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33. 赤灯


 

 弓花の家が火事にあったのは、僕たちが小学五年生の時だった。


 煙を見たのは深夜二時。僕は眠ることができずに起きていた。毛布をかぶって寝転んでいると部屋に兄がやってきて、僕の身体を蹴った。


「すげえぞ。起きてみろ」


 珍しく興奮した様子で兄は言った。


「黒い煙出てるから」


 ベランダに出ると、両親とも起きていた。僕たちの家から見て北の方角から、もうもうと黒煙が立ち上っていた。遠く離れた所まで匂いがするほどの煙で、僕は思わず咳き込んでしまった。


 喘息(ぜんそく)持ちだった僕は、その場にうずくまって必死に咳を押し殺した。「どうして起こしてきたのよ」と母は兄を(しか)った。


「めっちゃ燃えてる」


 母の静止を聞かず、兄は「見てくる」と言って走っていった。のぼる煙は今まで見たことがないほどの量だった。母が心配そうに言った。


「ここまで届くってことはないよねえ?」


「大丈夫だろう」


 父が大きなあくびをしながら言った。


「あそこなら、ここまでは届かんよ」


 消防車の赤灯が集まっているのが見えた。


 そうよね、と母もうなずいた。もう寝ましょうと、母は僕の背中をさすりながら、ベランダの窓をしめた。


 僕は寝床についたけれど、寝られずにいた。煙を吸って気分が悪かった。このままずっと気分が悪ければ、学校を休むことができるのに。そんな陰気なことを思っていた。


 僕はあの火事が弓花の家で起きているとは、知りもしなかった。ましてや彼女が意識不明になるだなんて想像できなかった。僕はその日の夕方に、彼女と話したばかりだった。


 翌日のニュースで弓花のことを知った。女性ひとりと女の子ひとりが重体だった。木造のアパートは火の回りが早く、冬の乾燥した空気もあって一瞬で燃え広がった。


「あれ。雛沢(ひなさわ)さんのところだったの」


 情報の早い友人から連絡が来ていたらしい。母は驚いたように言った。


「学童で一緒だったのよ」


 父は神妙な顔でうなずいた。テレビを見ながら「木造は火の周りが早いからな」とそんなことも言った。


「これ。友達が撮ったやつ」


 画面いっぱいに映し出された火事の映像を見て、兄は大きな声をあげた。携帯カメラの映像は、火事の直後を撮影していた。


 僕はその映像から目を離すことができなかった。


 黒い家のシルエットが見えた。

 建物の骨組みがガラガラと崩れていた。たくさんの人が集まっていた。「下がってください」と叫ぶ消防の声が聞こえた。真っ赤な炎に照らされて、カメラを向ける人たちが映っていた。炎は()めるように、アパートを焼いていた。この中に取り残されることを想像して、息が詰まった。


 その後、ニュースは朝の映像に切り替わっていた。炭になった建物の柱が、灰色の空に伸びていた。黒ずんだタンスのようなものや、ひしゃげた窓枠が見えた。


 映像のひとつに、地面に落ちたピンク色のランドセルがあった。ほとんど(すす)けて黒くなってしまっていた。それがピンク色だとは分かったのは、弓花がいつもそれを背負っていたのを知っていたからだった。


 喉の奥を重いものが通っていった。


「怖いね」


 家族の誰かが言った。


 ニュースは、いつの間にか違うニュースに変わっていた。


 弓花とは違って、僕の日常は変わりはしなかった。


 いつも通りに朝ご飯を終えて、父はスーツを着て会社に行った。兄は制服を着て中学校に行った。僕はランドセルを背負って小学校に行った。


 僕はどこか信じられないでいた。炎の映像がまぶたに焼き付いて離れない。


 当然のように、学校は大きな騒ぎになっていた。弓花の家が火事になったことはみんなが知っていた。ざわついていたクラスをしずめて、いつも通り理科と社会と算数と体育の授業が始まった。休み時間に彼女のクラスを通りかかると、泣いている女の子が何人かいた。


 帰りの会の時に、副校長がやってきて火事のことを話した。みんなが知っていることを神妙な顔で話していた。それでまた泣いてしまう子がいた。何かできることはないかと、クラスで千羽鶴を折ることになった。


 卒業式が終わると、もう誰も弓花の話をすることはなくなった。たった一度、小学校時代の知り合いが噂で、弓花は福岡に行ったと話していた。もう遠くに行ってしまったのだと、脳裏をよぎったのはまだ小学生の弓花の姿だった。


 僕は地元の高校に進学した。そこで友達を作った。初めての恋人もできた。半年くらい経って別れた。


 高校を卒業した僕は東京に出ることにした。ひとり立ちをしたいと思った。奨学金を借りたけれど、それでは足りなくて仕送りをもらっていた。ひとり暮らしを始めて、自由になった気がした。僕は思っていたより、自分の家が嫌いだったみたいだ。経済的には家族に支えられながら、そんな身勝手なことを思っていた。


 弓花の家があった場所は、しばらくすると駐車場になっていた。


 駐車場は場所が悪いから、いつも空いていた。火事があったことがはるか昔みたいだった。時間はあらゆるものを押し流していく。もう火事があったことすら知らない人もいるだろう。地元に帰ると昔を懐かしく思うと同時に、いろいろなものが新しく変わっていくことを知った。


 でも、10年後に僕の前に現れた弓花だけは変わっていなかった。


 東西線の車内に現れた彼女はたくさんの傷を抱えていた。熱傷の跡や、失われた記憶や、覚束(おぼつか)ない会話。結局、全てを背負うことができたのは弓花だけだった。千羽鶴も寄せ書きも、彼女の痛みを和らげてはくれなかった。全ての言葉を飲み込んで、弓花は自分の痛みを受け入れていた。


 隣にいる僕も、無力であることには変わりはなかった。


 僕は彼女の痛みを知らない。包帯やワセリンも、朝晩の精神安定剤も、弓花の痛みを和らげることはできなかった。言葉もセックスも、同じように彼女の痛みを伝えてくれなかった。


 僕は弓花をひとりにしてしまった。

 今もそうだった。血を流しているのは弓花だけだ。


 手術が終わった。

 誰かが僕を起こした。寝ていなかったけれど、寝ているように見えたのかもしれない。手術の話を僕は医者から聞いた。


 剥離(はくり)しかかった胎盤からの出血がひどかった。出血性ショックを避けるために、子宮を摘出せざるを得なかった。脳卒中を起こしていた。意識を取り戻すかどうか分からない。全部を聞き終わる頃には、朝日が登っていた。


 初めてクジラと会うことができた。小さな身体は、静かな場所で眠っていた。


 お昼になっても、弓花は目を覚ましていなかった。普段ならもうとっくに起きているはずの時間だった。


 耳鳴りはひどくなるばかりだった。地面が波打っているのが、眠気なのか、気分の悪さのせいなのか分からない。再び吐き気が押し寄せてきたので、耳と目を閉じた。耳を塞いでも耳鳴りは一向に消えなかった。目を開けても、悪い夢は続いていた。


 弓花に何て声をかけよう。


「言わなきゃいけないことがあるんだ」


 どうしてだか分からないけれど、小学五年生の時のことを思い出した。弓花と最後に話したのは、彼女の家が火事にあう、ちょうどその日のことだった。

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