笈の小文
江戸を発つにあたり、其角邸にて送別会がとりおこわれた。
旅人と我名よばれん初しぐれ
これは芭蕉が詠んだ句。
もはや固有名さえ失い、ひとりの旅人となったことを宣言している。
弟子の露沾からも句を送られた。
時は冬よしのをこめん旅のつと
つとは手土産のこと。
いまは冬であるが、吉野につくころには春になっているであろうという句。「吉野」といえば「桜」なので、言外に春を示唆しているわけである。
なお同作者に「時は秋吉野をこめし旅のつと」なる句がある。使い回しである。
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芭蕉は最高の旅と、それを記した紀行文の完成を望んでいた。
しかし紀行文というジャンルはすでに完成しており、なにをしたところで古人の焼き直しになることは明白であった。
それでも、名所を見て、歌を詠むしかない。
芭蕉は壁にぶち当たっていた。
というより、誰もがぶち当たるべき壁に、きちんとぶち当たった。
この壁を破らねばならぬ。
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名古屋の鳴海に入り、一句詠んだ。
星崎の闇を見よとや啼千鳥
せっかく星崎に来たのだから、星を詠みたかったはず。
しかし折悪しく空は闇に閉ざされていた。
それでも巧みに詠むのが芭蕉である。闇なら闇でよい。旅はままならぬものなので、もはやこの程度で動じたりはしない。
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さて、旅を続けながら芭蕉は杜国について考えていた。
以前、ラブレターを送った相手である。彼女のことを考えながら、こんな句を作った。
寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき
アッー!
とんでもない駄句が出てしまった。ねっとりしすぎている。
かの名人も、色恋の話になると途端にアレになってしまう。
このとき芭蕉は杜国に会いたすぎて、弟子の越人に手紙まで出し「杜国ってどこ住みなん?」と聞いていた。
さらにもう一句詠んでおり、こちらは秀逸。
冬の日や馬上に氷る影法師
冴え渡る冬の空気の中、ひたすら馬を進める光景が目に浮かぶ。
正気に戻るとすこぶる腕がよくなる。
できればずっと正気でいて欲しいものである。
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合流した越人に案内され、三河の杜国を訪ねた。
「この辺ですよ、芭蕉さん」
「え、どこどこ?」
「ほら、そこ。そこです」
小さな家の前に、美形の女が立っていた。
忘れもしない顔!
「杜国! やっと会えた! 嬉しい!」
「はい。わたくしもです、芭蕉さま」
なぜ芭蕉が杜国の所在を知らなかったのかには、きちんと理由がある。
じつは杜国、米の空売りでパクられており、以前の住居を追放されていたのである。本来なら死罪だったところを、大名の配慮でなんとか減刑されていた。
だから芭蕉としては、傷心の杜国を癒してやりたかったわけである。
一緒に伊良湖岬へ出かけて一句詠んだ。
鷹一つ見付てうれしいらご崎
ここらには鷹にまつわる歌があるよなぁと思っていると、ちょうど鷹が来た。それだけでウキウキしてしまっている。どうか落ち着いて欲しい。
ちなみに鷹は冬の季語。冬以外にも鷹はいるが、歌の世界では、なんらかのいわくがある季節があてがわれるものなのだ。冬の鷹にどんないわくがあるのかは不詳。
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その後、ひとりになって熱田神宮へ。
かつて「野ざらし紀行」で訪れた際は荒れ果てており、「しのぶさへ枯て餅かふやどり哉」と、まともに参拝もできず、売店の餅を食うくらいしかすることがなかった。
しかし修復工事が無事に済んだようである。
磨なをす鏡も清し雪の花
飾られた鏡もピカピカになっていた。
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各地で地元の俳人たちと交流しつつ、故郷の伊賀上野を目指した。
歩行ならば杖つき坂を落馬哉
旅の難所「杖つき坂」を通過。
そこを馬で走破しようとしたところ、芭蕉は落馬してしまった。馬を引いていた馬子にも「へたくそだな」と渋い顔をされたらしい。
本当は推敲して季語を入れるはずだったのだが、もうやる気もなくしてこのままにしたようである。
句など詠んでいる場合ではない。
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ひなびた実家に入った。
「ぬわぁーん! 疲れたもぉーん!」
「おや甚七郎、お帰り」
姉が出迎えてくれた。
相変わらずの貧家を、なんとか切り盛りしてくれている。
「姉者、お酒ある?」
「飲み過ぎないようにね」
しかし飲みまくった。
おかげで年越しの瞬間を寝たまま過ごしてしまった。
二日にもぬかりはせじな花の春
初日はだらしなく過ごしてしまったので、二日目はちゃんとしようという句。
実家で存分にダラダラした様子がうかがえる。
なお、歌において、新年は格別な瞬間である。このとき詠む歌を「歳旦吟」という。
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その後、芭蕉は二十年ぶりに藤堂家へ招かれた。
かつて仕え、25歳という若さで早逝してしまった蝉吟。
その子が、いまは家を継いでいたのである。
さまざまのこと思ひ出す櫻哉
芭蕉はこの句に思いを込めた。
正直、芸術性の高い句ではない。
どうしても言い尽くせなかったのだ。言葉にならなかった。その事実を素直に詠んだ。
もし蝉吟が生きていれば、いまも一緒に歌を詠んでいたかもしれない。
家を継いだ蝉吟につき従って、芭蕉もこの地にとどまっていたかもしれない。
だが、そうはならなかった。
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伊勢山田に入った。
何の木の花とはしらず匂哉
伊勢神宮にも入った。
このあたり、芭蕉は平安期の歌人・西行法師の足跡を追っていたようである。
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三月。
芭蕉、またしても「いらご崎にてちぎり置し人」と合流してしまう。
もちろん杜国である。
どうしても会いたかったのであろう。あらかじめ会う約束をしていたようである。
前回は案内役の越人がいたが、今度は二人きりである!
「いやー、やっと二人きりになれたね」
「はい。わたくしのことは万菊丸とお呼びくださいね、芭蕉さま」
「キュン……」
アッー!
杜国、よりによって幼名を名乗ってしまう。お前は森蘭丸か。
これには芭蕉もノリノリになってしまう。
旅に出るにあたり、二人で笠の裏に句も書いてしまう。
よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠 芭蕉
よし野にてわれも見せうぞ檜の木笠 万菊丸
これは間違いなくやらかしていると言わざるをえない……。
その後もだいぶ句が残されているが、ほぼ二人のデートの記録なので割愛する。各地を訪れ、吉野にて桜を満喫、また名跡を巡り、奈良の地にてようやく別れた。
春はずっと「万菊丸」とともに過ごしたことになる。
鹿の角先一節のわかれかな
鹿の角は時期ごとに枝分かれする。
その様子を両者の別れに見立てた。
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大阪、須磨、明石と巡り、句を詠んだ。
蛸壺やはかなき夢を夏の月
これは明石での句。
歌における「月」は特別な語である。しかし「はかなき夢」とともに「蛸壺」に押し込められてしまっている。
この後段に安徳天皇についての言及があるので、海に没した平家のことが念頭にあるのだろう。
芭蕉は、ここで無常に思いをはせる。
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いわゆる『笈の小文』にまとめられているのはここまで。
一連の行程は、芭蕉が出版したものではない。
芭蕉の死後、弟子の乙州が資料をまとめて出版したものだ。
芭蕉としても、当初は紀行文として出す想定でいたのだろう。しかし中核となる部分が杜国とのデートに終わってしまったので、出すに出せなかったのである。つまりプライヴェートな紀行文になるはずだった。
乙州は勝手なことをしたと言えるかもしれない。だが、もしこれがなければ、芭蕉の歴史に空白が生じていたことだろう。
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その後、芭蕉は江戸へは戻らず、京で過ごした。
またしても杜国と合流し、歌舞伎の鑑賞などをしたようである。
しかしこれが、杜国との最後の思い出となってしまう……。
(続く)




