注意書き、各章概要、プロローグ、キャラ紹介
創作スタンス
目的
本作は思考実験・遊びのため に書いています。テーマや展開は、作者の興味と好奇心に基づいて選びます。読者の需要や「いいね数」には依存しません。
テーマと内容について
ウケる構造や、「いいね」的な迎合を前提にしたテーマ選びはしません。
カップリング・展開・キャラクターの行動は、物語上の必然と作者の意図に基づきます。
読者の「これは地雷」「こうしてほしい」という要望に沿ってストーリーを改変することはありません。
読者へのお願い
内容や展開が好みに合わない場合は、無理に読み続ける必要はありません。
感想や意見は歓迎しますが、「作者に迎合させるため」の働きかけはお断りします。
作者の自由と責任
作者は、試したい物語構造・テーマ・人物関係を自由に選びます。
読者が感じる不快感・裏切り感は、物語の実験的性質によるものであり、意図的な攻撃ではありません。
商業的作品ではないため、「万人受け」を保証するものではありません。
『黒髪のグロンダイル』が、典型的なラノベやweb小説とは異なる点は次の通りです。
① 精緻な心理描写と内面の成長
ラノベやweb小説では、物語は多くの場合、恋愛や冒険のゴールに「結婚」や「恋人になる」などの表面的な関係性の達成を置きがちです。そこに至るプロセスも、多くはテンプレ的に進み、極端な劇的展開や感情の暴走が強調される傾向があります。
しかし、『黒髪のグロンダイル』は、二人のキャラクターが抱える葛藤、自己認識の変化、そして精神的成長が非常に緻密に描写されています。関係性の深化は一貫して心理的な必然性に基づいており、たとえ出会った当初の肉体年齢が12歳(魂は大人)と44歳であったとしても、安易な展開やご都合主義ではなく、じっくりとした時間の経過と丁寧な心理描写を通して、徐々に受け入れられる形へと導いています。
具体的には、ミツルがヴィルを「頼りになる大人」から「対等なパートナー」へと認識を変えていく過程が丹念に描かれており、読者がキャラクターの心情を自然に受け止められるようにしています。
安易な感情的展開を避ける抑制美
多くのラノベやweb小説では、感情が高まった場面で「熱い抱擁」や「情熱的なキス」など、ドラマチックで読者の感情を直接揺さぶるような展開を採用することが好まれます。しかし『黒髪のグロンダイル』は、そういった安易な感情的演出を避けています。
ミツルは涙を見せたがらず、ヴィルも安易に抱きしめたりせず、言葉や仕草の節々に込められた抑制された感情表現を重視しています。これはキャラクターの成熟度を表すとともに、読者がキャラクターの微細な感情の動きや葛藤に集中できるよう配慮されています。
【プロローグ】
朝一番に、“彼”が視察日程を終えて戻ってきたと耳にした瞬間、こめかみの奥が微かに疼き、熱を帯びた血が全身を駆け巡るのを感じた。
無性に会いたくて、話したいことが泉のように湧き上がってくるのに、すぐさまその腕の中に飛び込んでいけない自分にもどかしさを覚える。
領主という重責は、まるで目に見えぬ硝子の檻のように、私を執務室の椅子に閉じ込めていた。目の前に積まれた羊皮紙の山。それを前にしては、席を立つことすら許されない。そんな義務感と、彼を待ちわびる焦燥感が、私の呼吸を浅くしていた。
「呼びつければいいじゃない」と、心の奥で幼い私が囁く。けれど、そんなことをしてしまえば最後、私はきっとこの堅苦しい書類の束を窓から放り投げてしまうだろう。
そうなれば、厳格な秘書のメイケルや、氷のように融通の効かない執政官のゾルダスから、きっと雷のような小言を山ほど浴びせられるに違いない。そう思うとどうにも身動きが取れなくて、彼への募る想いの分だけ、机上の仕事が鉛のように重苦しく感じられた。
それでも仕方なく、私は目の前の羊皮紙に意識を戻そうと努める。けれど、一度彼を想ってしまった心は、まるで蜜に誘われる蝶のように、彼の笑顔や、あの悪戯っぽい声色へと吸い寄せられてしまうのだ。インクの染みさえも、彼の黒髪の色に見えてしまう始末だった。
ようやく午前の執務という名の息苦しい空気の澱みから解放され、一息つけたときには、私は空腹さえ忘れ、“白い剣”を腰に下げたまま、まるで帰る巣を探す小鳥のように屋敷の中を落ち着きなく探し回っていた。
こんな領主らしからぬ挙動にも、屋敷の人びとは慣れっこで、誰も咎めようとはしない。むしろ、温かい眼差しで見守られているのを感じる。
けれど、いくら探しても彼の姿は見当たらない。思わず、ため息が絹のように細くこぼれる。もしかしたら、街へ出て、昼間から例の安酒場で羽目を外しているのかもしれない……そんな不安が、まるで窓ガラスを曇らせる霧雨のようにふと胸を霞めた。あの人は、そういうところがあるから。
そのとき、不意に目に留まったのは、屋敷の庭の外れ、古びた樫の木。その根元の、緑深き茂みから、くったりとした革のブーツのつま先が覗いているのが見えた。日に焼け、幾多の旅路を物語るその古びたブーツには、見覚えがありすぎるほどあった。きっと、彼だ。間違いない。
私は、スカートの裾が翻るのも構わず駆け出した。ようやく彼の元へ帰ってきたというのに、なぜこんな場所で眠りこけているのだろうと、可笑しさと愛おしさが入り混じった不思議な気持ちで息が弾む。
もしや倒れているのでは、と一瞬、全身の血が逆流するような冷たい怖気が走ったが、茂みに近づくにつれて聞こえてきたのは、子熊のように呑気で盛大ないびき。ほっと安堵の息が、白い蝶のように唇からこぼれた。
茂みの先で、まるで子供のように無防備に眠り込む彼の足元にそっとかがみ込む。けれど、その疲れきったであろう身体を起こすのはあまりに忍びなくて、ただ、その寝顔を見下ろすだけにとどめた。長い旅から帰ってきたのだ。今はただ、夢の腕に抱かれて休んでいるのだろう。
「ほんとにもう――」
そっと声を潜めて、囁くように言葉がこぼれる。まるで、大切な宝物に触れるかのように。
「いい歳をして、こんなところで日向ぼっこなんて」
思わず、傷だらけのブーツのつま先に、そっと指先で触れてみる。冷たく、けれどどこか温もりを宿した硬い革の感触が、二人で踏破してきた数々の冒険の道のりを思い出させた。
砂塵の舞う荒野、硝煙の匂いが立ち込めた戦場、そして、星降る夜風に吹かれた幾夜もの野営――この傷だらけの靴で、私たちはどれほどの道を共に歩んできたのだろう。そんな彼が、今は何もかも忘れて、ただ穏やかな寝息を立てている。
不意に顔に熱を感じ、私は両手でそっと頬を押さえた。こんなにも彼を待ち焦がれていた自分に、今更ながら気づいてしまうなんて。心の奥底で、名前も知らない感情が、まるで秘められた泉のように静かに湧き上がり始めているのかもしれない。
家族や仲間以上の何かを感じていたのは確かだけれど、その感情が明確な形にならないまま、もう六年近くもの歳月を、こうして彼と共に過ごしてきたのだ。
「長旅でぐったりでしょうし――今だけは、起こさずに差し上げますわ」
などと、いかにも“貴族領主”っぽく、皮肉交じりに言ってみる。
木漏れ日が彼の寝顔に落ち、まるで穏やかな水面のように静かに揺れているのを眺めながら、私はそっと心の中で問いかける。
彼が目を覚ましたら、「おかえりなさい」と、花が綻ぶような笑顔で声をかけたい。それまで、もう少しだけ、このまま彼の寝顔を見守っていよう……そう思った途端、張り詰めていた心の糸がふっと緩んだのを感じた。
暖かな春の陽射しと、頬を撫ぜる柔らかな風に誘われて、日頃の疲れが一気に私を優しい眠りの腕の中へと引きずり込んだのだ。
いつの間にか彼のすぐそばで横になっていた私は、夢の中で、彼と向き合っていた。
いつもの、人を食ったような茶化す表情ではなく、とても真剣で、射抜くような、けれどどこか吸い込まれそうな深い瞳で、私をじっと見つめてくる。その瞳に、不思議と視線を外すことができない。まるで心の奥底まで見透かされているようで、頬の熱がじわりと増していくのを感じた。
「おい、領主様がこんなところで惰眠を貪るんじゃない。起きろ」
突然、鼓膜を揺るがす声。はっと目を開けると、すぐそこに彼の顔があった。驚きで全身の血が沸騰しそうになり、言葉も出ない。ただ、大きく目を見開いて、彼の射るような視線を真正面から受け止めるしかなかった。
私のあまりの反応に、彼は悪戯っぽく口の端を上げた。けれど、その瞳の奥には、隠しきれない優しさが揺らめいている。
「なんだ、その鳩が豆鉄砲を食ったような顔は。どうかしたのか?」
まるで何も気づいていないような、その無神経な問いかけが、いつも通りの彼らしくて、少しだけ喉の奥がきゅっと詰まる。
以前の私なら、きっと冗談めかして彼の頭を軽く叩いていたかもしれない。でも、今はどうしようもなく彼を意識してしまって、そんな気分にはなれなかった。頬を膨らませるのが精一杯だった。
「うるさいわね。ただ、びっくりしただけよ」
私は拗ねたように唇を尖らせてみせる。耳の奥で、自分の血がさざめく音がする。それを知られたくなくて、努めて普段通りの、少しばかり棘のある口調を装う。それでも、心臓が早鐘を打っているのは、自分でも嫌になるほどよくわかる。彼が、あまりにも近すぎる。その存在が、息苦しいほどに大きすぎるのだ。
私がもぞもぞと身体を起こそうとすると、彼の大きな手が、まるで攫うように私の腕を掴み、乱暴に引き起こした。
その荒っぽい仕草にも、なぜか触れた箇所から伝わる温もりに、不器用な優しさを感じてしまうのはなぜだろう。彼の手が私の手に触れた瞬間、全身の血液が指先に集まるような、甘い痺れが走った。
スカートについた草を払いながら、小さな不満を囁くように口にする。
「あなたね、帰ってきていたのなら、顔くらい見せてくれたっていいじゃない。どうしてこんな、日の当たる草むらで寝こけていたの?」
彼は腕を組み、いつものように眉間に深い皺を刻みながら、少しだけ真剣な表情で考え込む。やがて、まるで大発見でもしたかのように、けれど口調はあくまでぶっきらぼうに、こう応じた。
「ふん、お前に仕事をさぼる口実を与えたくなかったからだ」
いかにも彼らしい、けれどあまりにも的確な言葉に、こめかみがズキンと疼く。何か言い返したくてたまらないのに、図星を突かれた焦りと恥ずかしさで、思わず頬が林檎のように赤らんでしまう。
「な、なんですって……!わ、私だって、ちゃんと執務に励んでいたんだから……!」
まるで猫が威嚇するように、私は尖った声で言い返す。けれど、実際は朝からずっと彼のことで頭がいっぱいで、羊皮紙の文字など少しも頭に入ってこなかったのだから、その反論は風に揺れる羽のように軽い。
ああ、どうしてこの人は、たった一言で私の心をこんなにもかき乱すのだろう。どうして私は、こんなにも必死になって、彼を探し回っていたのだろう。自分でも、その答えがまだ見つけられないでいた。
返事が途切れた私を、彼が不思議そうに見つめている。けれど、その射るような視線はどこか優しくて、また呼吸が乱れそうになる。彼はきっと、私が今、どんな顔をして、どんなことを考えているのかなんて、露ほども気づいていないのだろう。それでいい。まだ、今は、この複雑な想いの名前を、私自身でさえ見つけられないのだから。
「おい」
彼の声に、はっと顔を上げる。彼は少しだけ眉をひそめながらも、その瞳の奥には、春の陽だまりのような優しい光が揺らめいていた。
「浮かない顔だが、どうした? 俺の留守中に、何か厄介事でも持ち込まれたのか?」
聞き慣れた、低く落ち着いた声。それなのに、胸がきゅっと締め付けられるような甘い痛みが走る。その問いかけは、まるで私の心の奥底まで見透かしているかのように穏やかで、だからこそ、余計に言葉に詰まってしまうのだ。
きっと彼は、何も知らない。ただ、私を案じて声をかけてくれているだけ。その不器用な優しさが、今はもどかしくて、愛おしい。
実は、私には目下、どうしても向き合わなければならない難題があった。心の奥に、まるで刺さったまま抜けない棘のように引っかかっているそれを、彼に隠し続けることなど、到底できそうになかった。
これまでだって、私は彼に何もかも打ち明けてきたのだ。大切な“あの子”が、陽炎のように消えてしまったあの時も、彼にだけは、隠し事をするなんて考えられなかった。
「……実はね」
私の声が、微かに震える――
「お祖父様――先王陛下から、いくつか縁談を持ちかけられているの」
自分の口からその言葉がこぼれ落ちた瞬間、全身の血が、まるで氷になったかのように冷たくなった。たった一言。それだけで、私自身が抱える重圧を白日の下に晒してしまった。肩にのしかかる見えない何かが、ずしりと重みを増す。
彼はわずかに息を呑み、驚いたように私を見つめた。けれど、否定も肯定もせず、ただ静かに私の次の言葉を待っている。その深い、夜明け前の海のような瞳に見つめられると、妙に呼吸が苦しくなって、言葉がうまく紡げなくなる。
「あの……まだ、具体的な話というわけではないの。ただ、爵位をいただいて領主となったのだから、そろそろお婿様を迎えて、この身を固めるべきではないかって……。けれど、そう言われても、私、自分がどうすれば一番良いのか……それが、どうしてもわからなくて…」
苦笑いを浮かべながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。彼はしばらく黙ったまま、まるで遠い日の記憶でも辿るかのように、ふっと視線を庭の木漏れ日に移した。その瞳が、日の光を浴びて、蜂蜜色にきらめく。その指先が、無意識にか自身の顎のあたりをさまよい、やがて、何かを振り払うかのように短く息を吐いた。
「……俺が思うことは、お前が幸せであること。それだけだ」
それは、あまりにも当たり前で、そしてどこまでも優しい響きをもって、私の心を揺らした。けれど、彼の言う「幸せ」という言葉は、まるで春霞のようにふわりとしていて、掴もうとすると指の間からすり抜けていってしまう。すべてを肯定してくれているはずなのに、なぜか、その優しさが頼りなく、そして少しだけ物足りなく感じられてしまう。
「幸せ……ですって……?」
思わず繰り返した途端、まるでたくさんの蝶が一斉に羽ばたいたかのような、ざわざわとした想いが全身を駆け巡る。
彼が願ってくれる私の幸せと、私が心の奥底で渇望している幸せは、本当に同じ形をしているのだろうか。今、彼の射るような、けれど優しい瞳には、どんな想いが宿っているのだろう。そこまで知ることができない自分がもどかしくて、唇を噛みしめた。
「私……結婚、するべきなのかしら……?」
ほとんど思考する間もなく、ぽろりと、まるで熟れた果実が枝から落ちるように、言葉が口をついて出た。
自分でも、本当はどうしたいのかわからない。ただ、彼の答えが、彼の本当の気持ちが知りたくて、まるで幼子が親に問いかけるように、彼を見つめる。それなのに、彼は相変わらず静かで、ほんの少しだけ、何かを逡巡するように目を伏せると、やがて落ち着いた、けれどどこか硬質な声で言った。
「どう選ぶかは、あくまでお前の自由だ。何事も、自分が望むことを最優先に考えろ。周りの思惑に振り回されて、自分自身を犠牲にするような真似だけは、絶対にするな」
その言葉は、確かに正論で、私のことを心から尊重してくれている。そんなことは、痛いほどわかっている。でも、それはあまりにも当たり障りのない、まるで教科書から抜き出したような“年長者の指導的な指針”としか聞こえない。その言葉の鎧の奥に隠された。
――そうなるよね。今の彼は、あの頃のこと、何も覚えてないんだから。
でも、知ってしまえば、きっと彼の瞳の光は変わってしまう。近さよりも、遠さへと傾いてしまう。
胸の奥で棘がひときわ鋭く疼いた。でも、その痛みを彼に悟られたくない。私は彼の言葉を、まるで苦い薬でも飲むかのように噛みしめながら、ふと睫毛を伏せた。 そして、わたしはいつものように理屈で覆い隠してしまう。
「たしかに……この領地や、ここに暮らす民のことを考えると、周りの方々が期待なさるのもわかる気がするの。領主として、ちゃんと身を固めることだって、大切な務めの一つだものね……」
そう呟いた瞬間、彼の喉ぼとけが微かに上下した。何かを言いかけて、けれど飲み込んだかのようなその仕草に、私の胸が小さくざわめく。
私の抱える悩みを、彼なりに理解しようと努めてくれているのが、その揺れる瞳の奥から痛いほど伝わってくる。沈黙の合間を、まるで溜息のように微かな風が通り抜けていった。
「期待なんかに押し潰されるな。それは、結局のところ無責任な他人の願望だ。肝心なのは、お前自身がどう生きたいか、だ。それだけは、絶対に見失うんじゃないぞ」
はっきりとした、けれどどこか切ない響きを帯びた口調でそう言い切る彼の姿が、なぜか今の私には眩しすぎて、思わずその強い視線から目を逸らしてしまう。頭ではわかっている。わかっているのに、どうしてこんなにも心が揺さぶられてしまうのだろう。
「でも……私は、自分がどうしたいのか、まだ、はっきりとわからないのよ……」
まるで壊れ物を扱うかのように、小さく漏れた言葉は、春の陽炎のように頼りなく空気に溶けて消えていきそうだった。
彼の、射抜くように真っ直ぐな眼差しを背中に感じながら、私はもう一度、勇気を振り絞って顔を上げ、彼を見つめる。その瞳は、深い森の湖のように、少しも揺らぐことなく、相変わらず穏やかで、それがかえって私を言いようのない不安にさせた。
「あなたは……」
問いかけようとした言葉が、喉の奥でつかえて出てこない。何を尋ねたいのか、自分でもうまく形にできないまま、胸の奥にもやもやとした、甘くて苦い感情が渦巻いている。彼にどう思われたいのか。自分の未来が、本当はどうあるべきなのか。何もかもが、まだ曖昧な輪郭のまま、私の心の中で揺れ続けている。
結局、私は、まるで諦めたかのようにため息をつきながら、視線を足元のクローバーへと落とした。
「……そもそもね、結婚なんて、私にはまだ、おとぎ話のように実感が湧かないの。もちろん、いつかは、なんて頭の片隅では考えていたし、そんな幸せな姿に淡い憧れを抱いていなかったわけではないけれど……でも、今、本当にそれでいいのかって、どうしても考えてしまうの。私の幸せって、いったい何なのかしら…」
彼は何も言わず、ただ、私の言葉の一つ一つを、まるで大切な宝物を拾い集めるかのように、じっと聞いていた。
その静けさは、いつものように優しく、けれど今日は、その沈黙が、胸に小さな棘を刺すような痛みをもたらす。ただ穏やかに包み込まれるだけでは満たされない、何か。言葉にならない、渇望のようなもの。
もっと明確な、彼の心の奥底からの言葉がほしい――そんな、か細い願いが、心の水面に波紋のように広がっていく。彼の存在は、昔から、ただそばにいてくれるだけで私を支えてくれる、大きな大樹のような安らぎだった。それでも、今は、それだけでは足りないと、それ以上を強く望んでしまう自分がいる。具体的には言葉にできないけれど、その“答え”を、彼に求めてしまう自分が、確かにここにいるのだ。
けれど、目の前の彼は、相変わらず私をただ静かに見つめているだけだ。その青い瞳は、どこまでも深く優しいのに、私の心の奥底を覗き込もうとはしない。私の幸せを願ってくれているのは、痛いほどわかる。それでも、この胸の奥で、まるで羽化したばかりの蝶のように震えるこの気持ちには、触れてはくれないのだろうか、と戸惑ってしまう。
ただ一緒にいられるだけで、心が救われるような気がしていたのに。それだけで、満たされていたはずだったのに。今は、それだけじゃ、ぜんぜん足りない。これは、欲張りなのだろうか。それとも、許されない我儘なのだろうか。
今にも涙に変わりそうな熱い息を、そっと飲み込みながら、私はゆっくりと唇を閉ざした。
彼もまた、何か言葉を探すかのように、ふと視線を伏せたように見えた。沈黙の中、足元の草が風にそよぐ音ばかりが、まるで私の心のざわめきを映すかのように、切なさを増幅させて耳に届いた。
重苦しい沈黙が、まるで鉛のように私たちの間に降りてきた。私はどうしてもその場に耐えきれず、胸の奥から、まるでこぼれ落ちるように、ぽつりと問いを漏らしてしまった。
「ねぇ、もし私が本当に、誰かと結婚しなくてはいけないような状況になったとしたら、あなたは、どうするの……?」
言葉が唇からこぼれ落ちた瞬間、彼の瞳が、ほんのわずかに、けれど確かに揺らいだのを、私は見逃さなかった。けれど、その穏やかな表情自体は変わらない。その奥底に隠された本当の心情をうかがい知ることはできず、私の方が緊張で息が苦しくなっていくのを感じた。
「俺が、どうするか、か……」
彼は低く、まるで自分自身に問いかけるように呟き、それから、何かを振り払うかのように、短く息を吐いた。そのわずかな時間さえ、私には永遠のように長く感じられ、こめかみの脈が、早鐘のように打っていた。
彼は、私にとって、かけがえのない特別な存在だった。まだ幼かった私を、亡き親友の忘れ形見として、まるで自分の娘のように温かく導き、魔獣狩りに明け暮れていた孤独な私の傍らで、いつも静かに、けれど力強く支え続けてくれた。その揺るぎない強さと、不器用なほどの優しさに惹かれ、いつしか年月を重ねるうちに、私は彼を“家族”という枠を超えた、もっと特別な存在として意識するようになっていた。けれど、当時の私はまだあまりにも幼すぎたのだ。
そして、いまだに、その感情が一体何なのか、自分の心の中でしっかりと名前を付けてあげられないままでいる。だからこそ、彼がどんな答えを、どんな言葉を私にくれるのかが、今の私には、何よりも大切で、そして少しだけ怖かった。
やがて彼は、腕を組んだまま、ふっと視線を足元の草花に落とし、それから、ゆっくりと、まるで大切な秘密を打ち明けるかのように、静かに口を開いた。
「俺は……お前の意思を、尊重する」
それは、いつもと変わらない、彼の優しさだった。私の自由な意思を、何よりも一番に汲み取ってくれる、その穏やかで揺るぎない姿勢。けれど、その言葉を聞いた瞬間、私の喉の奥が熱く詰まった。もっと違う言葉を、彼の心の奥底からの、もっと剥き出しの言葉を、心のどこかで求めてしまっている自分に気づいてしまったから。
「どんな選択をしようと……それを見守り続ける。それが、俺の、お前に対する変わらぬ誓いだ」
彼の言葉は、どこまでも真っ直ぐで、一点の曇りもなく、心に清流のような穏やかな響きをもたらすのに、不思議と、その温もりが、まるで春の淡雪のように切なく儚く感じられた。
私が本当に望んでいたのは、ただ、こうして彼に受け止めてもらうことだけだったのだろうか。彼の声を聞いているだけで、目の奥が熱くなるのを止められないのに、私の口をついて出たのは、まるで吐息のように短い言葉だった。
「……そっか」
たったひとことが、今の私には精一杯だった。喉が詰まるようで、それ以上の言葉が出ない。彼が示してくれるであろう“正解”を、心から待ち望んでいたわけではないのに、なぜこんなにも胸が苦しくなるのだろう。私の中で渦巻いている、この名前のない感情が、もやもやとした姿の見えない不安と複雑に絡まり合い、答えのない焦燥感を生み出していく。
どうにかして、この胸のしこりを振り払いたくて、ふと頭に浮かんだのが、かつて、彼と何度も繰り返した、あの剣を振るうことだった。
「ねぇ……久しぶりに、剣で手合わせしてもらえない?」
どこか拗ねたような、それでいて微かな甘えの響きを帯びた声が、自分でも意外なほどに澄んで庭の空気に響き渡り、耳に残る。
彼は一瞬、目を丸くし、戸惑ったように私を見つめたが、すぐに、まるで悪戯っ子のような、それでいて全てを包み込むような優しい笑みを浮かべて、「いいだろう」と、力強く頷いてくれた。その、ほんの些細な笑みを見ただけで、私の心に、まるで暗闇に差し込む一筋の月光のように、確かな光が差し込んできた気がした。
広い庭に出て、私たちは、まるで古の儀式に臨むかのように、それぞれの剣を静かに構える。その佇まいは、これから始まる剣戟の激しさを予感させながらも、どこか神聖な空気さえ漂わせていた。
私が手にする“白きマウザーグレイル”は、まるで月の光を凝縮したかのような、柔らかな光のヴェールをその刀身に纏い、刃の代わりに、触れるもの全てを癒すかのような穏やかな力を宿している。一方、彼が携える“白きガイザルグレイル”は、見る者の心を射抜くほど鋭く、それでいてどこか寂寥感を帯びた輝きを放ち、あらゆる邪なものを一刀のもとに断ち切ることができるという。
同じ純白の名を冠する剣でありながら、まるで光と影、月と太陽のように正反対の性質を宿しているからこそ、二振りがこうして並び立ったとき、その結びつきは、言葉では言い表せないような不思議な調和と共鳴を生み出すのだ。
どこまでも優しく、全てを包み込み護り続けるのが私の剣だとすれば、どんな困難や障害も恐れることなく突き破り、新たな道を切り拓いていくのが彼の剣。あまりにも対照的だからこそ、私たちは、互いの足りない部分を補い合い、支え合ってこられたのかもしれない。
青々と葉を茂らせた木々が、初夏の柔らかな風をその身にまとい、さわさわと心地よい音を立てて揺れている。庭に満ちる空気は、まるで古樽で熟成された葡萄酒のような、深く、それでいてどこか微かな苦みを帯びた初夏の香りに満ち、木々の間を吹き抜ける風は、ひんやりとした石の肌触りを思い出させた。
彼とこうして真剣に向き合うと、懐かしさと共に、体の芯から熱いものがこみ上げてくるのを感じる。あの頃の私は、ただひたすらに強くなりたくて、父を亡くしたどうしようもない喪失感を埋めたくて、ただ彼の広い背中だけを必死に追いかけていた。
今こうして、彼の射るような、けれど優しい視線と真正面から向き合うと、昔とはまったく違う種類の緊張感が、まるで微かな電流のように肌を駆け抜けていくのを感じる。握りしめた剣の柄よりも、ずっと強く、彼の瞳に意識が集中してしまう自分がいる。それがもどかしくて、けれど決して悪い気分ではない。むしろ、この一瞬一瞬が、愛おしくてたまらないのだ。彼との間に流れる、この張り詰めた、けれどどこか甘やかな空気が、私の中で、言葉にできない大きな安らぎとなって、心の隅々まで広がっていく。
この剣を振るっている間だけは、さっきまで私の心を執拗に苛み続けていた、あの言いようのないもどかしさを忘れられるかもしれない――そう信じて、私はそっと一歩を踏み出す。
けれど、心の奥底では、彼を想う、まるで熟しすぎた果実のような甘く切ない疼きが、小さな火種のように静かに、しかし確実にくすぶり続けていた。彼と共に、こうして剣を交えることができる、このかけがえのないひと時の尊さを、一つ一つの呼吸と共に噛みしめながら、私はそっと剣を振りかぶる。
二人の剣の鍔が、まるで呼び合うかのように、カチン、と澄んだ音を立てて触れ合った。その瞬間、ふわりと、まるで陽炎のように淡い記憶が蘇ってきた。
そして、“あの子”の、鈴を振るような、けれどどこか切ない声が、胸の奥で優しく、けれどはっきりと囁いた。まるで、触れ合った剣の残響に乗って届いたかのように。
《《あなたのしあわせが、わたしのたったひとつの願いなの……》》
少しだけエコーがかかり、遠い岸辺の波音のような微かなノイズと、澄んだ鈴の音、そして、ほんのかすかな風鈴の音が幾重にも重なり、潮騒の余韻を残す。
《《たとえ、わたしが消えてしまうとしても、》》
《《それでも、ずっとずっと、あなたのことが大好きだから、》》
《《遠くからでも、ずっと見守っているよ。》》
《《あなたならきっと、だいじょうぶ。わたしには、ちゃんと見えるの。》》
《《あなたの隣に、とても大きくて、頼もしい木が立っているのが。》》
《《その木はきっと、あなたをいつだって守ってくれるから。きっとしあわせになれるよ》》
懐かしく、切なく、けれど、胸の奥を春の日差しのように温めてくれる声が、私の心を優しく震わせる。まるで、曇り空の隙間から差し込む一筋の光芒のように、そこには希望の色が滲んでいた。その言葉は、途切れることのない、清らかな光の帯のように、私の背中をそっと、しかし力強く押してくれる。
私はそっと息を整え、剣の柄に込められた重みを感じながら、静かに目を閉じた。彼の存在をすぐ近くに感じながら、そして、あの子の遺してくれた温かい言葉を、まるで大切な宝物のように胸に抱きながら、もう一度、強く剣を握り直す。どんな未来が、この先に待ち受けていようとも、きっと私は大丈夫だと、夜空に輝く一番星に誓うように。
【第一章 登場キャラクター紹介】
ミツル・グロンダイル
本作の主人公。黒髪と緑の瞳を持つ、小柄で謎めいた少女。外見的に見て、年齢は十二歳程度と思われる。辺境都市エレダンで「黒髪のグロンダイル」と噂される凄腕の魔獣狩り。漆黒の翼を展開し、「黒鶴」と呼ばれる異能で魔獣を殲滅するが、戦闘後は穏やかな表情を見せる二面性を持つ。腰の白い剣と心を通わせている様子がうかがえる。
茉凜
ミツルの持つ「白きマウザーグレイル」に宿る存在。ミツルが剣に向かって語りかける相手であり、彼女と感覚を共有しているらしい。その正体や詳細は第一章では謎に包まれている。
白きマウザーグレイル
ミツルが父の形見として持つ、刀身のない純白の長剣。茉凜が宿る器であり、ミツルの異能と深く関わっていると思われる魔導兵装。
カイル・レドモンド
エレダンを拠点とする冒険者パーティーの若きリーダー。大柄な剣士。仲間思いで責任感が強く、絶望的な状況で仲間を逃がすために殿を務めようとした。ミツルに命を救われる。
エリス・ケールス
カイルのパーティーの弓兵。金髪ポニーテールの女性。現実的でやや皮肉屋だが、仲間への情は深い。戦闘後は休息と清潔さを強く求める。
フィル・ラマディ
カイルのパーティーの風属性魔術師。少年のような外見。魔石の価値を見極めるなど、魔術師としての知識を持つ。ミツルの力の異常性にいち早く気づき、強い興味を示す。
レルゲン・フォースト
カイルのパーティーの回復術師。銀白色の髭をたくわえた初老の男性。経験豊富で、街の噂にも通じている。ミツルを「黒髪のグロンダイル」の噂と結びつけた。
ヴィル・ブルフォード
エレダンの酒場に現れた、金髪無精髭の中年剣士。ミツルを子供扱いし挑発するが、彼女の父ユベルの旧友であることが判明。圧倒的な剣技を持ち、「雷光」の異名を持つ。ミツルの力を試し、認め、彼女の支えとなることを約束する。
ユベル・グロンダイル
ミツルの父(故人)。ヴィルの旧友であり、かつて「中央大陸最強」と謳われた伝説の騎士。ミツルを守って魔獣との戦いで命を落とした。その過去には謎が多い。
メイレア・レナ・ディウム・フェルトゥーナ・オベルワルト
ミツルの母(行方不明)。リーディス王家の王女であったことが示唆される。三年前、マウザーグレイルの光と共に姿を消した。ミツルの旅の大きな目的。
グレイハワード様
第一章の最後に登場する、白いローブを纏った身分の高そうな人物。老従者から「黒髪のグロンダイル」に関する報告を受けている。その正体や目的は不明。