旅という病
冬のある日、芭蕉はひとりで庵にあった。
この手狭な部屋は、じっくりものを考えるには居心地がよかったのである。
積もった雪が、あらゆる音を吸い込んでしまう。
42歳。
もう若くはない。
外から声がした。
「失礼いたします。曾良です」
「どうしました?」
「近くへ寄りましたもので、ご挨拶にと」
このころ門弟になっていた曾良は、芭蕉庵の近くに居を構えていた。
彼女はいちおう下級武士である。しかしどこにも仕官しておらず、浪人の身であった。神道を学んだ宗教家でもある。蕉門にも入った。これはいわゆる「遊俳」であり、職業として俳諧師をしているわけではない。たまに幕府から仕事を受けることもある。
これといって決まった職を持たぬ人物であった。
歳は芭蕉の五つ下。37歳。
「ずいぶん寒いでしょう。おあがりなさい」
「お邪魔いたします」
戸から外を覗いた芭蕉は、その雪景色に心躍るのを感じた。
「曾良、火を起こしておいて。私、ちょっと外にいるから」
「えっ?」
「いいからいいから」
きみ火をたけよき物見せん雪丸げ
このとき年甲斐もなくはしゃいでしまった句が残されている。
*
1687年、芭蕉は手紙を受け取った。
江戸を引き払い、鹿島へ戻った仏頂からだ。よければ月見をしにいらっしゃいという招待状だった。
八月、芭蕉は曾良、宗波とともに江戸を発った。
のちに『鹿島紀行』となる旅である。
宗波という人物は、近ごろ親交のできた禅僧だった。
各地を渡り歩いているから、旅にも慣れている。
ゴールは鹿島の根本寺。
鹿島は、現在で言う茨城県にある。
江戸からさして遠くない。
行徳までは舟を使い、その後は徒歩での旅路となった。
今回、馬の出番はない。
「先生、ペースが速くありませんか?」
曾良が苦笑気味に言った。
「ごめんごめん。つい楽しみで」
旅が始まると、芭蕉は興奮を抑えきれなくなってしまう。
以前の野ざらしの旅でも、ついあちこち回ってしまった。
自分が旅をしているのか、旅が自分を連れ回しているのか、分からなくなってくる。旅からは得るものが多い。発見の連続だ。好奇心を刺激してやまない。
景色の違いは、それだけで歌人の経験値を高めてくれる。
かなたに筑波山を眺めつつ、人里や原野を抜けた。
筑波山といえば名所中の名所。なのだが、ここで芭蕉は句を詠まなかった。
代わりに思い出したのは、弟子・嵐雪の句だ。
ゆきは不申先むらさきのつくばかな
筑波山は、日に照らされた姿の美しさから特に「紫峰」とも称えられる。
雪の絶景は言うまでもないが、やはりむらさきもよろしい。
句の芸術性よりも、山をたたえる気持ちを素直に優先させた内容だ。
筑波山には、ヤマトタケルが老人と歌を交わしたという故事が伝わっている。これは記録に残る最古の連歌だ。
ゆえに筑波山は、歌人にとっては重要な歌枕であった。これにならい、南北朝時代には『菟玖波集』なる書も作られたほど。
布佐のあたりで、日が暮れてきた。
ひなびた漁村だ。
芭蕉ら一行は、漁師の家に泊めてもらうことにした。
「こんばんは。かの有名な松尾芭蕉です。決して怪しいものではありません。よろしければ一晩泊めていただけませんでしょうか?」
「えっ? 旅のかた?」
漁師が芭蕉のことなど知るわけがない。
困ったようにキョロキョロしたかと思うと、漁師は納屋を指さした。
「まあ、あそこなら寝てもらっても構いませんけども」
「ありがとうございます」
言われた通り納屋に入った。
オンボロなのはまだいい。
深刻なのは、とてつもなく生臭かったことだ。
普段は魚の保管にでも使われているのであろうか。そこにいるだけで、鼻の穴に魚を突っ込まれているかのようだ。
「こ、ここに……寝るんですか……?」
曾良の表情がみるみる渋くなった。
宗波も顔をしかめている。
芭蕉はしかし自分から言い出した手前、引けなかった。
「仕方ないでしょ……」
笠をとり、腰をおろした。
生臭い。
ほかになにも考えられないくらい、生臭い。
皆、無言になってしまった。
じろじろと芭蕉を見てくる。
芭蕉だって生臭い。身を横たえても、眠れる気がしなかった。
やがて雲が流れて、月が出た。
うっすらと景色が見える程度には。
まだ夜だが、芭蕉はここを出る決意をした。
「漁師さん、予定が変わりました! 舟をお借しください!」
「ええっ?」
「お願いです! なんでもしますから!」
「いや、そういうのいいんで……」
*
拝み倒した甲斐もあり、夜舟で対岸まで送ってもらった。
八月十五日。
中秋の名月。
しかし昼から雨が降ってきた。
ようやく到着した根本寺は、ずいぶん立派な構えであった。
職員に事情を説明すると、仏頂はすぐに来るという話だった。しかし徹夜だったこともあり、芭蕉たちは寝入ってしまった。雨音が眠りを誘ったのであろう。
「松尾さま、松尾さま」
夜、仏頂に起こされた。
「わお、和尚さま……」
「そんなに驚かなくても。夜ですよ。雨がやみまして、月も見えるようです」
「なんと……」
月はやし梢は雨を持ながら
風が強かったのであろう。絶えず雲が流れているから、月が早く動いて見える。
木々の梢には雨が残っている。
*
仏頂と再会できたのはいい。
なのだが、月見の旅としては不発に終わってしまった。
思い出作りにはよかったのだが、紀行文としての完成度はとうてい納得いくものではなかった。
芭蕉は、複雑な気持ちを抱えたまま深川へ戻った。
出迎えたのは弟子の露沾。歌の席を設けてくれた。
露沾というのは、かの磐城平藩の藩主・内藤風虎の子である。しかし藩で起きた問題に巻き込まれ、彼女は跡を継げなくなってしまった。それで蕉門に入った。歌の才はなかなかのものであった。
時は秋吉野をこめし旅のつと 露沾
鴈をともねに雲風の月 芭蕉
山陰に刈田の顔のにぎあひて 沾蓬
武者追いつめし早川の水 其角
*
その後、芭蕉はひとり庵にこもった。
早く次の旅に出たい。
旅だ。
旅が芭蕉をいざなっている。
心が満たされない。
できれば歴史に残るような「紀行文」を作りたい。
『野ざらし紀行』も『鹿島紀行』も完璧な旅ではなかった。
もっとうまくできたはずである。
そのためには、ともに旅する仲間、訪れる名所、そして歌、現地でのドラマ、すべてが充実していなければならない。
芭蕉はエリートではない。
松尾家は武士ということになっていたが、芭蕉の記憶ではただの農家であった。まともな教育も受けていない。
しかし蝉吟の誘いで歌に出会った。季吟という稀代の才に触れることもできた。仏頂からは禅を学んだ。甲斐では門人の蔵書を読みあさることもできた。
学べば学ぶほど、自分の無力を思い知らされた。
まだなにかある。
なにか。
そのなにかを探さねばならない。
きっと旅の先にあるはずだ。
*
身を休める間もなく、新たな旅を始めようとしていた。
これは芭蕉の死後、『笈の小文』として刊行されることになる旅だ。
序文にはこうある。
ついに無能無芸にしてただこの一筋につながる
自分には能がない。芸もない。だが、俳諧だけは諦めなかった。その結果、蕉風へとたどり着いた。
己を卑下しているのではない。
諦めきれないものを追い続けて、ついにつかんだと言っている。
この少し前には、こうも述べられている。
ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすすむで人にかたむ事をほこり
ある時はイヤになって投げ出そうとしたこともあった。
ある時は進んで人に勝つことを誇った。
俳諧のために不快になったことは一度や二度ではない。
それでも、やめなかった。
やめられなかったのだ。
すでに取りつかれていた。
成功も失敗も俳諧とともにあった。人生の一部だ。これとともに死ぬる覚悟でいた。
43歳になった。
いつ命が尽きてもおかしくない。
自由に旅ができるのもいまのうちだ。
(続く)




