休日は喫茶店で
妹と僕は仲が良いのだろう。いくらでも自由に使って良い休日。惰性を貪るのも自己研鑽をするも良い、我々現代人に与えられた自由の象徴をこうして僕との外出に使うのだから。僕はそう思いながら、いつものように喫茶店で妹の話に耳を傾けていた。
「私ねえ、この前ちょっと不思議な体験をしたんだ」
妹の話は大体こんな感じだ。
「この間ね、夜中にお腹が空いて眠れなかったからさ、こっそりお菓子を食べようと思って台所に行ったら冷蔵庫にプリンがあったんだよ。ああ美味しそうだなあ、と思ったんだけどさ、その時何だか急に恐くなったんだよね。そのプリンってお母さんが好きなメーカーじゃない? それに私、勝手に手をつけたことがばれたら怒られるんじゃないかって思って、それで食べるのをやめたんだ。それで暫くじっとして考えてみたけどやっぱり食べたくなってさ、もうどうしようもなくて一口だけ食べちゃったんだ。そしたらびっくり! すっごく美味しかったんだよ!」
「それは良かったね」
僕は素直に相槌を打った。しかし内心では、「何を馬鹿なことを言っているのだ」と思っていた。
「うん。それですっごく嬉しくなってさ、それからは毎日三食全部プリンにしたんだ。そしたら二週間くらいして体重が減ってることに気がついたんだよ。最初は病気になったのかと思ったんだけどよく考えたら違うんだ。だって私が太っていたのなんてほんの二ヶ月前までなんだもん。それがたった二ヶ月で五キロ痩せたんだから凄いことだよ。私もびっくりしたけどお父さんの方がもっと驚いていたよ。『お前最近痩せてきたんじゃない?』とか言ってさ。まあ実際この頃食欲がないから全然太らないんだけどね」
「へえー、そんなこともあるんだね」
僕はまた適当に返事をしておいた。「たかがプリン一つでダイエットができるならみんなやっているはずだろ」という疑問については敢えて口にしなかったし、「結局、食べているのならお母さんに怒られるのでは?」という疑問についても勿論である。僕はただ妹の話を聞いているだけで満足なのだ。
「でもそれだけじゃなくてさ、そのあともどんどん痩せていったんだよ。ほら、これ見て」
と言って妹は自分のウエストを両手で掴んでみせた。
「すごいでしょう?」
「確かにすごいね」
僕は言った。このままではらちがあかない。嫌ではないのだが、そろそろ頭が溶けてきそうだ。僕は会話の流れを変えることにした。
「ところでさ、どうして君はそんな話を僕にするわけ?」
「そりゃあ兄さんが一番私のことを知っているからだよ」
「……どういう意味だい?」
「そのままの意味だけど?」
そう言いながら彼女は首を傾げた。そして何かを考えるように黙り込んでしまった。僕もまた何も言わずに彼女の次の言葉を待った。すると彼女は再び口を開いた。
「……兄さんって今付き合っている人いる?」
突然話が飛んだような気がしたが、恐らくこれが本題だったのだろう。「いないよ」と答えると、今度は彼女が考え込む番であった。
「じゃあさ、結婚する予定はある?」
「ある訳ないだろう」
「本当に?」
「嘘をつく理由が無いじゃないか」
「そうかなぁ……」
僕の答えを聞いた妹は不満げな表情を浮かべた。
「なんだい? 一体」
「ううん。何でも無い。そうだな……もしも私が結婚したいと思える人と巡り会ったとしたらどうする?」
「別にいいんじゃないか? 君の人生だもの好きにしなさい」
「そういうことを訊いているんじゃないよ」
彼女は怒ったように言うと、少し冷めてしまったコーヒーを飲み干した。僕は仕方なく「じゃあ僕からも」と言った。
「好みのタイプは?」
妹は再び考え込んだ。そして暫くの間思案した後に口を開いた。
「……年上の人が好きだな」
「……理由は?」
「大人だから」
「それはつまり自分が子供っぽいということかい?」
「違うよ! もう!」
「冗談だよ。ごめん」
僕は慌てて謝った。どうやら僕はまた余計な一言を口にしてしまったらしい。こういう時の妹はとても面倒臭いのだ。
「全くもう……。とにかく私は大人な男性が好きなの。分かった?」
「うん。よく分かったよ」
「絶対分かってないでしょ」
「分かっているとも」
「本当かな……」
疑いの眼差しを向ける彼女に、「本当だよ」と言い聞かせるように繰り返した。彼女はまだ納得していない様子だったが諦めたようだ。「それなら良いけどさ……」と言って再び話題を変えた。
「ねえ知ってる? 今度駅前に新しいケーキ屋さんが出来るんだって」
「へえそうなんだ。知らなかったよ」
「それでね、私一人で行くのはちょっと不安でさ。一緒に行ってくれない?」
「それぐらいなら良いけど……」
「ありがとう! やっぱり持つべきものは優しいお兄様ね!」
妹は満面の笑みを浮かべて言った。調子の良い妹様だ。僕はそれに苦笑いを返した。
「それじゃあ早速明日にでも行かない?」
「明日は駄目だよ。予定があるんだ」
「ああ、そういえばそうだったね。それなら来週の日曜日はどう?」
「うん。来週なら空いてるから大丈夫だよ」
「やったー! 約束だからね」
そう言って喜ぶ妹の姿を見ているうちに、ふとある疑問が浮かんできた。この子はいつもこんな風にして友人に頼み事をしているのではないか、というものだ。だとしたらきっと大変だろう。何せ相手はこの子なのだ。頼まれたら断れない性格をしているに違いない。僕は心の中で彼女の友人達にエールを送った。(頑張ってくれ)と。
そうこうしているうちに本命のパンケーキが運ばれてきた。僕はナイフとフォークを手に取ると、妹を真似して生クリームをたっぷり乗せてからそれを頬張った。甘い。とても甘かった。しかし不思議と嫌ではなかった。
「美味しいね」と言うと妹は無言で何度も肯いた。そしてまた一口食べてから「うん。美味しいな」と言って微笑んだ。その笑顔を見て僕は思った。
やはり幸せそうにお菓子を食べている姿が一番可愛い。僕達はそれから暫くの間無言のままパンケーキを食べた。やがて食べ終わると妹は「ごちそうさま」と言って手を合わせた。僕も同じようにして、「ごちそうさま」と言った。
会計を済ませ店を出ると外はすっかり暗くなっていた。「寒くなってきたからそろそろ帰ろうか」という僕の提案に対し、妹は「もう少しだけ歩こっ!」と答えた。
彼女は元気良く駆け出した。僕はそんな彼女の後を追いかけた。すると彼女は急に立ち止まり振り返った。そして僕の方に向かって大きく手を振って叫んだ。
私は兄さんが好き。大好き。愛しています。
ずっと前から好きでした。私の気持ちは変わりません。
これからもずっと、死ぬまでずうっと。
私だけの兄さんでいてください。
どうかお願いします。
妹は僕のことが好きだった。兄妹としてではなく異性として。
妹は僕のことを愛していた。実の兄である僕のことを。
彼女はある日突然そのことを告白してきた。「好きだ」と。僕のことを好きだとそう言ったのだ。妹の言葉に戸惑いながら、どうにかそれだけは理解出来たのだがそれ以外のことはまるで頭に入ってこなかった。僕は一体どうすれば良いのか? 何を言えば良いのか? そもそも何かを言うべきなのか? 分からない。何も分からなかった。
僕はただ混乱するばかりで黙り込んでしまった。彼女はその間もずっと僕のことを見つめていた。じっと見つめていた。視線を外すことも出来ず、彼女から目を逸らすことも出来なかった。だから僕は彼女が口を開こうとする瞬間まで、永遠にこのままなのではないかと本気で思い始めていた。そして遂にその時が来た。彼女は口を開き「返事はいつでも良いよ」と言った。
正直に言うとその言葉は有り難かった。けれど同時に少し悲しくもあった。何故ならその言葉が意味するところは、結局のところ「答えを出すまでは待ってやる」ということに過ぎないからだ。つまりそれまでは現状維持ということ。少なくとも今はそういう状態だということだ。それが堪らなく恐ろしかった。
僕はその日の内に答えを出した。
そして彼女に言った。
「君とは付き合えない」
そう告げると彼女は泣き始めた。嗚咽を漏らしながら彼女は「どうして?」と訊ねた。僕は理由を説明した。「君の気持ちには応えられない。申し訳ないと思う。でもそれはやっぱり無理なんだ。分かって欲しい」
僕は彼女を傷付けないように注意を払って、それでもしっかりと自分の考えを述べた。すると彼女は納得してくれたようで涙を止めて顔を上げた。「分かったよ」と言って笑おうとしたが上手く笑えなかったようだ。表情が歪んでいた。
「今まで通りに接してくれるかな?」
最後にそれだけ確認した。
「勿論だよ! だって私達家族でしょう?」
僕は彼女の笑顔を見て安心した。これで良かったのだと思えた。
「ありがとう。それと……ごめんね」
「謝らないで。大丈夫だから。気にしないで」
「うん……。ありがとう」
「……もう、暗いし帰ろうか」
家への帰り道があんなに長く、また初めて通る道みたいに感じたのは最初で最後だった。
「ねえ、兄さん聞いてる?」
妹の声で我に帰った。
「ええと、何の話だったっけ?」
「もうしっかりしてよね! だから、駅前に出来たケーキ屋さんに行こうって話!」
「ああ、そういえばそうだったね」
「そういえばじゃないよ! 明後日だよ? 分かってる?」
「……もちろん、」
「やったー! それじゃあ約束だよ!」
妹はそう言って嬉しそうに飛び跳ねた。僕はそんな彼女の姿を見て、何とも言えない気分になった。
「そうだね。約束だよ」
僕はそう言って笑った。妹も笑ってくれた。
「楽しみだなぁ」
妹はそう言いながらまた飛び跳ねた。僕はその様子を見ながら、妹との会話に集中しようと努力した。だが駄目だった。どうしてもあの日のことが思い出されてしまう。妹と交わした最後の言葉。
あれ以来僕達は以前のように話せなくなった。妹は僕の前では努めて明るく振る舞ってくれている。しかし僕達は二人きりにならないよう気を付けているし、外出する際は必ず誰かを誘っている。以前と同じ関係に戻ることは最早不可能だろう。
「本当にごめん……」
僕は小さく呟いた。
妹はそれに気付かず楽しげに話し続けている。
(どうか幸せになってくれ)
僕は心の中でそう願った。
僕は妹が好きだった。今も昔も変わらず大好きだった。だけど僕では彼女の想いに応えられない。応えてはならない。
兄は死んだ。自殺したのだ。
兄さんは苦しんで、悩み抜いて、それでも結局は死を選んだ。原因は私にある。きっと私の存在が兄を苦しめていたんだろう。私が兄のことを好きにさえならなければ、もしかするとこんなことにはならなかったかもしれない。
兄が死んだ時私は思った。もし、この世界が小説や漫画のような作り物の世界ならば良いのにと。そしたら私は神様でも悪魔にでも魂を売り払ってみせる。そして私の望む世界を作り上げてみせる。兄は生きていて妹である私のことを愛し、妹である私のことを大切にしてくれる優しいお兄ちゃんのままで、私の大好きなあの笑顔を浮かべたまま、私の側にずっと居続けてくれる世界にしよう。それが私にとって一番幸せなことなのだから。
だからどうか、お願いだから、神様、もしも居るのなら、お願いします。どうか、お願いします。
どうか、どうかどうか、どうかどうか……。




