偶像
さざ波の音はどこでも何かセンチメンタルな気持ちを呼び起こす。大勢の水の粒が跳ねまわりダンスを踊るのでその踵が砂浜をふむ音がコツコツと響き、私たちはその子達の騒めきの生命のきらめきに、心を揺さぶられるのである。
太陽がさんと輝き、陽光が海を暖めてくれるので海ではサーフボードで波に乗る連中がはしゃぎまわり、あるいはカップルや家族、友達同士のグループが水辺でじゃれあったり、砂の上で身体を焼いたりしている。
そんな眩しい岸辺の騒めきを意に返さず、離れた沖の方では水かきや酸素ボンベなど重装備をつけた物々しい連中が海に潜り必死になって水底を這いずり回っている。彼らは太陽の光で黄金色に輝く海の暗い底で、夢を、伝説を探している。海の底のさらに底にある光の輝きを求めて彼らは旅をしている。
海は遠く離れた見知らぬ世界とこちら側を繋ぐ。海辺に生まれた中で最も勇気のあるロマンチストたちは誰もが一定の歳になると海の彼方にボートでこぎだし、そのまま二度と帰っては来ない。意気地が無い、別の言い方をすればもう少し現実的感覚を持ったロマンチストは夢想をたくましくし、海に流れる漂流物を探し、幻影を眺めることで満足する。そう、夢を夢と諦めて海辺に錨を下ろしたこの意気地なしの落伍者どもこそが潜水人の正体である。彼らは決してそれを認めはしないだろうが。
「なに、今更向こうに行っても何も新しい発見なんてない。わしはもう海の向こうの国のことは王さまの住んどる宮の豪華な寝室からスラムの野良犬の這いずるゴミ捨て場までなんだって見たし知っている。もう故郷みたいなものだ。わざわざ向こうまで行くなんてのはバカのやることだね。そんな面倒をせずともここにいれば全てわかるんだからさ。」年老いた潜水人は海辺のカフェでそう言って、最近海の向こうに消えてしまった友人を笑った。
老人や他の潜水人たちほどではないにせよ、海辺に住む人々は、否応なしに海の向こうのことを知ることになる。例えば、海の彼方にある異国は驚くべき文明を築いているが、自然への愛や畏怖といった感情は全く欠けている、ということは海辺に住む人々なら誰でも知っている。海からこの大陸にたどり着くおびただしい数のへんてこなオブジェを見れば誰でも、海の向こう側でどれだけのものが生産され捨てられていくか理解できる。
そのオブジェのうちのほとんどは錆びてあるいは穴が空けられて使い物にならない鉄くずばかり。何に使うものだったのかさえもはや判別はできない。網や天敵の目を逃れるための格好の住処として魚たちからは重宝されていたけれど。人間にとってはせいぜい物好きな観光客を騙して幾ばくかの小銭を巻き上げるのが関の山のがらくたにすぎなかった。だから潜水人にとってその潜水の目的の第一はそういった物質的な漂着物ではない。
彼らが血眼になって探しているのは海の底に流れ着いた幻影の漂着物である。
海底に幻影が漂着するようになったのはあまり昔のことではなく、せいぜいここ数十年のことだ。海の底で、陽光が暗い水の層のスクリーンで反射して砂漠の蜃気楼のように遠く離れた異国の物語を映し出す。初めてこの幻影が見られるようになった頃には噂を聞きつけて随分遠くからも人々が海に詰め掛け、冷たい水にもかまわず飛び込んでこの幻影鑑賞に興じたものだった。当時の浜辺の街の市長ベルマルカスはこの幻影に金もうけの匂いを嗅ぎ取り巨額の資産を幻影観光事業に投じた。「夢世界との国境線、ーー海底にあなたの理想の夢が待っている」、「浜辺の村からたったの10分、異国のエキゾチズムを手軽に味わう」、「小説、活動写真はもう時代遅れ、魚と共に味わうエンターテイメントの新時代へ」、様々なキャッチコピーが宣伝され、さらにはいくつかの幻影は異国の大王が死に際に海に葬った途方もない財宝のありかを暗示しているといった噂がまことしやかに囁かれた。
だが少し経つと一部の海辺に住む物好き以外は幻影に見向きもしないようになった。というのも異国の仕草や演出の意味が理解されるにつれ、海底に流れる異国の物語は夢でも理想でもなんでもなく、ポルノかポルノまがいの非常に下品で低俗なものであり、見るに耐えないものであるとわかってきたからだ。国で最も英明で偏見のない文化学者でさえ、その異国の文明と道徳観の程度の低さに唖然とし苦言を呈さずにはいられなかった。
辛辣な評判が紙面を飾るころにはベルマルカスもかき集めた多額の投資金を抱えていつのまにかどこかへ消えていた。お祭り騒ぎが終わって海の上でネオンに彩られ輝いていた幻影観光の大きな宣伝看板だけが残ったが、それも瞬く間に潮風で朽ち果て、海底に沈んだ。そして海の底に堆積するへんてこなオブジェの山の頂上を飾った。
幻影漂流物は興行的には失敗な代物だったが一部の青ざめた陰気な夢想家たちは今でもこれらの幻影を深く愛している。彼らは暇さえあればこのポルノまがいの鑑賞のために海底へ深く、より深く潜っていく。海藻となまこに囲まれてクジラの情熱的なバラードと水圧でキーンとなる音に耳を苛まされながら彼らは偽りの愛の夢に溺れる。
ミハイロフとリーディナは夏のひと時をある浜辺の村で過ごすことに決めた。その村は経路からあまり逸れておらず適度にこじんまりとしていて、のんびりと夏を過ごすにはうってつけに思えた。実際たどり着いてみればその村のビーチは素晴らしく、人の数もそれほどではないし、海は透き通って綺麗だ。地域の人たちも感じ良く迎えてくれた。浜近くには魚介のいい匂いのするレストランがちらほら立っていて食欲をそそる。水面を見れば小魚が群れをなしてどこへともなく遊泳している。
そんな様子を見て自然と2人の心は弾み、軽やかな笑みが唇に広がった。
ただ1つ問題だったのは村の宿はもう全部いっぱいで泊まる場所がないらしいということだったがこれもなんとか解決しそうだった。宿のない2人をかわいそうに思った宿の受付の男が、海沿いを西に少し歩いた先にある小屋の主人が旅人好きで、きっとあなたがたを泊めてくれるだろうと教えてくれたのだ。
海を望む丘の上の小屋の中、老人がキッチンで料理を作っている。にんにくの香りが立ちのぼり、そこに新鮮な肉の火に炙られ血潮の滴る匂いが絡まり部屋に立ち込める。煙が部屋に回り、鼻腔を刺す。今日はステーキか何かだろう、と彼女は思う。彼女は年季の入ったソファに座って小さな窓から見える外の風景を見つめていた。
あれを食べる前に今だ、今のうちに逃げ出そう。何事もなくちょっと外の様子を見に出るみたいな感じで外に出て、そのまま走ってどこかに逃げ出してしまおう。行くあてなんてないけれど足を進めればきっとどこかへ辿り着くはず。これでも足は丈夫なのだ。誰が追いかけてもきっと振り切ってみせる。
こんなとき『マスター』がいたなら私になんて言ってくれただろう。なんて、あんな糞オヤジ一人いたところでなんの役にも立たないに決まっているのに。いつも汗をだらだら流してあたふたしながら結局私たちを助けてくれることなんてまったくできないでただ申し訳なさそうにしているだけの不憫な男。
しかしなぜだか『希望』のことを思い浮かべるたびに『マスター』の顔がちらつくのだ。無精髭の生え、丸々としたあご、頬の真ん中に灯った醜い大きな提灯ぼくろ、いびつな歯並びに不快な匂いが漂うそんなぞっとするような顔がなぜだか光をまとって頭に浮かぶ。あんな人でも実は私の心の支えになっていたのかな、そんなことあまり認めたくはないけど。実際もし『マスター』が今私を迎えに来てくれたなら、普段は耐えられないあの体臭もあの服に染みる汗のべとべとした湿り気も構わず飛びついて抱きしめてしまうだろう。ほっぺたにキスをおまけであげてもいいくらい。
でもそんなこと考えても仕方ない。いずれにしたって彼が助けに現れることなんてないのだ。私が一人でどうにかしなければいけないのだ。
逡巡を振り払って彼女が玄関の戸に手をかけた。ノブを回そうとしたちょうどそのとき、こんこんとドアの外側からノックの音がした。彼女はドアを開けたが、もう逃げ出すわけにはいかなくなった。
ミハイロフがノックをするとすぐに戸が開いた。現れたのはティーンエイジの女の子、あどけなく笑いながら困ったような表情を浮かべている。その外見にミハイロフは思わずギョッとさせられた。その相貌の可愛らしさには何か尋常でないところがあり、悪魔が誘惑しに訪れる際にはおそらくこんな顔を作るのだろうというような悪意のない艶めかしさがあった。加えて目を引くのはその服装で、露出が多く一眼でそういう商売の女だろうということが察せられた。
家を間違えたのだろうか。困惑していると、奥からにっこりと笑って小柄な老爺が顔を出した。彼女とは対照的で醜いが何か人懐っこいところがあって好感がもてる老人だった。
「良く来たね、良く来たね。こんなあばら家を旅の方が訪ねてくれるとは嬉しいね。ちょうど昼の準備をしているところでね。時間があるならどうか一緒に食べていって旅の話でもして私に楽しみを恵んでくださらないか。ご用向も食事をしながらゆっくり伺いましょう。」と老人は中に二人を招いた。親切心を旅人に示すことを誇りとし、快くもてなすのはこの地方の慣習でミハイロフもリーディナもその恩恵を受けるのは初めてではなかった。だが、誠意を向けられるとやはり嬉しいものだ。皺が幾重にも重なって絞った雑巾みたいだが親密な魅力の感じられる老人の微笑と部屋から漂う香りが逃れがたい手招きをして、彼女らは誘われるままに小屋へ入っていった。
テーブルで心を尽くした田舎風の料理を楽しみながら、ミハイロフらは宿を探していることについて話すと、老人はすぐにこれを了承した。
「狭いし大したもんじゃないですが私の息子と妻の使っていた部屋が余っております。どうか自分の家のように使っていただきたい。お金なんていりません。ただ私は客人が家のもてなしと、この美しい浜辺の村に満足していただきさえすればそれでもう十分です。」
「ただし、言わなきゃならんことが1つあるんです、お嬢さん方。私は10日後にはもうこの家を出ていくんですよ。と言うのもね、この家はあと一月もしたら海に沈むんです。最近この辺はだんだん水位が上がってきていてね。今年の大潮にはきっとこの家はもう耐えられないでしょう。私も長い間この家に住んできましたし、前にも浸水で家が台無しになってしまうというようなことは何度かありました。昔はね、この辺にもいくつか家が他に立っていたんだが、皆どこかへ去ってしまって、私だけが残りました。思い出もありましたし、私はここの海が好きでしたからここを動かないつもりでした。ですが今度ばかりはもう駄目でしょう。私も諦めて、心機一転、都会に住んでみようと思いましてね。大昔、私が学生だった時分に住んでいた街に行くつもりですよ。海はないけれど泉が美しくて大変良い街です。家ももう買ってあります。ですから来週までは良いですけれどそのあとは大変心苦しいがどこか他の宿をお探しになってください。きっとそれまでには村の宿がどこか空くはずですから。」
「まぁ、大潮というのはこの辺ではそんなにひどくなるものなのね。おつらい話。私海の近くなんて全然住んだことがないからそんなこと考えたこともなかったわ」とリーディナが相槌をうつ。
「ひどくなったのはここ最近のことでして、どうやら地面の下の深いところで大きな穴があるみたいでね。それで地面がだんだん沈んできてるんです。それで前ではなんともなかったような大潮にでも怯えて暮らさなきゃならなくなったというわけで。なに、この辺りだけのことで、村の方じゃどうってこともありません。ここも少なくともあと数週間は大丈夫です。
しかし申し訳ないことをした。せっかくのご休暇にこんな老人の寂しい話で水をさしちゃよくありません。考えるのは美味しいご飯と色とりどりの魚たち、眩しい太陽、そんなことだけで結構。ここの海は本当に素晴らしいところですから。」
そう言って老人は身の回りの不幸な気を払うように微笑みを取り繕った。
「おじいさんも最後の海辺の日々を存分に楽しむってところでらっしゃったのね。そんな大切なときに騒がしく訪ねてしまって本当にご迷惑でないかしら。」とリーディナが口を挟む。
「そんなことは全くお気になさらないで。むしろ感謝したいくらいですよ。寂しい老人に最後の海の思い出を残して下さるっていうんですからな。それに彼女も年の近いお嬢さん方がいらっしゃった方が気が紛れるでしょう。」
老人は例の娼婦のような娘について紹介した。彼女は異国の生まれで海に流されてきて行くあてもないところを老人が拾ったそうだ。エノキという名のこの漂流者はまだこちらのことも何にも知らないし、行き場もないというので、引っ越しの際にはともに彼女をつれていくつもりだと老人は言った。エノキは月のように白く美しい顔に微笑みを浮かべた。その笑みにはどこかぎこちなさが含まれていて、きっと彼女がまだこの国の人々を見なれていないから怯えているのだろう。「へぇなるほど。海からはいろいろなものが流れてくるって聞いていたけれど、人間が流れてくることなんてあるんですね」とミハイロフ。
「ええ、本当に私も驚きました。何十年とここに暮らしているけれどこんなこと見たこともは聞いたことがないですわい。
しかし彼女も本当にかわいそうな娘ですよ。私は海に家を追われておりますが彼女はすべてを海の彼方に置いていかねばならなかったんですから。」
それから老人が立ち上がり昼食の片付けに向かった。その間にリーディナとミハイロフは彼女と国での暮らしのことや文化社会の違いのことなどを話し合った。
彼女は自分は軍の1線で戦う戦士であり国を襲う猛獣悪鬼の類を狩っていたのだと語った。そしてその纏う珍妙な服は戦士のための名誉ある特別な装束なのだという。
ミハイロフにはしかし彼女の外見はどう考えても戦士のソレではなく、よしんば軍の所属だとして慰安部隊か何かにでも在籍しているのだろうとしか考えられなかった。まず彼女が戦士の装束だと言い張る服は明らかに動きやすさや体の保護といったことを念頭に置いておらず、体の凹凸を徒らに強調していて、なるほど装飾には凝っているが根底的な部分のいかがわしいものなのだ。加えて女の肢体には軍務で鍛えられたものに特有の力強さや武骨な感じが一切感じられなかった。彼女の肉体や顔、声色を含めて、全細胞がむしろ性的興奮を与えること、異性に媚びることに向けて成熟していた。彼女は軍では立場が低かったと話していたが明らかにそもそも就く仕事を間違えているとしか思えない。彼女は娼婦か水商売、あるいは女優なりをやるべきなのだとミハイロフは思った。
また、彼女は指揮官についてしきりに話し、その者への普通ではない執着がそこにはにじみ出た。(彼女は指揮官のことを狂信者が神の名を呼ぶときのように熱っぽく舌を震わせて「マスター」と呼んだ。)彼女は逃れがたいその男への思慕に取り憑かれていて、何か他の話をしていても、どこかで不思議とその男の話へと話がすり替わってしまうのだった。彼女はその男にマインドコントロールを受けているのではないかとミハイロフは直感した。
そしてそもそも彼女が思っている軍の仕事というのは本当の戦争などではなくマスターとやらが行う暇つぶしの性的遊戯にすぎないのではないか。上流階級の人々が下層階級から美しい人間を集めて絶対服従するように洗脳し、ペットか玩具のように扱う、というのは昔話では聞かない話ではない。玩具のお披露目か、あるいは逢引にスパイスと刺激を与える"プレイ"が目的か、さすがにハレムのために戦争遊戯を行うなどという狂気はあまり聞いたことがないが。だが、きっとこちらでも理性と分別というものがなかった古代の歴史を紐解けばどこかにそういう例もあっただろう。
もし全てが虚構で彼女がただの道楽に付き合わされているだけなら、海向こうの国の人間にはその高い文明水準にもかかわらず、倫理観や道徳観といったものが完全に欠如しているという話はやっぱり本当だったのだ。性的興奮のみのために国家規模の戦争を行い、後宮の美しく従順な娘たちが醜く血を流すのを見て楽しむなどという行為をやってのける常軌を逸した非人道性と高度な文明、果たして彼方の国ではこの2つをいかにして両立させているのだろうか。
一方、エノキは会話の間、ミハイロフの体の穴に目を奪われていた。
彼女はこれまでこの国の人々を見ていてここの人々の体にたびたび穴が空いているのに気づいていた。そもそも地面や家、植物や、果ては空の雲などにまで穴が空いているこの世界は彼女にはひどく不思議に思えたけれど、人々の体に空いている穴はことさら彼女の興味を惹いた。
ミハイロフの体、顔に空いた夥しい数の穴は、ここにおいても相当珍しいものだろう。彼女の顎まわりでは数多の穴が空き象形文字のような複雑な紋様を描いていた。左薬指の指先、右の耳たぶは一部穴で欠けており、他にもすね、二の腕などいたるところ穴が空いていて、服の内側にも多くの穴が隠れていることは容易に想像できた。それに彼女の体には穴以上に奇妙なところがあり、彼女の右腕右脚はあきらかに人間のソレではなく昆虫類のソレで、緑色で硬そうな外骨格に覆われて、細い毛を生やしていた。
彼女はミハイロフの穴や異形が羨ましかった。それらのひとつひとつがマスターの提灯ボクロのようにチャーミングに輝いて見えた。
「ああ、私もああした穴が1つでいいからあれば良いのに。できるだけ美しい穴が良いけれど、すこし不恰好な穴でも構わない。私にはあれが私に救いを与えてくれるように思えてならない。」
数日が経ち、ミハイロフたちとエノキはすっかり意気投合した。たとえエノキの知性が妄執に囚われているとしても彼女の体と心のどれだけが偽りであるかわからないにしても、彼女は美しく、人当たりも良く話せば誰でも好きになってしまうような人間なのだった。
毎日ミハイロフらは海と太陽を楽しみ、時にはエノキを巻き込み村に遊びに繰り出した。老人は毎日食事に腕を振るう一方で引越しの準備や旧友との別れの挨拶を済ませていた。
日が過ぎ、引っ越しが近くにつれて、家を囲む海は徐々に持ち上がり、夜ごとに、寝台の上に体を横にしたとき耳の近くでざわめく波の音がうるさくなっていくのをミハイロフは感じていた。寝ている間に気づいたら海の底に沈んでしまうんじゃないかとかそんな風にさえ思われ心配で眠れない日もあった。
その日ミハイロフらは海水浴をしていたのだが、突然ひどい土砂降りが降り出した。スコールが体に強く打ち付ける中、駆け足で老人の家に向かった。家に着くと老人は食材の買い出しに出かけていて、エノキが一人で出迎えた。戸を開けた彼女の頬には涙のあとが滲んでいた。エノキは2人の濡れた体を拭くために大きなタオルを出してやった。故郷を思い出しているのか、エノキが何か辛そうな表情を一人で浮かべることがあるのはそれまでにも見ていたがその日はいつにも増して深刻そうな顔をしていた。「何かあったの?故郷のこと?」とミハイロフは彼女に尋ねた。
エノキは一瞬目を泳がせて、それから舌を詰まらせながらたどたどしく言葉を吐いた。「私、この家を出て行くの。明日にでも、今にでも出ていかなければいけない。でも私どうしたらいいのかわからないの。マスターがここにいてくれて私に命じてくれれば、なんだってできるのに。私、一人じゃ結局何もできないみたいなの。私がいつもドアに手をかけて出て行こうとするんだけど、そんなことでさえ、いつもうまくいかないのよ。」
エノキは泣き伏せた。吐き出された感情の羅列は彼女自身に向けられていてミハイロフには彼女が何を悲しんでいるのかわからなかった。エノキはそれからその激情を瞬き1つでそっと押さえ込んで心を決めたように冷めた声でリーディナに問うた。
「リーディナさんはものに穴を空けられるんでしょう?私、見たの。食事中に蟻や蝿がテーブルにたかった時にリーディナさんが指先でちょんとつつくと虫に小さい穴が空いてなにかおかしくなってしまって、酔っ払ったみたいになったり怯えたようにどこかへ飛んで行ってしまって、そんな虫の姿を楽しそうにリーディナさんは眺めてた。ねぇ私にも穴をあけてくれない?私、穴が欲しいの。」
「もちろん、エノキちゃんが穴が欲しいなら私喜んで開けてあげるわ。別に私穴をあけられることを隠しているわけじゃないの。どこにどんな大きさの穴をあけたいの?私でもそれくらいの希望は叶えられるはずだし。」リーディナはそう答えたが、ミハイロフは反駁した。「ちょっと待ってくれよ、ついていけないな。友人の頼みだからこそ、簡単に決めていいことなのかしら。エノキは穴のことあまり知らないだろう?何で苦しいのか、なんで穴が欲しいのか、私はもっとちゃんと教えてほしい。」
「理由なんてなんでもいいじゃない。年頃の女の子が穴をほしがるなんて普通のことだわ。そんな根掘り葉掘り事情をほじくり返すなんてはしたない。私達は彼女の親でもあるまいし、対等に彼女の尊厳を認めるならそんなことを尋ねるべきではないわ。」
「対等か。彼女はこの国のことも穴のことも何も知らないんだ、それを対等と言うのかな。」リーディナは穴のことだけに話を性急に運ぼうとしすぎに思えた。
「話すわ。ごめんなさい、私、話すのが下手だからうまくいかないかもしれないけど、私も誰かに聞いてほしい。それで少しは気がまぎれるかもしれないし。」リーディナは何か言おうとしていたが、エノキがそう言ったのでしぶしぶ口を閉じた。
「私はここに流れ着いたとき海の底に倒れていたの。本当はそのままきっと私は死んで骨になってイルカや魚たちに残さず食べられてしまうはずだったわ。でも酸素ボンベを背負った男たちが私を見つけて陸に引き上げたのよ。」
「潜水人もたまには役に立つことがあるんだな。ただの陰気な役立たずだと思っていたけれど。」
「でも私のはそれから彼らに嬲りものにされたの。」
「前言撤回。やっぱり本当にどうしようもない連中だ。」
「私の体は砂と海藻まみれで本当にひどい状態だったけど、彼らそれでもそんなことはまるでおかまいなしだった。そのときはまだ意識が朦朧として夢でも見ているみたいだった。こんなことをする人たちがいるだなんて私には信じられなかったから私はそれが現実だって認められなかったの。私あんなことは話にしか聞いていなかったし、マスターにだって許してはいないのに。」
なんだきみはそんな痴女みたいなナリをして身の堅い処女だったって言うのか、とミハイロフは心の中でひとりごちた。無感情ではあろうと無神経ではないので口をつぐんだが。
「そして、そこにあのおじいさんが現れたの。彼、でも私を助けてはくれなかったわ。ただ遠くから見ていたの。なんにもできずに。そしてそれが終わってから潜水人たちは言い争いになってどこかへ言ってしまった。それでおじいさんはやっと、こちらに近づいてきて打ち捨てられた私を拾い上げて助けてくれた。優しいけれど弱いおじいさん、そう思った。でも助けてくれたのも結局は下心からなのか、もう私にはわからない。私おじいさんが街の人と話しているのを聞いてしまったの。彼、枯れてしまってもう諦めていたけれど、人生最後の春を見つけた、街に移ったらまず薬局に行って元気になる薬を買うって朗らかに笑っていうのよ。私、おじいさんのことが嫌いではないけれど、でもそんな風にはもちろん考えられないわ。だから私、逃げるの。どこかの街に行って何か私でもできる仕事を探すわ。レストランのウェイトレスでも、農家でも、工場でもなんでもやっていい。
ただ、その前に穴が欲しいの。なんでなのかはわからない。今まで私は耳やなにかに穴をあけるだのということには何にも興味がなかったけど、なんだか今はそれがとても欲しい。ミハイロフさんを見たときに私、その体の穴に魅了されてしまったのだわ。穴があればきっとマスターがいなくても私、なんとかできるような、そんな気がするの。あるいは、きっとこれは私にとってのけじめのようなものなのかもしれないけれど。ごめんなさい。こんな風に穴をねだるのはいけないことなのかしら。私はあなた方にとって穴というものがどういうものなのかわかっていないから失礼になってしまうかもしれないけれど。」
「そんなことはないわ。私は賛成よ。」リーディナは断言した。
「なんてかわいそうな話なんだ」とミハイロフは大粒の涙をほほに流していた。リーディナは胸の穴に腕をつっこんでなんとかうまいこと彼女の悲しみの感情を探り当ててやったのだ。ちょっとオーバーすぎると思ったがどうも調整が難しかった。せわしなく服の中を愛撫しながらリーディナは言う。
「穴があいたらエノキちゃんはどうなってしまうのかしら。カフェで忙しく働くたくましい娘さんが、穴が空いたら声が透き通って、とても素晴らしい歌手になったこともあったわ、あけた瞬間、左目がころりと眼窩から落ちてしまったご老人の方を見たこともある、人魚になって海に消えた友達もいる。愛していた人のことが急に大嫌いになって別の人が好きになった人もいた。眉毛の形がどうしても嫌でみているのも耐えられないって言うのよ。あなたがマスターを思う気持ちも変わってしまうかもしれないわねぇ」
「誰がマスターのことなんて」とってつけたようにヒステリックな声でエノキが反応した。
そのとき、外から口笛の音が聞こえた。老人が家へ帰ってきたのだ。リーディナはエノキに「じゃあ明後日にあけましょう?私も少し準備があるわ。」と伝えた。
マスターのことになると普通でなくなってしまう。いったいどうして?私はマスターのことを軽蔑していて、一番に嫌いだったけど、その一方で実は一番に好きだった、多分そういうことなのだろう。軍にいたときは誰しもがみんなそうだった。だからあまり気にしていなかった。ここにきて他の人と話していて、はじめて自分の気持ちがはっきりわかるようになった。なぜ私にとってマスターは特別なんだろう。
マスターは一度、私を助けてくれたことがあった。まだ駆け出しだったころに、戦場で震えて何もできずにいた私に向かってきた敵を銃の一撃で沈めてくれた。いまでもその撃鉄の大きな音を覚えている。マスターがあの場にいなければ私は死んでいたかもしれない。あの経験が私に特別な思いを刷り込んだのだろうか。でもあるいはおぼろにしか覚えていない父にどこか似たあの風貌が原因なのだろうか。
物思いに沈む彼女の耳のすぐ近くで海は囁き合って、彼女にはそれが自分を嘲笑しているように思えて腹立たしかった。
バリョーラはその日のことを死ぬまでずっと忘れはしないだろう。彼の254回目の潜水は素晴らしいものだった。海に潜って最初からその日はついていると思った。美しい女が歌を歌う幻影を見つけたのだ。女の声はかすれていたし、海の中の音響は最悪だったが、バリョーラはその声に聞き惚れた。その歌のメロディはおそらく300年前でも400年後でもどこの国であれ誰であれ口ずさんでいるようなありふれたもので彼にも聞き覚えがあった。それは彼の中の原始的な部分を高揚させ、期待で満たした。その歌を鼻歌で歌いながら、さらに深く潜っていくと、果たせるかな、そこに楽園を見つけた。楽園の存在は潜水人のあいだで囁かれる噂のたぐいだった。海のどこかに、縦横無尽に幻影の溢れる楽園があるらしい。そこには快楽の全てがあり、天国の祝福の全てを帳消しにして地獄の永遠の苦痛を差し引いてもお釣りがたんまり出るほどの喜びがあるのだという。楽園を見たと自称するものは皆一様にクールに「あれを知らずに生きる人生なんてのは無意味だ」と嘯く。
その楽園がバリョーラの目の前に開かれていた。サンゴ礁のようにおびただしい幻影が彼を取り囲み、カラフルに輝いていた。幻影に映るおびただしい数の美女たちは彼を見ていた。彼はさながらふさふさと乳房をぶら下げたぶどうに溢れかえるぶどうの園にいるかのような心地だった。彼はそのぶどう畑を飛び回り、好きなだけ果汁の乳をしぼり、赤ん坊のようにそれを飲み干した。できるだけ鮮度が良くて、芳醇なつぶを探し出して、かじりついた。乳に溢れる酒気に酩酊すると、鼻歌は調子が外れてひどいものとなり、まわりの魚やクラゲ、イルカたちも耳を抑える手が欲しくて今ばかりは人間が羨ましいという有様だった。
彼は誘惑する女たちをかきわけていくうち、ひときわ幻惑的な彼女の姿を見つけた。彼女は花の匂いをさせて横たわり、バリョーラが来るのをそこで待っていた。服装は露出が多くて扇情的だが何か天使のような清浄さも感じられた。彼女の腕に触れるとそれは弾力を持って答えた。彼女の肌は海の気にやられて恐ろしいほどに白くなっていたが唇だけはしなやかなピンクに輝いていてルビーのようだった。「俺はこの海の底の竜宮の姫に選ばれたんだ」、「彼女がここに俺を呼び寄せてくれた」そんな風にバリョーラは考えた。過去に見た幻影の群れを反芻しながら、バリョーラは彼女を深く抱きしめ、その宝石へと口づけをした。少女の封印を口づけで解くというあの古典的な幻想を自分が現実で叶えることができるのかと期待でいっぱいだった。しかし彼の口づけは予想に反して彼女に生命を吹き込むということはなく、どころか彼女にはなんの変化もなかったので彼は落胆した。もう一度、今度はもっと長く強く口づけをしてみたのだが、やはり変わらなかった。「俺を待っていたのだろう?なぜ目を開いて俺を愛してくれないんだ?」仕方がないから無理に瞼を開いてやると、手を離すとすぐに目はまた閉じてしまったが、緑色の目が一瞬こちらを見たような気がしたのでなんとか満足するしかなかった。「いずれにしてももうこの宝石は俺のものだ。陸に拾い上げて目を覚ましてもらってあとはきっと次々と素晴らしいことが起きるだろう」彼は彼女を持ち上げようとした。しかし、彼女の体は水をすったせいで途方もなく重たくなっていて、コンクリートかなにかみたいだった。非力なバリョーラは腕一本を持ち上げるのがやっとで、とても陸に引き上げることなんてできない。
「なんてことだ!」バリョーラは焦った。誰かを連れてきて、手伝ってもらうというのは絶対に避けたいことだった。ここは彼だけの楽園であり、彼女は彼だけのための存在でなくてはならなかった。そして、他の連中に伝えて手伝わせたら、彼らはすぐに彼女を自分だけのものだと思い込むに違いないと彼にはわかっていた。彼女は彼のものであり、他の誰も所有権を主張することはできないはずなのに。
ミハイロフらはビーチの裏の静かでごつごつした岩場に来ていた。人影はビーチと違ってまばらで、目に入るのは釣りを楽しむ数人の男たちと彼らからこっそり魚をいただこうと狙う野良猫くらいのものだった。
エノキはリーディナと話し合い、肩にひとつ、脇腹にひとつ穴を開けようということに決めた。リーディナは香りのついた石鹸でエノキの肌の穴の開くべき場所を洗ってやり油を塗り、頭の上から薄桃色の花びらを散らした。穴というのはその実簡単に開けられるものでこんなものはただの手続きであったが、こういった儀式は穴をあける人にとっては重要なことだとリーディナは考えていた。
「じゃあ空けましょうか」とリーディナがエノキに声をかけるとエノキの胸は期待と恐怖で凍りそうになった。
穴をあける行為は本当に簡単に終わった。リーディナが肩に指で触れ、バースデーケーキのろうそくを消すみたいに勢いよく息を吹きかけるとそれだけで呼気に押し流されて穴が広がった。脇腹にも同様にして穴を開ける。
自分の体を見つめていたエノキの胸に熱いものが広がり、それは背中へと流れた。彼女の背中から血に濡れた二枚の大きな翼が花が開くように現れた。そ体の痛みに顔を覆うと頬の皮がボロボロと剥がれた。顔に触れれば触れただけ皮膚の断片は青々とした葉やあるいは赤や白や青の花びらに転じ、地面にはらはらと落ちた。そして肌の下からは年老いた醜いよぼよぼの肌が顔をだした。エノキはかつて発したことのないようなしわがれた高笑いをすると、海の方へ向かって走り出した。そして生やして間もない大きな翼をぎくしゃくとさせながら揺すり、砂浜で助走をつけて空へと飛び立った。よろよろとした羽ばたきは不恰好だったが、それでも風を大きな翼でしっかりと受け止め、高度をあげた。エノキは空をぐるりと一周すると海へ向かった。潮風が肌に触れると彼女の額や頬の皮がますます剥がれていき、花びらや葉が海の上に道のように跡を残した。ミハイロフとリーディナは彼女の姿が見えなくなるまで大きく手を振った。