ため息が喉を滑り、鏡の中の自分と目を合わせる気になれなかった。


「情けない……私、何やってるんだろう……」


 つぶやく声が洗面台に吸い込まれ、反射した朝の光に溶けた。胸の中に渦巻くのは、押しつけようもない不安と怒りと、焦燥と――。うまく名前が付けられない感情たち。


 もし、今ここで彼に向かって何かぶつけられたら楽なのかもしれない。けれど、「あなたも男なんだ」「堂々としてればいいのに」と突き刺し皮肉るような台詞は、私にはとても言えなかった。そうできるほど、強い人間じゃない。


「私には……無理だ……」


《《何が無理なの?》》


「ううん、ただ……怒鳴り散らしてヴィルを殴りつけるとか、そんな見当違いなことをする勇気なんて、私にはないって話」


 剣の柄にそっと手を置き、目を伏せる。指の腹に冷たさがじかに伝わってきた。


《《うーん、わたしならやるかも。『不届き千万』って、全力で怒ってやるのもアリかもね》》


そうかな……でもね、私は別にヴィルのことを……なんとも思ってないし」


――……ほんとうに? 


 と、内心で問い返しながら、柄の上で指先をそっと動かした。


「彼は、“父さまの代わりをする”って言ったけど、甘え方を間違えている気がするの。大人の私としては、ね」


 そう言い切ったあと、唇の端がわずかに震えた。


《《難しいなあ。でも、甘えたい時は甘えてもいいと思うよ?  けど、ああいうの見せられると……心がちょっと離れちゃうかもだけど》》


「……そうかもね」


《《でもさ、少しくらい彼の言い分を聞いてあげるのもいいんじゃない? つまらない言い訳をされたら、その時は許さなくていいからさ》》


「……そんなの怖い」


 鏡の奥の自分が、微かに眉根を寄せている。弱さと戸惑いが、冷たい水滴のように胸に落ちていく。


《《ああ、もうわたしがあなたに乗り移れたら、正面からぶつかってやるのに!》》


 その言い方が、いつもの茉凛らしくて、思わず口元がゆるむ。


「それができたとして、私らしさがどこかに行っちゃうでしょ? 彼に見抜かれるだけよ」


《《でも……このままだと、旅を続けるのも辛いよ?》》


「わかってる」


 分かっているけど、それでも一歩が踏み出せない。両手で袖口をぎゅっと握りしめ、額に冷たい汗が滲む。


◇◇◇


 僅かなお湯で顔を洗い、乱れた髪を指先で直しながら、私は鏡越しに自分に問いかけた。

 この先、どれほどの決意を胸に抱いて歩けばいい? 胸ではなく、みぞおちの奥が沈み、下腹に重たい石を飲み込んだようだった。


 着替えの布を握る手が、なかなか言うことをきかない。薄い布越しに鼓動が伝わるが、どこか頼りなく、手の甲にはまだ汗が残っている。


 やがて足が止まったのは、固く閉じられたドアの前。向こう側には、ヴィルがきっと待っている。

 彼の背中がぼんやりと脳裏をよぎり、胸よりも背中の中心がじわじわ熱くなる。憂いを帯びたその姿が、気持ちをさらに複雑にする。


 気持ちを整理する余裕なんて、今はどこにもない。言葉を探しても見つからない。それでも、彼からの説明を聞かなければならないのは分かっていた。どんな未来を示されるのか、これからの旅がどう変わってしまうのか……考えるだけで、膝裏に力が入らない。


 ドアノブに手を伸ばそうとするたび、冷えた指先が空を掴み、何度も引っ込めてしまう。恐怖と焦りが絡まり、膝が小刻みに震える。――けれど、茉凛の声が脳裏に静かに届く。


《《美鶴。このまま閉じこもっていても、何も変わらないよ》》


《《ここは思い切ってぶつかるしかない。むしろ、こちらが堂々としてこそ、戦いは優位に進むんだから》》


 内側に沈殿した迷いは、夜明け前の霧のようにまだ晴れなかった。それでも、茉凛がそっと差し出してくれる“導く手”の温もりに触れるたび、小さな勇気が血流に乗ってじんわりと灯る。


「そうね。あたなの言う通り、すっきりさせなきゃ……」


 彼女の想いが、私の背を押してくれる。揺れる気持ちを押し込めて、私は決意を固める。深く息を吸い込むと、みぞおちの奥で緊張が跳ねる。震える指で、ようやくドアノブを掴んだ。


 その冷たく硬い感触が、現実の手ごたえだった。私は信じた。茉凛が導いてくれることを。そして、その手に込められた温もりが、私を守ってくれると――そう信じて、ドアを開けることを選んだ。

美鶴の心理分析(年齢の混在による複雑さを含む)

 このシーンで描かれる美鶴の心理は、単に心情の揺れ動きだけでなく、彼女の中に「12歳のミツル」と「21歳の美鶴」という二つの異なる人格が共存していることが、特に興味深い要素となっています。この複雑な設定が、美鶴の感情的な混乱と内面的な葛藤を一層深くしています。


未成熟な感情と大人の理性の葛藤

 美鶴は、12歳の少女であるミツルとしての未熟な感情と、21歳の大人の美鶴としての成熟した理性を持ち合わせています。この二つの異なる心が衝突することで、感情の振り幅が大きくなり、簡単には整理できない混乱を生み出しています。たとえば、ヴィルとのやり取りで感じる苛立ちや拒絶の感情は、幼いミツルの不安定さや傷つきやすさが影響している一方で、大人の美鶴としては冷静に状況を見つめたいという理性が働いています。この二つの層が常にせめぎ合い、彼女が自己をうまく定義できない状態に陥っているのです。


自己認識の揺らぎとアイデンティティの葛藤

 美鶴は、自分自身のアイデンティティを見失いがちです。「私は一体どちらなのか?」という問いが、常に心のどこかに潜んでいます。21歳の美鶴としての意識は、自分の過去の経験に基づく冷静さや理性を持ち、物事を論理的に考えようとする一方で、12歳のミツルとしては、まだ未熟で純粋な感情が支配する部分があります。これが、ヴィルに対して抱く複雑な感情に影響を与えています。例えば、彼に怒りを感じつつも、それをうまく言葉にできず、かといって幼いような反応をしたくないという葛藤があるのです。


大人の美鶴の抑制と幼いミツルの感情の奔流

 美鶴の「大人の部分」は、感情を抑えて冷静に振る舞おうとしていますが、「幼い部分」はどうしても未熟な反応をしてしまいます。特に、ヴィルが彼女の距離を縮めようとする気配に対して「苛立ちが熱を持って膨らむ」と感じるのは、幼いミツルの無防備な感情が表に出てきているからでしょう。一方で、「冷え冷えとした響きで彼を拒絶する自分」を自覚してしまうのは、大人の美鶴としての意識が、「自分はもっと理性的に振る舞うべきだ」という考えを持っているためです。このような感情のすれ違いが、彼女の心をより一層複雑にしています。


茉凛との関係と内面的な支え

 茉凛は、彼女の心の拠り所であり、美鶴が自分の感情を整理する手助けをしてくれる存在です。しかし、茉凛の優しい言葉も、彼女の心の全てを癒すには十分ではないことがわかります。これは、茉凛の存在がどちらかといえば「12歳のミツル」に寄り添うような側面があるためです。21歳の美鶴としての意識は、もっと複雑な現実や理性的な問題に直面しているため、その隔たりが生じてしまうのです。茉凛の優しさが響かないと感じるのは、この二つの年齢の間にあるギャップが原因と言えるでしょう。


子供と大人、二つの視点からのヴィルへの感情

 美鶴がヴィルに対して抱く苛立ちや距離を取りたい気持ちは、12歳のミツルの感情的な側面が強く影響しています。彼女は傷つくことを恐れ、純粋にヴィルを信頼することができない幼い心を持っています。一方で、21歳の美鶴としては、ヴィルに対してもっと冷静に向き合うべきだと考えているものの、その理性に感情がついていかないのです。この二つの視点が彼女を苦しめており、ヴィルにどう接すればいいのかを迷わせています。


自己成長の兆しと一歩を踏み出す勇気

最 終的に、美鶴は茉凛の言葉に支えられながら、一歩を踏み出す決意をします。この決意は、大人の美鶴としての理性が主導している部分でもありますが、茉凛の支えによって幼いミツルの感情も安心を得ています。この瞬間は、美鶴が自分の中にある二つの年齢の人格を少しずつ受け入れ、統合しようとしている兆しと言えます。冷たいドアノブに手を伸ばす行為は、まだ不安を抱えたままではあるものの、自分自身と向き合うための一歩として描かれているのです。


 美鶴の心理は、12歳のミツルと21歳の美鶴という二つの年齢が交錯することで、非常に複雑で繊細に描かれています。彼女の感情は、未熟な部分と成熟した部分がせめぎ合いながらも、少しずつ統合されつつあります。このような年齢の混在は、彼女が直面する困難や成長の過程をよりドラマチックにし、物語全体に深みを与えています。美鶴は、自分の未熟さや脆さを受け入れながらも、大人の理性を持って一歩を踏み出そうとする姿が、共感と切なさを感じさせるキャラクターとなっています。

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