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あなたは私の導き手

 どうしよう。震えが止まらず、足が石杭と化す。どう踏み出す――思考は渦を巻き、肺が悲鳴を上げた。

 そんな私を見ていたヴィルが、低く静かな声で言った。


「少し間を取ろう。息を整えるんだ」


「ありがとう……」


 その一言が、胸をじわりと熱くした。私はその場にしゃがみ込み、荒い呼吸をなんとか鎮める。鼓動が乱打し、熱気が気管を焦がした。

 顔を上げれば、彼は冷静な表情でこちらを見つめている。


「ところでミツル、お前は魔獣の強さをどう認識している?」


 それでも、口を開く。


「……魔獣の強さは、破壊力も瞬速も脅威。けど、もっと厄介なのは本能的な狡猾さと執念深さ……そう感じるわ」


「その通りだ。では、お前ならどう戦う?」


「優位に立つために、まず距離を取るわ。魔術師としての強みを生かすなら、まず相手の動きを封じたい」


 私がそう答えると、ヴィルは顎を引いた。その穏やかな眼に刃が閃く。


「それが魔術師のやり方だな。だが、もし物陰に潜んだ魔獣が別の方向から不意を突いてきたら、どう対応する?」


「…………」


 言葉が詰まる。冷汗が背筋をつうっと落ちた。

 無詠唱でも、ひとつの術に意識を取られた瞬間、不意打ちには対応しづらい。今までは幸運にも危険を回避してきただけなのかもしれない。

 鬱蒼たる森で、四方に敵意が潜む場面を思えば、想像だけで血の気が引いた。


 ヴィルは私を見つめ、なおも言葉を紡ぐ。


「戦いには、常に予測不能な要素が付きまとう。だからこそ、瞬間ごとに身さばきが試される。お前は強力な魔術師かもしれん。だが、ただ“強い”だけでは生き残れない。冷静に心を保ち、瞬時の判断で動くには、膨大な修練と実戦経験が必要だ。身体に技が染み付いて、自然に反応できるようになるまでな」


 深くうなずき立ち上がる。震えていた足に、ようやく芯が通った。


「わかったわ、ヴィル。私、もう少しがんばってみる」


「うむ」


 短い肯定の声。ヴィルは間合いを取り直すように一歩身を引く。一瞬、彼女の声が静かに沁み込んだ。


《《美鶴、よく聞いて。次は何も考えずにいってみよう》》


 その提案に思わず息をのむ。


「どうして? 予測もしないでどう動くの?」


《《今の話を聞いて、考えすぎるのは逆効果かもしれないって思ったの。彼に小細工は通じない。だったら、あなたの直感と身体の反応を信じてみて。余計な思考は捨てて、感じるままに動くのよ》》


「直感――私の反応って?」


《《最初にあなたと会ったときのことを思い出して。わたしは力を抑えられなくなったあなたに声を届けたくて、とにかく必死だった。あの時、わたしは何も考えず、ただあなたを見て行動していたの》》


 茉凜との出会い。石与瀬の海を臨む公園。制御不能な黒鶴の力。

 怒りと憎悪に心を呑まれた、曖昧な記憶の断片。ただ一つだけ、はっきりと覚えている。指先の体温と、魂を揺さぶる切実な呼びかけ。それが、深淵に沈む心を、そっと引き上げてくれた。その温もりは、いまも胸の奥で灯のように揺れる。

 それ以来、彼女は黒鶴の安全装置セーフティとして、狂気に呑まれそうになる私の精神を繋ぎ留めてくれている。


《《たぶんだけどね、この力は、もともとわたしを死なせないために用意されたものじゃないかって思うんだ》》


「どういうこと?」


《《わたしが、あなたを【根源】のいるところへ無事に届けるために。器であるあなたが死んでしまったら困るでしょ? その力は、わたしの本能に、“生きろ”って呼びかけるように働いていたんじゃないかな》》


 その言葉に、私は目を見開く。

 予知の視界による認識と、危険を避けようとする本能が、思考を介さず、直感的な行動を私に促していた。


 そういうことだったのか。マウザーグレイルの力は、茉凜という依代を護るための自己防衛本能が根底にある。けれど、その力を本当に駆動させていたのは、私を救い出したいという、彼女自身の純粋な願い。


《《だから、何も考えずにただ自分を信じてみて。そうしたら、きっとかわせるよ》》


 茉凜は、理屈に溺れがちな私に、いつも最短の道を差し出す。それこそが「導く手」である彼女の意味――私にとっての、真の道標。

 答えは見つかった。


「心を無にして、恐れず立ち向かえ、か」


《《うん。そうだよ》》


 茉凜の予知する視界は、私を護るためにある。その視界に身を委ねるには、余計な思考を捨てなければ。

 私はゆっくりと深呼吸し、心を静める。茉凜の視界が、私を透明に溶かす。今は、過去の失敗や恐れを脇へ置き、ただ“今”に集中する。


《《がんばろう。私も全力であなたを支えるから》》


「ありがとう、茉凜」


 ああ、なんて心強いのだろう。胸の奥で嬉しさがぽっと灯り、小さな笑みがこぼれそうになる。

 私は静かに瞼を閉じ、マウザーグレイルを抱きしめた。


「おい、剣を抱えこんで何をぶつぶつ言ってるんだ?」


 ヴィルの声が、鋭い現実感をもって私を呼び戻す。


「なんでもないわ」


 少し不機嫌そうな顔で答えつつ、私は地面を踏みしめて立ち上がった。もう迷わない。


「なら、仕切り直しだ」


 私が静かに頷くと、心中の不安が、呼吸と共に和らいでいく。

 両手でマウザーグレイルを握り直す。冷たい重量感が、身体の芯まで沈み込むように伝わってきた。私は、茉凜を、そして私自身を信じると決めた。

 予知の視界と、私が持つすべてを重ね、ただ生き延びるという本能に委ねる。


 瞼を閉じる。闇が濃く、その奥で茉凜の灯が、荒海の灯台のようにほの白く揺れ、世界は鼓動一拍に集束した。


「お前、目を閉じたままでいいのか?」


 ヴィルの声が微かに響くが、もう私の耳には届かない。私は深い闇の中、無音の世界に身を沈めていた。驚くほど、不安は消えている。


「ほう……。さっきとはまるで別人だ。いいだろう。お前には、俺の対魔獣戦用の基本の一つを、刃を抜くように、重々しく見せてやろう」


 その声さえ、意識の底へ溶ける。集中はさらに研ぎ澄まされ、かつてない境地に近づいていた。

 あとは視界が反転する、その刹那を待つだけ。

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