『後・紡がれ、続いていく』
アルシェがイェルドと別れて、三年の月日が流れた。その間、アルシェはリグラント王国から離れ、点々と旅をしながら過ごしていた。
他者から白髪が茶髪に見えるように幻影魔法をかければ、誰も自分を気味悪がることはない。
最初から幻影魔法を使うことが出来れば、生きるのも楽だっただろうが、この魔法は聖剣に加護されているからこそ使えるものだ。おかげで誰にも勇者だと気付かれずに済んだ。
……でも、見た目がずっと十六歳のままだから、同じ場所に留まれないのが難点だなぁ……。来たばかりだけれど、この国にもあまり長居しない方がいいかも……。
アルシェは名前を「アル」に変え、改めて冒険者として冒険者ギルドで登録し直した。聖剣を持った剣士だとかなり目立つので、魔法使いとして冒険者業に勤しんでいる。
たまに他の冒険者と組む時もあるが、決してパーティーに入ることはなかった。もう、「仲間」はこりごりだからだ。
そして、勇者「アルシェ」は表舞台から消え、その姿を再び見た者は誰もいない──というのが世間の認識だ。
それでいい。この世界に搾取されるだけされて、守った人間達から蔑まれていたアルシェはもう、いないのだから。
……この先もずっと、幻影魔法を使ったまま生きていくことになるんだろうな……。
素朴な見た目をしているアルシェの姿を気に入っているのか、好意を向けてくる者もいたが、アルシェは断っていた。
偽りの姿のままを愛されても、それは果たして、真の愛と呼べるのだろうか──。
また、自分はその相手を心から愛せるか、という疑問もあった。
何故ならこの三年間、アルシェの心はずっと一人だけに向けられていたからだ。
どんな時も、何をしていても、アルシェの頭にはイェルドが浮かんでくる。この気持ちを拭い去り、忘れることなんて出来なかった。
……イェルド、元気にしてるかなぁ。荒事に巻き込まれずに、イリスちゃんと一緒に穏やかに暮らしていると良いけれど……。
アルシェがイェルドへと渡したお金は、平民の一家が過度な贅沢をしなければ、十年は余裕で暮らせる額だ。
……きっと、イェルドなら大丈夫だよね。私よりもしっかりしていたし。
うん、うんと頷きながらアルシェは歩く。ここ三年でアルシェの家事と掃除の技術も少しだけ向上したが、イェルドには敵わない。
イェルドは家事も掃除も出来るし、アルシェとは違って細かい作業も得意だ。どこで働こうとも、きっと活躍できるに違いない。
……うん、大丈夫。イェルドは──幸せなはずだもの。
一人で出した答えを飲み込むように無理やりに納得させ、今はイェルドのことは忘れようと首を横に振る。
……さて、今日の夕食はどうしようかな。外食ばかりだとお金がかかるし、自分で作ろうかな……。
元勇者とは思えない程にアルシェは慎ましく、そして財布の紐はあまり緩めずに暮らしている。
間借りしている部屋へと帰る前に、市場に寄って買い物でもしようかと、アルシェは人が賑わう通りへと向かった。
ふと、前方からフードを目深に被った人物が歩いてくるのが見えた。
アルシェと同じようにフードを被っている冒険者は結構多いので、特に気に留めることはなかった。
フードを被った人物とすれ違った時だ。息を飲んだ音が後ろから聞こえたと思えば、絞り出すように一つの言葉が呟かれる。
「──やっと、見つけた」
穏やかで低い声だった。知っているような、けれど知らないような声色はアルシェの耳に残り続ける。
どさり、と荷物が乱暴に下ろされた音が響いたと思えば、地を強く蹴る音が聞こえた。
何事だろうかと、アルシェは軽く確認をする気持ちで少しだけ振り返る。
その瞬間、アルシェの視界は急に暗くなった。
「っ!?」
気付いた時にはアルシェは誰かの腕の中にいた。
一体、どういうことかと訊ねる前に頭上から声が降ってくる。
「アルシェ。──君を、殺しにきた」
強く抱きしめてくる相手が、アルシェの耳元でもう誰にも呼ばれなくなった本当の名前を呼んだ。
どくんっ、と心臓が跳ね上がり、アルシェは息を飲んだ。まるで魔法でもかけられたように、身体が痺れて動けなくなってしまう。
自分は、知っている。この声も、匂いも。名前の呼び方も。抱きしめた時の温度も。
全部、全部、知っている。
「な、んで……」
アルシェを抱き締めていた腕が解かれる。相手はフードをゆっくりと脱いだ。
そこにいたのは、イェルドだった。
身長はとっくに追い越されているし、声変わりだってしている。顔立ちも前より凛々しくなっているし、ひょろひょろと細かったはずの体付きもしっかりしていた。
変わっているけれど、変わっていない。自分が唯一、大切だと思った相手が目の前にはいた。
「どうして、ここ、に……」
驚きと、表現しがたい感情がごちゃまぜになってしまい、掠れた声で問いかけてしまう。
イェルドは少しだけ潤んだ瞳で、困ったように笑った。
「アルシェにドルーシェン共和国へと送られてから、ずっと君を探していたんだ」
海よりも深い青い瞳がアルシェだけを捉え、見つめてくる。
幻影魔法を施しているというのに、彼の瞳には「アルシェ」として映っているらしい。まさか、見分けられるとは思っておらず、アルシェは一歩、後ろへと下がった。
「君の性格から立ち寄りそうな場所を片っ端から調べて、探していた。どれだけ時間を費やそうとも、アルシェを絶対に見つけたかったんだ」
三年も自分を探し続けていたというのか。諦めることなく、ずっと。
どうしようもなく嬉しいと思う感情が、言い表せない苦しさと混ざり合っていく。
「っ……。何で、探したのっ……。私を探さなくても、イェルドは……!」
幸せになれるだろう、と言いたかった。いや、言えるはずだったのに、言えなかったのだ。
「忘れてくれれば、良かったのに……! 私のことなんて、忘れて……」
「忘れてやるものか!」
アルシェの言葉をイェルドが切った。
「何度、俺の前から消えようとも絶対に忘れたりしない。……忘れられるわけ、ないだろ」
離れようとしたアルシェの両腕をイェルドが捕まえてくる。
「言っただろう、君を殺しにきたって。……三年前のあの時、俺はまだ子どもだったから、アルシェに向けている気持ちがどんなものか分かっていなかった。でも、今はちゃんと分かる。ちゃんと、言える」
イェルドは一つ、深く息を吐く。
そして、重なる視線を逸らさず、彼は言葉を続けた。
「俺は、アルシェが好きだ」
迷うことなく、何よりも真っ直ぐな言葉で、彼はアルシェの心臓を射抜いていく。
「本当は寂しがりやなところも、優しさを覚られないように隠すところも、全部好きだ」
アルシェの両腕を捕まえている手に力が籠められる。それはまるで、もう逃がさないと言っているようだった。
本当なら転移魔法を使って、イェルドの前から逃げることは出来る。でも、出来なかった。
「もう、君の心を誰にも殺させたりしない」
今まで閉じていた氷の扉がじわり、じわりと解かされていく。温かいものが、染み込むようにゆっくりと広がっていく。
「君を愛する覚悟は出来ている。だから、どうか、頷いて欲しい。──君の隣にいたい。一緒に、生きてくれないか」
それは、夢のようだった。
いつか、いつか、と願っていた望みでもあった。
誰も自分を認めてくれない世界で、どこかにきっとアルシェを愛してくれる人がいる。
そんな保障はないのに、幼い子どもが描いた夢を目指すように、アルシェは信じ続けた。
どうか、私のことを好きになってくれる人がいますように。
どうか、私のことを認めてくれる人と出会えますように。
ああ、その相手が──自分にとって、一番大切なイェルドだったならば。それは、どんなに幸福だろうか。
けれど、イェルドにはイェルドの幸せがある。彼が家族を大事にしているように、イェルドが望む幸せがあるのだ。
そして、そこに自分は必要ないと──そう、言い聞かせ続けてきた。
「俺の幸せにアルシェ自身は必要ないって言っていたけれど、それは違う。俺の人生には君が必要なんだ」
真剣な表情でイェルドは言葉を続ける。
「たとえ君が再び俺の前から逃げて、どこに隠れようとも絶対に追いかけて見つけてみせる。この気持ちを信じてもらえるまで、何度だって好きだって言い続けるからな」
ぽろり、ぽろりとアルシェの瞳から涙がこぼれていく。
満たされたから、きっと目から溢れてしまったのだ。
「アルシェ。返事を聞かせて欲しい」
優しく穏やかな声で、イェルドが問いかける。
もう、駄目だった。我慢なんて、出来なかった。
三年間、ずっと認めなかったのに、本人を目の前にしたら、最後の砦が壊されていく。
「……私も、ね……本当は、イェルドが、好きなの」
魔法が、解けていく。
自分の心を守るために、偽るためにかけ続けた、儚い魔法が。
己の意思とは無関係に、茶色だった髪が白髪へと戻っていく。
聖剣の加護は今、切れた。それはつまり、「勇者」が死んだことを意味していた。
だから、ここにいるのはただの「アルシェ」だ。
世界の平和よりも、自分の願いのために戦い続けた、本当は心が弱くて寂しがりやで、身勝手な女の子。
「大切だけじゃ、なかったの。大切だけど、好きだったの。だからっ、あなたの迷惑になんて、なりたくなかった……! ……でも、本当はっ……本当は、一緒にいたかったっ……」
自分のことなんて忘れて欲しかったのに、それでもアルシェはイェルドのことを忘れるなんて出来なかった。
彼と一緒に過ごした日々はアルシェが生きてきた中で、もっとも鮮やかに彩られていた。
楽しかった。
嬉しかった。
幸せだった。
満たされていた。
そんな日々がずっと続くならば、どんなに良かっただろう。けれど、アルシェは願うことが出来なかった。
身勝手な自分が、最後の最後で願ったのは、大切だと思っているイェルドの幸せだけだったからだ。
彼が幸せならば、それだけで──それだけで、良かった。
涙を止めることが出来ないアルシェをイェルドは優しげに見つめ、破顔した。
「それなら、両想いだ」
「ひゃっ……」
イェルドは急にアルシェの腰辺りを掴むと、そのまま軽々と持ち上げた。
視線が高くなり、それまで被っていたフードがはずみで脱げてしまう。隠していた白髪は風に揺れるように泳いだ。
イェルドはアルシェを持ち上げたまま、くるくると回って、それから強く抱きしめた。
「一緒に幸せになろう、アルシェ」
それが、イェルドの望みならば、アルシェも心のまま、応えたいと思った。
「……うん」
アルシェは自分を抱き締めてくるイェルドを抱きしめ返す。
地面に映っている二人の影が一つになった、その時だった。
周囲から突然、拍手が沸き起こる。
「いやぁ、若いねぇっ!」
「あらあら~」
「いよっ、おめでとさん!!」
その場にいる者達から口々に祝いの言葉を告げられたアルシェは思い出す。
ここが、人通りがある場所だったことを。しかも、市場に近いところで、更に夕方なので人の行き来が多いことを。
それ故にアルシェとイェルドのやり取りは全て、そこにいた者達に見られていたことに気付いた。
「好きな女を追いかけ続ける……くぅー! 若い頃の俺を思い出したぜ!」
「祝え、祝えっ! 店主! 酒を持ってきてくれ、酒!」
「兄ちゃん、やるなぁ! こんな道のど真ん中で求婚するなんて、中々出来ることじゃねぇぜ!」
見知らぬ人達から求婚の成功を祝われ、アルシェは顔を真っ赤にしてしまう。
「うぅぅっ……! は、恥ずかしいっ……!」
おかげで涙は引っ込んだ。
「恥ずかしすぎて、死んじゃう……!」
「ははっ、恥ずかしくて死ぬなんて、新しい殺し方かもしれないな」
楽しげにイェルドが笑ったので、アルシェは彼の胸元あたりを軽く叩いた。
とりあえず、この場を騒がせたことを詫びて、アルシェ達は通りから離れた。
その際にイェルドが地面の上に落としていた荷物を拾っていたが、三年前にアルシェが彼に渡した空間魔法鞄だった。大事に使ってくれていたらしい。
いつの間にか、イェルドと手を繋いで歩いていることに気付いたが、あえて指摘はしなかった。
ただ、イェルドの手が以前とは違って大きいため、アルシェは内心、どぎまぎしていた。そんな自分に気付かれないように、ふと思いついた話題を振ってみる。
「あっ……! そういえば、あなたの妹は!? イリスちゃんはどうしたの!?」
「イリスなら、ドルーシェン共和国にいるよ」
今、アルシェ達がいるのはドルーシェン共和国の二つ隣にあるハマリーン王国だ。元々、いたリグラント王国より、更に遠い場所にある。
なので、イェルドがあんなに大事にしていた妹を一人で置いていったことに驚いていた。
「言っておくが、あの国に一人で残るって決めたのはイリス本人だからな。むしろ、俺は『早く、アルシェさんを探しに行け!』と背中を押された──いや、蹴飛ばされたんだぞ」
イェルドは肩を竦めながら付け加えるように言った。
アルシェが二人をドルーシェン共和国へと送った後、しばらくその国で過ごしたが、イリスの性格に合っていたようで永住することを決めたらしい。よほど、気に入ったのだろう。
「それとドルーシェン共和国で食べたパンに感動して、そのままパン屋に押しかけるように弟子入りしてた」
「……何というか、行動力がある妹さんで……」
アルシェはイリスと言葉を交わしてはいないが、見た目は儚げな美少女だったことは覚えている。
まさか、兄の背中を叩き、自分のやりたいことを見つけて実行する意思の強い少女だったとは。
「三年前、助けてくれた件について、代わりにお礼を言っておいて欲しいと言われた。あと、早く一人前のパン職人になって、世話になったアルシェにご馳走したいって言っていたぞ」
「いやいや、たいしたことはしてないけど……。……でも、そっかぁ……。イリスちゃんはパン職人に……。うん、楽しみにしておくね」
小さく笑ってから、すっかり自分より背が高くなったイェルドを見上げる。
「ね、イェルド」
「何だ?」
「『勇者』を殺してくれて、ありがとう」
何度呼んでもアルシェの手に「聖剣」が現れることはない。「勇者」は本当に死んだのだ。
再び、魔王が復活する日が来るまで、聖剣はアルシェが知らない場所で眠り続けるのだろう。
「でも、何にも出来ない普通の人間になっちゃったから、イェルドには物足りないかもよ?」
アルシェが冗談まじりにそう言えば、イェルドは呆れたように溜息を吐く。
「俺がずっと想っていたのは『勇者』じゃなくて、アルシェだからな」
それと、と彼は言葉を続ける。
「今はまだ、正式に結婚していないから手は出せないが……。──三年分、覚悟しておいてくれ」
口元を緩め、少しだけ余裕そうに笑うイェルドから艶めかしいものを感じたアルシェは再び、顔を真っ赤にする。
「っ……。ちょ、ちょっと、待って! 純粋だった、可愛いイェルドはどこにいったのっ……!」
「あの頃も別に純粋でも何でもなかったけどな。周囲は大人ばっかりだったから、その手の話は聞き慣れていたし。さすがに実践はないけれど」
「うー……。イェルドが私の知らないことを知っているなんて……」
一方でアルシェはその手のことには慣れていない。
そんなアルシェの反応を楽しむように、イェルドは目を細め、大人な笑みを浮かべた。
「時間はこれからたくさんあるんだ。一緒に知っていけばいい」
イェルドの言葉にアルシェは目を瞬かせ、それから柔らかな笑みを返した。
知らないならば、共に知っていけばいいのだ。
自分が愛とはどんなものかを知っていったように。たった一人の大切な人の隣で歩みながら。
アルシェ達はそのまま、ハマリーン王国に住み続けた。
勇者だったことは秘密にしているが、アルシェの本当の姿が周囲からそれほど忌避されなかったことも理由の一つだ。
ハマリーン王国では、魔物の脅威から守ってくれる神獣が崇められており、それは白い狼の姿をしているという。
そのため、白に近い色は神獣のご加護があるからと、好んで使われるほどだった。
さらに誰が言ったのか、実はアルシェは「真実の愛」なる呪いを受けていて、本当の姿に戻ったのはイェルドの愛のおかげだと噂されるようになっていた。
イェルドは良い虫よけになると言って、黒い表情を浮かべていたがアルシェにはよく分からなかった。
しかも、冒険者達の間で自分が「恋殺しのアル」なんて呼ばれていたと知った時には頭を抱えそうになったくらいだ。
何と、誰がアルシェを落とすか、賭けていたらしい。結局、賭け事は成立せず、賭けに使われたお金で、イェルドとアルシェの新しい関係を祝われたが。
アルシェは三年前と同じようにイェルドと一緒に暮らし始めた。
もちろん、今のアルシェは勇者ではなくなったので、前みたいに剣も扱えないし、魔法も得意ではなくなった。けれど、隣にはイェルドがいてくれる。
二人で冒険者としての依頼をこなしつつも、休みの日には一緒に料理を作ったり、散歩をしたりとゆっくりと過ごした。
そして毎日、イェルドはアルシェに囁くのだ。
「愛している」と。
「正しい勇者の殺し方」完
久しぶりに書いた短編(ほぼ中編)でしたが、いかがだったでしょうか。少しでも楽しんでいただけたならば、幸いです。
書きたいこと、全部書けたので私は満足です。超楽しかったです。
読んで下さり、ありがとうございました!




