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穴だらけ  作者: dorge
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プロローグ

「人間が完全だったら人間は神なのだが」と古代の物書きは言ったらしいが数千年後その言葉が全く不適当であることが判明した。人間が完全だったら、人間は神ではない。なぜなら神は完全ではないのだから。



 ぐしゃりと音を立ててベッドが崩れ、女は床に背中を強く打ち付け、激痛で目覚めた。伏せていたベッドは思い切り真二つに割れていた。

 ベッドの木材の横腹には大きな穴が空いていて、そこから裂けたようだった。

 木屑の舞うその宿屋の部屋で黒くて小さな虫が一匹、旋回していた。コバエのような小さい虫だがその羽音は耳に痛く響いて明け方の愚鈍な脳みそをさらに攻撃した。探るように部屋を回ったあと虫はベッドに吸い込まれるように近づいていった。それでベッドをよく見れば、穴、穴、穴、木材には他にも小指ほどの大きさの小さな穴が無数にある。昨日の夜までは何もなかったのにな。まさか自分のせいにさせられる、なんてことはないだろうか。そんなことを女は考えた。


 寝ぼけ頭で思索していると突然陽の光が雲に遮られたように部屋が暗くなった。窓を振り返ると窓の向こうが真っ暗で黒色のペンキがガラス一面に塗りたくられたみたいだった。その窓が震えてギシギシと嫌な音を立てる。その暗闇が窓に張り付いて震わせているのだ。地鳴りのような低周波の振動は部屋に響き脳を揺さぶる。少しづつ闇に慣れた目が、大きな眼球と大きな黒い羽の不快な輪郭を捉えて女は窓に張り付いたそれが虫だと気づいた。虫の巨大な複眼は無感情にこちらを見つめていて、口では小さくておびただしい数の歯が不気味にうごめいていた。女は、急いで部屋の隅の剣を手にとり、窓を開け反対の手で抜刀し小さく一閃、虫の首を刈った。虫の真っ黒な血が部屋一面に飛び散り女の肌を汚す。

 しかし胴をなくした虫の首はまだ自分の絶命を知らず、女を見つめていた。虫の口から剛毛にまみれた舌らしき太い触覚が伸び、油断しきっていた女の胸を舌尖は刺し貫いた。一瞬遅れて女の刃が振るわれ舌を根から切断する。女のマントの左胸にこぶしほどの穴が貫通し、そこを風が通る。

 落ちた虫の頭は床で無為に触覚や歯を動かして、やがて静止した。


 台無しになってしまった宿屋での朝のひとときを埋め合わせるために女は部屋の外の共有キッチンで湯をわかし、紅茶を淹れた。

 紅茶を片手に部屋に帰ると、片隅でそれまで平気な顔で眠り転がっていたブルドッグが目を覚まし、巨大な虫の首に驚いてギャンギャンと喚き威嚇をしながらその周りを回っていた。女はそれをなんとかなだめ、1つ下の部屋に繋がる床の穴(これは前から空いていた)から階下の連れに、早々に退散した方がいいと声を掛ける。白い壁に虫の黒い血で描かれた偶然の壁画はなかなか芸術的な仕上がりだったが、偏屈そうな宿屋の主人が共感してくれるかは怪しいものだ。知れる前に立ち去ってしまった方がいい。


 宿を出た女2人に犬1匹は、地面のいたるところに散らばった穴に足元を気をつけながらひっそりと急ぎ足で朝の街を歩く。穴だらけの街は当然歩きにくい。しかしもう誰しもそれらに慣れきっているので平然とそこを歩くのだし、道を歩く馬や羊たちも平然と穴を避けて駆け回る。


「ミハイロフ、胸に随分綺麗に穴が空いたのね。おかげで胸のきれいな穴がよく見えるわ。」

「ああ、風がびゅうびゅう通って少し寒いよ。早く替えの服が欲しいな」

「もったいのない。私あなたの穴が好きだわ。せっかく月のように美しいその穴を胸に隠すなんて、あなたは芸術ってものが理解できないのでそんなことができるんだわ。覚えているわよね?あの雄弁で自信家の画家があなたをモデルに絵を描いたときのこと。彼、険しい顔をして何時間もかけて結局丸い穴一つしか描けなかった。あなたの胸の穴には人を骨抜きにするような魔力があるんだわ。

 そのうち一枚セーターを縫ってあげる。穴の部分も中外の反対な袖みたいに空けて、穴の内側からも体が覆われるようにしてあげる。そうしたらいつでもその美しい穴の形を見せびらかすことができるわ。きっと道を歩く人はだれでもあなたの穴に釘付けになる、隣を歩く私もとても気分がいいはずだわ」そう言って彼女はミハイロフのマントの胸部にあいた穴に手を突っ込みその胸の穴の縁を優しく愛撫した。

 ミハイロフの左の乳房はまるごと失われていて代わりにそこには文庫本一冊くらいはすっぽり入る大きな穴があった。穴の側壁は感覚が剥き出しになっていて、彼女の指の腹がなぞるとこそばゆくもどかしい気持ちになってしまうのを抑えられない。彼女の指は蛇のように動き回り、探していた襞を見つけ出すとそこを執拗になぶりはじめた。ミハイロフの体中を猥褻な感情が急激に巡る。「あらまあもうすっかり頬が赤くなっているわね。トマトみたいで食べちゃいたいくらい可愛らしい。」リーディナの言葉ががんがんと頭に響き、意識を揺さぶる。

 彼女は最近この穴の縁がミハイロフの感情に繋がっていると気づいてからこう言う風に半分冗談、半分本気で誘惑するのだった。胸のうちを歓喜の呼び声が行進し、高みへと登っていく。

 若い苗が勢いよく伸びいよいよつぼみが開くという刹那、蝶がさなぎを裂いて顔を出し、飛ぶためについに羽を広げるという刹那、自分で趣味を凝らした家を建てている男が、ついにその家の完成のための最後のレンガをはめこむという刹那、あるいは未来に希望と勝利を疑わぬ王がきらびやかな王冠をついにその頭上に頂くという刹那、不意に彼女の小指の爪が意図せぬ領域に触れ、ミハイロフの体はびくんと跳ね上がった。リーディナの手を振り払うと彼女は口を大きくあけ下品に高笑いをしてそのまま地面に崩れた。リーディナは拍子抜けしたようになって、そんなミハイロフを見つめた。また失敗してしまったのだ。

 ミハイロフの穴の側面は感情をマップしていて、ある部位は怒りを、ある部位は悲しみを、といった具合にミハイロフの感情を操作できるのだったが、あろうことか欲情の部位のすぐそばが笑いを司る部位になっているのだった。いったいどうした皮肉だろう。繊細で時間をかけた愛撫もいつもこれのせいで簡単にぶち壊しになってしまうのだった。

 笑いの波が引くとミハイロフは普段の冷めた顔つきに戻り、リーディナの心は若干の憤りを抑えられなかった。


 穴は欠落を表す。周囲にある当たり前の何かの欠落が穴に見えるのだ。ミハイロフの胸の穴は感情の欠落を意味した。穴が広がるにつれ、感情は次第に希薄になっていった。その半透明な心が半年前ふと「花見がしたい」と思い立った。それで彼女らは2人で一面梅の咲いた景色を見るために旅をしているのだった。


 最初に穴が発見されたのは1000年以上前。その後穴はゆるやかに世界に広がっていった。穴は別名bugと呼ばれている。なぜかと言えば穴のあるところには必ず虫がいるからだ。それで昔の人はアリが巣穴を掘るように虫たちがこれらの穴を生み出しているのだと考えた。

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