一話目
アリの巣というものは、とても精巧な造りをしているのだそうです。餌場やゴミ捨て場や死体置き場が幾何学的にきちんと配置されていたり、または温度管理がしっかりとされていたりだとか。
多分、ほとんどの人がこういった巣は、女王アリから命令されて、統制的な体制の基に造り上げられているのだとそう考えるのじゃないでしょうか?
でも、だとするとおかしいのです。
だって、これだけの精巧な巣を造る為には、人間と同等、いえ、計算機も何も用いてない事を考慮するのなら、人間以上の高度な計算技術が要求される事になります。果たして、女王アリにそれだけの事ができる知能があるのでしょうか?
とてもそうは思えません。
実は、女王アリには、命令を出す能力なんてないのだそうです。女王アリには、ただただ生殖の機能があるだけらしいのです。つまり、アリ達を産み続けるだけ。
では、アリ達はどうやって、精巧な巣を造っているのでしょうか? 指令は一体、何処から出ている? アリ達の知能に相当する部分は何処にあるのでしょう?
なんと、それはアリ全体らしいのです。アリは、巣全体で一つの頭脳になっている。そう呼んでしまってもいい……、いえ、そう呼ぶしかないらしいのです。
ただし、ここで人間と同じ様な意識を持つ頭脳をイメージすると、それは間違った認識になってしまうらしいのですが。
アリ達は個々を観れば比較的単純な作りをしています。ところが、それら単純なアリ達が膨大な数集まり、そして相互作用をすると、そこに自己組織化現象というものが起こって、高度に計算されたかのように見える仕組みが自動的に創発をされる……。なんでも、そういった事が起こるらしいのです。
これは群知能だとか、集団的知性だとか言われる現象の一つで、実を言ってしまうと、わたし達の身の回りにたくさん見られる現象なんだそうです。
例えば、脳。
脳は細胞と細胞の集まりです。細胞一つには、当たり前ですが、高度な知能など備わっていません。ところが、それらがたくさん集まって結び付くと、ご存知の通りに高度な知能が発生します。
この現象のキーワードは、要素と、その要素の膨大な数、そしてそれら要素同士の相互作用。そういった条件が揃うと、無秩序の混沌から秩序が創発される…… そうなんです。ただし、もちろん、ただ滅茶苦茶にたくさんの数の要素が相互作用するだけじゃ、何にもなりません。大切なのは、そこに組織化が起こる事。つまり、組織化が起こるような何かしらのルールが、要素同士の相互作用に必要らしいのです。それらがなければ創発現象は起こらない。
そして、この現象はわたし達の暮らす人間社会ででも見られるそうです。例えば都市の機能。都市が生まれた事で、膨大な数の様々な人間が交流するようになると、技術は革新的に進歩をしました。技術者の集団…… ギルドのような職能集団が生まれ、更にその集団と集団が連携をして、それまで人間には手に入れられなかったような新しい生産物が作り出されるようになる。または、商店街が生まれたり居住区が生まれたり、安全な場所が生まれたり危険な場所が生まれたり。これらはみな、自己組織化現象の産物と言えるらしいのです。
もっとも、人口密度があまりに高くなり過ぎれば、その機能は失われてしまうだろうと予想できるのですが。
――この話を教えてくれたのは、吉田君という同じクラスの男子生徒でした。この話を教えてくれた時、吉田君はこんな事もわたしに伝えました。
『かなり前に、昔の下町は安全だったってテレビであるコメディアンが言っていたよ。泥棒が現れれば直ぐに分かる。見知らぬ人間がいたら、それが犯人だって。これは、下町は近所付き合いが盛んで、それでお互いが顔見知りだから、地域の安全性が保たれているって事だよね。この話は、ジョークの一つとして語られたものではあるけど、相互作用の重要性をとても分かり易く伝えてくれていると思うよ』
人が集まって影響を与え合えば、前述した通り、そこに自己組織化現象が起こります。でも、人がただたくさん集まるだけじゃ、自己組織化現象は起こりません。
吉田君は、多分、その事を強調したかったのじゃないかと思います。
たくさん人が集まっていても、そこに住む人々が、影響を与え合わなければ、つまり交流をしなければ、自己組織化現象による恩恵は期待できないのです。
『だから、最近のインターネットを使った地域交流のシステムには、大きな意味があるのだと僕は思うのだよ』
今の時代。
……都市で暮らす人々は、いつの間にかに近所付き合いを忘れてしまいました。隣で暮らす人達がどんな顔をしているのかすら知らないなんて事もある。これでは、自己組織化現象が起こるはずはありません。そして、自己組織化現象が失われる事には様々なデメリットがあるのです。
それで最近、活用され始めた地域密着型のインターネットの有効性を吉田君は主張しているのです。
インターネットで情報交換が活発になるのは何も遠く離れた場所に対してだけじゃありません。近所にいる人間との交流だって活発にする事ができるのです。そして、交流を活発にすれば様々な効果が期待できます。例えば、子供の面倒を近所で協力したり、お年寄りの世話をしたり、地域の目によって幼児虐待などの犯罪を防ぐなんて事もできるかもしれない。つまり、自己組織化現象によって、教育費や福祉や防犯にかかるコストを抑えられる可能性があるのです。もっとも……
『自己組織化現象は悪く作用する場合もあるから、気を付けないといけないけどね。単純な例だと、人間関係のいざこざとかね。巧く活用するのには、まだまだ、長い試行錯誤が必要だって思うよ』
そうなんです。
地域が活発に交流する事には、いい事ばかりがある訳じゃないのです。それに、人付き合いが苦手な人達だってたくさんいるでしょう…… 実を言うのならわたしは、そんな人間関係が苦手な人間の内の一人だったりするのですが。
わたしは小さな子供の頃から、一人で過ごす事を好みました。だからなのか、地域密着型インターネットの一環として、企業で用いられるようなイントラネットに近いシステムがわたしの住んでいるマンションにも用いられ始めると、わずかばかりの違和感を覚えるようになってしまったのです。
それまでは、集会場や休憩所などの共有スペースを利用する人はほとんどいなかったのに、突然、利用者が増え始めました。煙草を吸ったり、お茶をしたりしながら、楽しく談笑している人達の姿が目に入るようになったのです。
疎外感。
いつも独りでいるわたしは、そういった光景を目にするとそんなものを感じます。
同じ様にネットに繋いでいるはずなのに、どうしてこれだけの差が生まれてしまうのでしょう? わたしには、ああいう人達がどこでどう知り合って、一緒に遊ぶようになったのかがさっぱり分かりませんでした。
怖がってばかりいるからかな?
そんな風にも思います。
人との関係を怖がって、触れないように触れないようにしているから……。
(わたしは…)
わたしの家にお父さんはいません。わたしが小さな頃に離婚をして、お母さんが一人でわたしを育ててくれています。お金を稼ぐ為にお母さんは働きに出ているので、家に帰っても誰もいません。 ……お父さんの事はよくは覚えていないけど、でも、わたしの中では、なんだかとても恐いイメージがあります。どんな理由でかは分かりませんが、お父さんから叩かれているシーンが強くわたしの心に残っているからです。
お母さんは詳しくは話してくれないけれど、もしかしたら、離婚した理由はそんな事と関係があるのかもしれません。
そんな家庭の事情に加えて、先にも書いたように、わたしは決して友達が多くいるタイプではありません。今も昔も。だから、本来ならわたしは、とても孤独な子供時代を過ごすはずだったのかもしれないのです。ですが小さな子供の頃のわたしは、それほど孤独ではなかったのでした。それは、あるお婆さんがわたしと一緒にいてくれたからです。
子供の頃、わたしと同じマンションに、一人暮らしのお婆さんが住んでいました。わたしはそのお婆さんがとても好きでした。そのお婆さんは、わたしの唯一の友達で、同時に母親代わりでもありました。
――でも。
そのお婆さんは、わたしが中学生の頃に亡くなってしまったのです。
どうして一人暮らしをしていたのかとか、身内がどうだとか、詳しい事は全然知りませんでしたが、それでもその悲しみは、本当の自分の家族が亡くなったかのような深いものでした。安心して接する事のできる数少ない大切な人間を、わたしは喪ってしまったのです。その喪失感は並大抵のものではありませんでした。
そしてそれから、わたしは本当に孤独なってしまったのです。だから、他の皆が活発に交流している環境は、居心地が悪かった。地域密着型インターネットによって、皆が相互に影響を与え合っている環境は。
……わたしが高校に進学する頃になると、地域密着型のインターネットは半ば、常識のような感じになっていました。マンションだとか町内だとかの狭い範囲でイントラネットのようなものが在り、そのイントラネット同士が結び付いて、市内をカバーするエクストラネットのようになっている。このネットは通常のインターネットととも繋がっているので、正確にはエクストラネットとは呼べないのだそうですが、それでも、利便性や接続速度を考えると地域性の強いネットである事に変わりはありません。
因みに、このネットは、他の地域を見る場合にはセキュリティレベルが自動的に上げられるので、情報の過剰流出を抑えられます。もちろん、個人で公開したい情報の制限も行えるようになっています。ただ、それで問題を全て解決できるほど甘くはないみたいで、連日のように様々な事件が起こって、話題になっていたりもしているのですが。
これとは逆に、情報を積極的に公開したい場合は、そういう為の場が別に設けられています。もっとも、個人でそれをしたがる人はあまりいなくて、大体は、商売絡みのようです。
この地域密着型のネットのお陰で、わたし達は地域の情報を効率良く得る事ができるようになりました。美味しいお店だとか、安いお店だとか、得な情報が分かり、逆に評判の悪い所を避ける事もできる。もちろん、これをお店なんかが宣伝に利用していたりもします(悪い噂を流された、と訴訟問題に発展するケースも多いみたいです)。
そして、このシステムのお陰で、地域共同体内で協力して、教育や医療や福祉なんかが行われるようにもなったのでした。問題はたくさんあるにせよ、多分、これはいい事なのだろうとは思います。だけど、この恩恵に与れるのはインターネットをよく利用する人達に限られてもいるのです。いえ、それは言い過ぎかもしれません。間接的には利益を得ているのかもしれない。でも、それでも、インターネットを利用する習慣のない人が、半ば疎外されているような感じになってしまっているのは事実だと思うのです。
……わたしがある子供の幻を見たのは、ちょうどそんな事を熱心に考えていた頃のことでした。
幻。
多分、幻だったと思うのですが。
夕闇に包まれ始める時間帯だったと思います。家に帰る途中、マンションの公園をなんとなく見てみると、そこで子供が一人で遊んでいたのです。こんな時間帯にたった一人で、と少し変だなとは思いましたが、多分、わたしは自分自身と重ねて、その子供はとても孤独なのかもしれない、とそんな風に考えました。
わたしと同じ様に、友達がいなくて、家族にも恵まれなくて、それで、こんな時間帯なのに独りで公園で遊んでいる。
そう思ったのです。
――その時でした。子供が突然にわたしを見たのです。いえ、単にわたしがそう思っただけなのですが。それから、子供は突然に駆け出しました。
何処に?
なんでか、わたしはそれが凄く気になってしまって、気が付くと子供の後を追って自分も駆けていたのです。子供はマンションを出ると、そのままマンションの直ぐ近くにある民家に駆け込みました。
あの家の子だったのかな?
もしかしたら、怖がらせてしまったのかもしれない。悪い事をしたな、と思いつつ家に帰ると、わたしは地域ネットでその家の事を調べてみました。幸い、家族構成くらいは公開されていて、見ると、お婆さんが一人で暮らしている事になっていました。
変だな、とわたしは思います。子供は住んでいない。それとも、あの子は親戚か何かで、たまたま遊びに来ていただけだったのでしょうか?
わたしはその後も、なんだかもやもやとした思いが抜けないで、妙にその家のお婆さんの事が気になってしまっていました。ただの空想でしかないのは分かっていましたが、もしかしたら、あの子供は昔の自分自身で、そして一人暮らしのお婆さんの家に今の自分を導こうとしたのじゃないか、とそんな事を考えてしまっていたのです。
もちろん、その家に住んでいるだろうお婆さんを、子供の頃いつも一緒に遊んでくれていた、同じマンションのお婆さんに重ねていた事は言うまでもありませんし、高校に進学したわたしが、相変わらずに孤独だった事も影響したのかもしれません。
……そして、時間が経つと、わたしはいつの間にかに、その家のお婆さんと知り合いになりたいと思うようになっていたのです。
それで、ある日に、わたしは思い切ってそのお婆さんにメールを出してみる事にしたのです。同じ地域限定ですが、メールフォームから伝えたい内容を送信できるシステムがあるのです。最大限の勇気を振り絞ってみたつもりでした。
メールの内容は、材料を持参するので、簡単な料理を教えて欲しいといったものにしました。料理は誰でも作れるだろうカレーを選びました。
今にして思えば、初めは挨拶ぐらいにするべきだったと思います。ですが、その時はそんな事を考える余裕はなかったのです。
返事は中々、返ってきませんでした。その間で、色々な事をわたしは考えました。メールの返し方を知らないのかもしれない。もしかしたら、そもそもメールの見方も知らないのかも。いや、ネット上に家族構成が公開されていた事を考えるのなら、それくらいはできるはず。とか。
しばらく待ちましたが、いつまで経っても返事がないので、日時を指定し、その日に訪ねます、とそうメールを送ってしまいました。勇気を出したというよりも、返事を待ち続けるストレスに耐え切れなくなってしまったのです。
もし、メールの返し方が分からないのなら、わたしが行って教えてあげなくちゃいけない。とか、わたしは自身にそんな言い訳をしました。
そして、日曜の朝の十時半辺り、わたしはそのお婆さんの家を訪ねたのです。
チャイムを鳴らしても、しばらくは反応がなくて、わたしはやっぱり帰ろうかと悩んでいたのですが、ちょっと経つと中から気配がしました。そして、なんだか機嫌の悪そうな表情をしたお婆さんが、中から顔を出したのです。
「あんた、なんだい?」
そのお婆さんは、開口一番にそう言いました。
わたしは戸惑ってしまいます。
「あ… れ、の」
元より人間関係が苦手で、その上こういう状況は慣れていなかったので、上手く言葉が出てはきませんでした。
「め、メールを送った…」
お婆さんは、訝しげな表情をしてわたしを見ていましたが、やがて、状況を察してくれたのか、
「メール? ああ、あの、パソコンとかいうヤツのなんかかい。なんだか分からないけど、私のとこに送ったのかい?」
と、そう尋ねて来ました。わたしは、それでようやく、少しは落ち着く事ができました。
「そ、そうです。今日、訪ねますってメールを送って…」
そのわたしの言葉を聞くと、お婆さんは少し反応を見せました。ピクリと顔を動かしたのです。それから、わたしの持っているカレーの材料を一瞥しました。微かに、ふん、と鼻から息を漏らします。
「そりゃ、悪かったね。あんなパソコンなんか、わたしゃ滅多に触らないから知らなかったよ。娘が偶に来た時くらいしか、あれが動く事はないんだ。
それで、あんたは今日は、何をしようっていうんだい?」
娘さんが?
それを聞いて、わたしは自分が勘違いをしていた事を悟りました。多分、ここにお婆さんが一人で暮らしている事を公開したのはその娘さんだったのです。一人暮らしをしている自分の母親を心配したのかもしれません。お婆さんが一人暮らしをしている事だけでも地域に知らせておけば、何かあった時に誰かが助けてくれるかもしれない、とでも思ったのでしょう。
「い、いえ……、あの、料理を教えて、もら、おうと思って…」
メールの内容が伝わってなかった……。という事は、全く突然にわたしはこのお婆さんの家を訪問してしまった事になります。わたしはそれが恥ずかしくて、真っ赤になりながらそう言いました。すると、お婆さんはこう答えました。
「料理? 私は料理なんて、そんなに得意じゃないけど、でも、折角材料まで揃えて来てくれたっていうのなら入ってもいいよ。もったいないじゃないか」
そしてそれから、お婆さんは機嫌を悪そうにしながらも、わたしを家に上げ、カレーの作り方を教えてくれたのです。緊張をしてる所為で、わたしが何度もミスをしたので、お婆さんは文句をたくさん言いました。出来上がったカレーは、二人で食べました。ちょうど、お昼ご飯の時間でしたから(もちろん、そういう時間を狙ったのですが)。カレーの出来はそれほど良くはありませんでしたが、それでもお婆さんは全部を食べくれて、ちょっとだけ「ありがとね、昼食代が浮いたよ」とわたしにお礼を言ってくれました。わたしはパソコンの使い方……、メールの見方だけですが、を教えて、お婆さんの家を去りました。