桜に咲いた赤い薔薇
それはラビュリントス王国にある学園の図書室で起きた出来事だった。
学園の制服に身を包んでいる公爵令嬢であるクリスティア・ランポールはいつもの通り図書室のいつもの通りのランセット窓の下の場所でいつも通り忠実なる侍女であるルーシーの入れた紅茶を机に置きいつも通り金色の髪を頬に滑らせて緋色の瞳を開き優雅に本を読む……ではなく。
いつも通りではない、いつもは空席か、友人の座っている向かい側の椅子に一人の女性を座らせてニッコリと微笑みを持って見つめる。
「お休みの日にお呼び出しをしてしまって申し訳ございませんシア。あぁ、シアとお呼びしてもよろしくて?わたくしのことはどうぞクリスティーとお呼び下さい」
「あの……一体私になんのご用でしょうか?」
呼び名などどうでもいいと厚い眼鏡の奥で不安そうに灰色の瞳が揺れている。
薄桃色のレースがあしらわれた前止めのブラウスの肩を窄め少し濃い同じ色のフレアスカートに置いた両手を強く握り締める二十代後半から三十代前半の女性。
いつもは後ろに一つで結んでいる薄黄色の髪を今日は下ろしているせいか前屈みの姿勢ではその髪が頬に掛かり表情があまり窺えない。
女性の名前はシア・ウッドマン。
この図書室の司書の一人だ。
「シアはわたくしの噂をご存じかしら?わたくしが不相応にも色々な事件を解決してきた噂などですけれども」
「は、はい……お噂はお聞きしたことがございます」
「実はそういったことをしているせいか噂を頼りにされた方々がわたくしに相談をしてくることが多々あるのです。先日もある方からある物を探して欲しいとご依頼を受けたのですけれど。レンス・ヴァドック……ご存じですね?」
クリスティアが告げる名前にビクリとシアは肩を揺らす。
机に置かれた紅茶にはクリスティアに呼び出されてからずっと怯えた表情が映っている。
「それはヴァドックがご自身でお作りになられた装飾品で、大変思い入れのある物だからどうか探して欲しいと切に乞われましたわ」
それは二日前の放課後の出来事だった。
クリスティアの居る図書室へと現れたのは学園の教師であり魔具師であるエヴァン・スカーレット。
たまに事件解決に使用する魔法道具の製作をお願いしたりクリスティアが解決した事件の話などをして親しくしていたエヴァンはクリスティアに一人の男性を助けてあげて欲しいと紹介してきたのだ。
灰色の髪を後ろに撫でつけた柔和に垂れた緑の瞳を携えた作業服の男性。
レンス・ヴァドックは齢五十歳の学園の臨時庭師だ。
数々の褒章を受けたとても良い腕の庭師で元々は王宮で働いていたのだが早期退職し、今は依頼を受けて学園の庭や貴族邸の庭を自由に手入れして回っている。
エヴァンとは庭の手入れをする魔法道具の開発過程で知り合ったらしく、クリスティアの噂をエヴァンから聞きいていたヴァドックは今回、ある装飾品を探して欲しいとクリスティアに頼んできたのだ。
「ヴァドックは申しておりましたわ。それはある人を想い彫った特別な物だと。他人にとって価値のない物であったとしても自分には十分に価値のある物だからどうか見付けて欲しいと。なのでわたくしはまず、ヴァドックがそれを無くされた庭師の部屋を訪れました。それを置いた場所は扉からすぐ近くの作業机で扉を開けば真っ先に目に入ったことでしょう。ヴァドックはそれを部屋から出したことは無いとおっしゃっておりましたので他者の目に触れたことはなく、他の道具達にも触れた痕跡がないことからなにかを盗もうとして忍び込んだのではなく衝動的にそれを盗んでしまったことが予測されました。ではそれを衝動的に盗むのは一体誰か……それが装飾品であることから女性であることは容易に予想が出来たことです。なのでわたくしはヴァドックが親しくしている女性達を中心に調べていくとシア、あなただけが二日前から自らの装いを変えていたのです」
遙かに年下のクリスティアに対しても礼儀正しく深々と頭を下げる紳士的なヴァドックの態度に大変に好感の持ったクリスティアはその切実なる願いを聞き、捜査、推理をした結果……今日シアを呼び出すこととなったのだ。
「わたくしがお聞きしたいことはもうお分かりになられていると思います」
全て知られているのだ。
そう理解して青白い顔で深く俯いたシアのいつもは頭上高くに結ばれている髪が下され肩を流れる……その隙間から覗いたその耳に、赤い薔薇の花のピアスが光っている。
ヴァドックが探していた不格好な装飾品が彼女の耳を彩っているのだ。
「あの……私……!」
「シア、知っていましたか?そのピアスが桜の木で出来ていることを」
「……えっ?」
「桜の木というのはとても堅くて彫るのに時間が掛かります、素人ならば尚のこと。ヴァドックは幼い頃から庭いじりばかりでそれ以外のことに興味を持ったことはないそうです。なのに折れた桜の木を見た瞬間、堅いと分かっていながらも衝動的にそれで作りたくなったのだとおっしゃっておりました。自分と重ね合わせたのかもしれないともおっしゃっておりましたわ。それほど想いを込めて丁寧に作った物なのです……それを奪ってしまったあなたの切なる理由をお伺いしても?」
クリスティアの優しい問いかけにシアはスカートを握り締め、泣き出しそうに顔を歪めるとポツリポツリと話し始める。
「私とヴァドック様が親しくなったのは図書の本の中でとても惹かれる花があったので私でも育てることが出来るのかと相談したことがきっかけでした。私は親にも呆れられるほどの本好きで本以外のことに興味を持ったのはこれが初めてで、そんな素人の興味にヴァドック様は嫌がりもせず喜んでくださり……その花を取り寄せてくださったり、お世話の仕方をお教えくださったり……共に過ごす時間は自分でも驚くほど心安らかに過ごせたせいか私は自然とヴァドック様に惹かれていきました」
最初は淡い、本当に淡い恋心だった。
本ばかりの生活に焦りや疑問がないわけではなく、結婚していく周りの友人達に置いていかれていくようなそんな喪失感を不安として口にしたシアに、自分も庭のことばかりだったけれども不幸な人生ではなかったと、無理に自分を押し殺すことのほうが不幸になるのだからまずは好きなことの視野を広げるのはどうだろうかっとヴァドックは提案してくれた。
それから好きな作家の交流会や朗読会へと誘ってくれたり、お世話を始めた花の品評会へと赴いたり。
ヴァドックは王宮で働いていたので顔が広く、職場と自宅の往復だったシアに数多くの人々を紹介してくれた。
シアはヴァドックと会う回数を重ねていくごとにその優しさに特別な意味を持つようになっていた。
この気持ちを本の中で探ればそれが恋なのだという答えにすぐに行き着き……暖かい春の日差しのような恋を自覚すればヴァドックの誘いをデートだと浮かれたり、前日は眠れなかったりして……自分が本以外のことにこれほど心を動かされるなんてことがあるだなんてシアは知らなかった。
そのことに胸が躍った。
そしてその気持ちはヴァドックが独り身だと知ったとき、急激に欲へと変わっていった。
私がこの人の隣に立てるのではないかという愚かな欲に。
「分かっていたのです。ヴァドック様にとっては私は友人の一人で……私に紹介なさるのは私と同年代の男性ばかり、どこか必ず一歩距離をお取りになられていました。でも私にとってはそれがもどかしくて……私を見て欲しい、側に居たい、居て欲しい、もっと知りたいし、知って欲しい。溢れる欲は際限を知らず気付けば本を読むことすらままならなくなっていました。だから私は本の中のことのように彼のことを少しでも知れたらと……そうすれば私のことをもっと見てくれるかもしれないと愚かな気持ちを抱えてヴァドック様が庭師として与えられている部屋へと伺ったのです」
その先に続くのは罪の告白だ。
口に出すことは勇気のいることだろう。
一度、言葉を切ったシアは唇を震わせる。
「誓って忍び込むつもりはなかったのです!ただノックをしたときに扉が開いてしまって!声をおかけして中に入ったそのときに見てしまったのです!机に置かれた赤い薔薇のピアスを!だってヴァドック様は庭以外のことはしないっておっしゃっていて!それは明らかに女性用の物で!それに……それに赤い、赤いその薔薇の花言葉が……!」
薔薇の花言葉は色によって違うのだと語っていたヴァドックの柔らかく切なそうな微笑みを浮かべたその横顔を、手彫りの赤い薔薇のピアスを見た瞬間に思い出したシアは頭が真っ白になった。
ヴァドックの手が数週間前から傷だらけなのは気付いていた。
どうしたのかと聞いたときは庭師という仕事は大変なのだと笑顔で誤魔化されシアも深くは聞かなかった。
むしろ愚かにも本で知っていた知識でその手の傷に効く薬を薬屋で買って贈ろうと思っていた。
シアは庭で手が荒れたと嘘を吐かれたことが許せなかったのではない。
ただそれが赤い薔薇であることが許せなかった。
誰かを想い作られたそれが憎らしくて悔しくて、羨ましくて!
恋が物語のように綺麗なものではないことを理解した瞬間、あの薔薇のように真っ赤に染まった思考が衝動的にそのピアスへと手を伸ばし、気付いたらそれを掴み逃げ出していた。
「薔薇でなければ良かったのに……!」
それからシアはヴァドックに会っていない。
どんな顔をして会えばいいなか分からなかったのだ。
図書室から庭を見るたびに深い罪悪感に襲われ、ヴァドックの姿が見えればすぐに逃げるようにして隠れた。
それなのに……。
シアは鏡に映る自分の耳にそのピアスを身に付けずにはいられなかった。
地味な自分には似合いもしないこの薔薇に込められた想いが自分に向けられないことに何度も傷つきながらも、それでもその想いを手に入れた気になって……いつもは結んでいる髪を下ろして隠すことになっても外すことができなかった。
「申し訳ございません……私……本当に……!」
ヴァドックの純粋な恋心を理不尽な激情によって奪ってしまった。
分かっている。
自分以外を想い作られたこのピアスを耳に付けたところでその心が自分に向けられるわけがないことは。
分かっているけれどもどうしようもなかったのだと掌にぽたぽたと溢れる涙を拭えずシアは流し続ける。
その憐れな恋心の苦しみは涙を流しても消えることはない。
「どうぞご安心なさって、わたくしあなたを責めるためにこのお話をしているのではありません」
「?」
「わたくし、あなたと会う前にヴァドックにそのピアスを見付けたことをお伝えしたのです。状況をお伝えしてシア、あなたのこともお話しいたしました」
一体なにに安心すればいいのか!
自分が犯した罪をヴァドックは知ってしまったのだと知り、血の気が引いた顔をしたシアの体は憐れな子羊のようにブルブルと震えだす。
「するとねシア。ヴァドックはどうかそのまま黙っていて欲しいとわたくしにお願いしてきたのです」
「……えっ?」
思いも寄らなかったことにシアが顔を上げクリスティアを見る。
きっとヴァドックはシアをなじり軽蔑し二度とあの親しげな笑みを向けてはくれなくなるだろうと覚悟をしていたというのに……。
意味を計りかねたシアのその困惑の表情にクリスティアは穏やかに語る。
「シア。ヴァドックはわたくしにピアス探しを依頼したときにとても想いを込めて作った物だから絶対に取り返したいと望まれておりました。もし盗んだ誰かが気に入っているのならば似た別の物を用意するからこっそりとでも入れ替えて欲しいとそう申したのです。ですが相手があなただと知ったとき、それをあなたが気に入っているのならばそのまま持たせてあげて欲しいと望まれました。どういう意味かお分かりになられますか?」
それはまさかそんなという期待と不安が入り交じった戸惑いの表情を浮かべるシアにニッコリと微笑んだクリスティアはそっとハンカチを差し出し後悔に滲んだその頬の涙を拭う。
「分別のある老いらくの恋というものほど躊躇いを生むものです。相手が自分よりも年若い子ならば尚のこと、自分より長く続く未来を思えばその想いを心に秘めてしまうものです。お渡しする意気地が無かったのはヴァドックのほうね。元々あなたのために作った物ですから取り戻す必要はなかったのです……赤い薔薇の花言葉はご存じなのでしょう?」
ヴァドックはきっと折れて朽ちていく桜の木に自分自身を重ね合わせたのだ。
美しい花を咲かせるシアという若い幹に愚かにも恋をし、無様にも折れ捨てられる老いたる自分を想像しながら伝えられない想いを薔薇のピアスにすることで折り合いをつけていたのだ。
クリスティアの問いかけに嫉妬したその花言葉が自分に向けられたモノなのだとハッとしたように瞼を見開き胸へと染みこむようにしてヴァドックの想いに気付いたシアの頬がじわりじわりと赤く染まっていく。
「互いの気持ちを確かめずに過去に素晴らしい恋をしていたなんていう追憶はなんの美しい物語にもなりませんわ。相手の心を欲するのならば意気地のない紳士のことを待つ愚かさよりも先にあなたが襲って責任を負う賢さを身に付けなければなりません。そのピアス、あなたにとても良くお似合いなのですから」
悪戯っ子のようにウィンクして微笑んだクリスティアにすっかり涙が乾いたシアは顔を真っ赤に染めて椅子から立ち上がると頭を深く下げて走り出す。
ヴァドックの居場所など伝えなくても分かるのだろう。
こら走るんじゃない!と司書の同僚に怒られているが耳に入っていないシアの走り去る足音を聞きながら空いた席の紅茶カップを片付けてすっかり冷えたクリスティアの紅茶を入れ直したルーシーが口を開く。
「どうして桜の木だったのでしょうかクリスティー様?」
「ヴァドックの故郷はホメロス地方なのでしょう。少しアクセントに鈍りがありましたから……そちらではね、桜の花言葉はわたしを忘れないでというのよルーシー」
いつか誰かに嫁ぎ幸せになるだろう彼女が少しでも自分と共に過ごした時間を忘れないで欲しいとヴァドックは乞い願ったのだ。
私の愛をどうか忘れないで欲しいと。
口に出す意気地のない憐れなる愛を桜の木に咲く赤い薔薇に込めて。
ヴァドックも中々のロマンチストだとまどろっこしいやり方にルーシーが呆れながら窓の外を見れば、薄桃色のドレスが春を告げる精霊のように庭を駆けていく。
その転びそうなほど危なっかしく懸命な足取りを見送りながら今年の桜はそれはそれは美しく満開に咲き誇るだろうと予感させるのだった。