野ざらし紀行
1684年、夏――。
芭蕉は、浅草に住む千里という弟子の家に招かれた。
千里はあまり多くの句を残していないが、人柄がよく、芭蕉からも好意的に見られていた人物である。
「先生、わざわざ恐縮です」
「ご厄介になりますよ」
近ごろは弟子も増えた。
深川に隠棲しつつも、様々な句を発表していた芭蕉は、すでに俳諧師としてそこそこの地位を得ていた。しかしまだ日本一ではない。あくまで江戸の宗匠である。
海苔汁の手際見せけり浅黄椀
このとき千里に供された海苔汁に感銘を受け、一句残した。
さて、ただ遊びに来たわけではない。
芭蕉は、千里をともなって旅に出ようとしていたのだ。
のちに『野ざらし紀行』として発表される行程である。
野ざらしとは、風雨にさらされていること。または行き倒れた白骨のこと。
つまりは決死の旅を覚悟していた。
野ざらしを心に風のしむ身哉
旅はこの歌から始まっている。
*
旅の目的は、数年前に亡くなった母の墓参り。
ついでに地方の俳諧師たちと交流し、蕉門を広めようという気持ちもあった。
進むは東海道。
目的地は伊賀上野である。
芭蕉と千里の両名は、江戸を発って西へ向かった。
故人の供養も兼ねているから、芭蕉は髪を剃り、僧形になった。出家したわけではないから、ただのコスプレだ。この格好が、のちに悲劇を引き起こすことになる。
*
芭蕉の旅のスピードが速すぎるので、忍者ではないかと疑われることがあるが、実際はちょくちょく馬を利用している。今回もわりと馬頼みだ。
「先生、のどかですね」
「寝てるからついたら起こして」
「ええっ……」
かくして両名は箱根を越え、富士山に遭遇した。
俳諧師とは、歌枕に遭遇したら必ず歌を詠む生き物である。富士山に遭遇してしまった以上、歌を詠まねばならぬ。
霧時雨不二を見ぬ日ぞおもしろき
不二は富士のこと。
霧のせいでよく見えない富士山を面白がっている。
さて、そうして進んでいくと、富士川へ行きついた。
ゆったりとした河川である。
そこでは三歳くらいの子供が、ビャービャー泣きまくっていた。どうやら捨て子のようだ。
「先生、どうします……?」
「かわいそうだけど、連れて行くわけにもいかないわね。せめて食べ物でもくれてやりましょう」
芭蕉は子供に食料を投げ渡した。
そして俳諧師たるもの、なにか事件に遭遇したら歌を詠まねばならぬ。
猿を聞人捨子に秋の風いかに
古来より、猿の声はよく歌のネタにされてきた。
今回は、切り裂くような子供の泣き声を、猿声にたとえて詩的にまとめたものであろう。しかし「いかに」などと気取っていないで、子供を保護してもよかったはずである。
が、芭蕉は通り過ぎた。
今回はなかば死出の旅路なのだ。子供を巻き込むわけにはいかなかった。
*
やがて「小夜の中山」へ出た。
ここはよく歌のネタにされる名所、いわば歌枕である。かつて重頼の出した『佐夜中山集』のタイトルもここに由来する。
絶景の名所というよりは、旅の難所として有名であった。
ともあれ、名所へ来たら歌を詠まねばならぬ。
馬に寝て残夢月遠し茶の煙
この句は、杜牧の漢詩『早行』のオマージュと言われる。馬上で寝ていたら、いつの間にかだいぶ進んでいたよ、という詩である。「残夢」という語もそこからの引用だ。
芭蕉は古詩の追体験をしたわけだ。
馬上で寝ていたら、いつの間にか小夜の中山へ来ていたのである。
茶の煙、あるいは炊事の煙は、民が平和に暮らしていることを意味する。
*
かくして伊勢へ。
芭蕉はウキウキであった。せっかく伊勢へ来たのだから、ぜひ伊勢参りをしたいと思ったのである。
「ほら、千里。行くよ」
「待ってくださいよ、先生ぇ」
大はしゃぎで伊勢神宮へ駆け寄る芭蕉。
だが、行く手を阻むものが現れた。
「スタァァァップ! そこで止まって!」
伊勢神宮の神職だ。
「はい? このところバキバキに高まってる人気俳諧師・松尾芭蕉になにかご用ですか?」
丁寧きわまりない自己紹介が出た。
神職はしかし首をかしげるばかり。
「誰です? まあ誰でもいいんですが、宗派が違いますんで、お坊さまの参拝はご遠慮願います」
「は? お坊さま? 特に出家とかしてないんだが?」
「でもそうでしょう、どこからどう見ても」
ガチの僧形であった。
芭蕉は目を丸くし、それでも食い下がった。
「え、ダメ? 神仏習合は?」
「うちはそのへん厳格に分けてますんで……」
「じゃあ服脱ぐから! ね? それでいいでしょ?」
「ダメに決まってるでしょ! 全裸の女なんか、ここじゃなくたって出入り禁止ですよ!」
「ファーッ!」
芭蕉、壊れた。
伊勢神宮まで来たのに、中に入れなかったのである!
コスプレのせいで!
とはいえ、名所に来たからには、なんとか詠まねばおさまらぬ。
三十日月なし千とせの杉を抱嵐
ちょうど八月の三十日であった。
夜になったが月はナシ。
有名な神宮杉を、嵐が抱きしめている、というものだ。
中に入れてもらえなかったものだから、外から眺めてなんとか詠んだ。
ところで、どれも破調の句ばかりである。
この時期、芭蕉は七五調の殻さえ破ろうと奮闘していた。
*
九月、ついに伊賀上野へ到着。
姉・半左衛門との久々の再開だ。
「ああ、甚七郎。長旅、大変だったろう……」
「ずいぶん遅くなりました」
「おあがりなさい。お連れのかたも遠慮なさらず」
いくら江戸で芭蕉が活躍しようと、実家は貧しいままだ。
ややすると、半左衛門が袋を持ってきた。
「母上の遺髪です。あとで墓参りにも行ってきなさい」
「はい……」
手にとらば消ん涙ぞあつき秋の霜
*
墓参りを終えた芭蕉は、伊賀を発った。
しかし、まっすぐ江戸へ帰ったわけではない。さらに西を目指した。
まずは千里の故郷である大和国へ。
「はぁ、なつかしい景色です」
「ここまで道案内ありがとうね」
「いえいえ、お役に立ててなによりです」
千里とはここでお別れ。
その後、芭蕉は吉野など各地を巡ったのち、琵琶湖を過ぎ、美濃の大垣へも入った。
大垣には谷木因という門人がいた。もとは季吟に学んだ芭蕉の同門である。その後いちど談林へ行き、そして蕉門に入った。大垣蕉門のまとめ役のような人物だ。
滅多に顔を合わせることはないが、手紙はよくやり取りしていた。
「松尾先生、ようこそいらっしゃいました」
「ご厄介になりますよ」
木因は廻船問屋の主人であるから、裕福であった。
弟子というよりはパトロンに近い。
しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮
当初は決死の旅のつもりでいたが、生きたまま秋の暮を迎えてしまった。
*
十一月、名古屋へ。
ここでは現地の俳諧師たちと顔を合わせた。のみならず、のちに「俳諧七部集」に数えられる『冬の日』が巻かれた。
歴史に残る句会である。
参加者は、野水、荷兮、杜国など。
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
これが芭蕉の発句。
かなりカマした破調である。
同席した連中はまだ門弟ではない。ナメられたら飲まれる。芭蕉としてもガツンと行かねばならなかった。
*
旅は終わらない。
芭蕉は江戸に帰らず、ふたたび伊賀へ立ち寄った。
実家で年を越そうというのである。
「甚七郎、寝てないで少し手伝っておくれ」
「うん」
とはいえ、ついゴロゴロしてしまう。
この旅は結局、帰省の旅であった。
年が明けると、芭蕉はいちど奈良へ寄ったのち、名古屋を通って江戸へ向かった。
途中、杜国に句を送っている。
白げしにはねもぐ蝶の形見哉
白芥子にとまった蝶が、形見のように羽を落としていったよ、という、あまりにもセンチメンタルが過ぎる句である。
これはラブレターと言ってよいかもしれない。
芭蕉は、名古屋で出会った杜国になんらかの思いを抱いていた。
*
四月、江戸へついた芭蕉は、庵にて一句詠んだ。
夏衣いまだ虱をとりつくさず
とにかくヘトヘトになっていることが分かる。
その一方で、充足感に満ちてもいた。
実家に帰ることができた。各地の俳諧師と交流することもできた。そしてこの旅をネタに紀行文をまとめることもできる。
大仕事を終えた気分であった。
(続く)