芭蕉庵炎上
柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな
芭蕉庵に住み始めた甚七郎が詠んだ句である。
この「柴の戸」は「貧しい住処」を意味する表現。
あばら家に強い風が吹きつけて、木の葉が集まった。これで火をおこして一服どうぞと言わんばかりに。
侘しさを楽しんでいる。
このころまだ芭蕉を名乗ってはいないが、物語上、彼女を芭蕉と呼ぶことにしよう。
さて、深川で暮らし始めてからというもの、芭蕉の生活はめっきり寂しくなった。
たまに弟子は来る。だが、それだけだ。社交界の連中とはほとんど縁が切れた。芭蕉も縁を切りたかった。彼らの多くはアートに興味があるわけではなく、金でアートを買い叩いて自分に箔をつけたいだけだったのだ。
芭蕉は自宅を出て、ふらふらと散歩を始めた。
日本橋と比べるとだいぶ静かである。家々が密集してはいるが、繁華街ではないから、ひっそりとしたものだ。
臨川庵という禅寺の前を通りかかった。
僧形の女が庭を掃いていた。
目が合ったので、互いに辞儀をした。
そんなことが幾度かあった。
ある日、芭蕉は思い切って訪ねてみることにした。
「こんにちは」
「こんにちは」
僧の歳は芭蕉とほぼ同じくらいであろうか。愛想は悪くない。が、とりわけ親しみやすいというわけでもなかった。不思議なたたずまいだ。
「わたくし、近ごろこちらへ越してきた松尾と申します。よくここを通るのですが、いつも庭を清められてますね……」
「いやはや、庭掃除のほかにすることもありませんで。拙僧は仏頂と申します。よろしければ、お茶でもいかがです? じつは暇を持てあましておりまして」
「なんと……。ではせっかくですので」
人のもてなしを受けるのは気おくれする。
しかしこの侘しい草庵には、客を拒む要素がなにひとつ存在しなかった。
小さなお堂がただそこにぽつんと建っているだけ。もちろん壁はある。あるが、野原とつながっている感じさえあった。
中は板敷。
茶室かと思うほど狭い。
囲炉裏には火もない。仏頂は薪をくべ、火をおこすところから始めた。つまり茶が出てくるのはだいぶ先になる。
仏頂は淡々と作業をしながら、こう尋ねてきた。
「なにかお悩みですかな?」
「えっ?」
芭蕉が面食らっていると、仏頂は少し笑った。
「いやなに、坊主に用があるとすれば、だいたい葬式かお悩み相談ですからな。葬式の話をしないところを見ると、きっと相談事かと思いまして」
いや、おそらく芭蕉の表情から察したのであろう。
「じつは……」
俳諧師としての人生を歩み始めたこと。
しかし行き詰まりを感じていること。
なにかを変えたいと思っていること。
芭蕉はそんなことをぽつぽつ話し始めた。
茶が出てきた。
「無為自然、という言葉がございますな」
「むい……なんです?」
「熱いのでお気をつけて」
「はぁ」
芭蕉は湯呑を受け取り、さましながら少しすすった。目のさめるような苦さだ。
仏頂は鉄瓶を囲炉裏へかけた。
「なるようになる、ということです。たとえ、なすつもりがなくとも」
「えーと………」
「おや失礼。暇さえあれば禅問答ばかりやっておりますものでな。どうしてもこのような言い回しになってしまいます。しかし結局のところ、松尾さまのお悩みは、松尾さまにしか解決できぬものでございましょう」
本当だろうか?
芭蕉は茶をすすりながら、仏頂の言葉を噛みしめた。
本当にそうなら、おそらくヒントさえ出さぬはず。ところが仏頂はなにかを示唆した。いや、あるいはすでに結論まで言ったのかもしれない。
「あの、和尚……」
「日が暮れてまいりましたな。庭を掃いてまいります。松尾さまはおくつろぎくだされ」
箒を持って行ってしまった。
囲炉裏では薪がパチパチと音を立てている。
庭からは箒の音。
それ以外、なにもない。
*
このころ、俳壇の中心は大阪であった。
談林派の猛威はとどまるところを知らない。
大矢数の井原西鶴や、破調の菅野谷高政などが名をあげ、一部は特に奇抜さを競うようになっていた。
芭蕉もその影響を受けた。
1681年、高政の刊行した『ほのぼの立』に芭蕉の句が採用されている。
枯枝に烏のとまりたるや秋のくれ
五七五の形式を破り、五十五となった破調の句。
字余りもいいところだ。
これが「最先端の句だ!」とばかりに掲載されたのである。
芭蕉にとっても試行錯誤の時代であった。
この句の見どころは、しかし破調というだけではない。寂しくも侘しい禅味がある。談林の殻を、いままさに破らんとしていたのである。
芭蕉はあれから幾度も臨川庵を訪れ、仏頂から禅の思想を学んでいた。
*
芭蕉は水道工事の仕事を請け負いながらも、みずからの俳諧を完成させんとして苦心していた。
弟子も徐々に増えた。
1682年、西山宗因が死去。
すると「好き勝手やる」が信条だった大阪俳壇は、タガを失い、散り散りになってしまった。談林は大所帯だったこともあり、もはや一門としては機能しなくなっていた。
同年、西鶴は『好色一代男』を刊行。
これは俳諧集ではなく、愛欲を描いた物語だ。
西鶴は俳諧に専念するでもなく、あっさり作家へ転身してしまった。
高政もその後はパッとせず、なにをしているかも分からぬありさま。
話題を独占してきたプレイヤーたちが、いつの間にか俳壇の表舞台から姿を消してしまった。
芭蕉だけがその場にとどまり、俳諧を続けた。
なにかをつかみかけていた。
談林の俳諧はたしかに面白い。分かりやすい。庶民にもウケるだろう。
だが、制約もなく好き放題に暴れているだけではダメだ。
なんらかの信ずるところがあった上でなければ。
芭蕉はそれを禅に見つけた。
もちろん、堅苦しくしたいわけではない。遊んでもいい。ただしそれは、人間の営為でなければダメだ。ウケ狙いの誇張した描写ではならないのだ。
笑っている人間もいつか死ぬ。
いつか死ぬ人間も笑う。
滑稽と死はそう遠いものではなく、地続きの現象である。
*
同年、天和の大火が発生。
昼に始まった火事が、翌日の朝まで続いた。
炎が江戸の街を飲み込んでしまい、ほとんどの家が焼失した。
隅田川が近かったこともあり、芭蕉自身は無事であった。
しかし芭蕉庵を失った。
燃え盛る炎に、人間の無力を思い知らされた。
芭蕉は江戸を離れ、門下生である甲斐国の高山伝右衛門を頼った。
伝右衛門は金持ちであったから、蔵書もなかなかのものであった。
芭蕉はこれらの書物から、数多くの知識を吸収したと言われている。
江戸の新居は、盟友の山口素堂が中心となって手配してくれた。
弟子や有志に呼びかけ、芭蕉のために金を出し合おうじゃないかと呼びかけてくれたのだ。
じつのところたいして集まらなかったらしいが、それでも新たな芭蕉庵ができた。
霰聞くやこの身はもとの古柏
1683年、芭蕉は一句詠んだ。
新居で霰の音を聞いたのだろう。しかし住んでいる人間は以前のままだ。
同年、成長著しい其角が俳諧集『虚栗』を出すことになった。
「先生! 跋文書いてくんろ!」
当時クソガキだった彼女も、すでに22になっていた。
芭蕉は39歳。
跋文というのは、書の最後に据えられる文章のこと。其角は作品を出すにあたり、師匠に一筆お願いしに来たというわけだ。
その日もひょうたんから酒を飲んでいた。
「あんたね、そんなに飲んでたら体壊すよ?」
「いやぁ、アタイ江戸っ子っすよ? ヨユーでさぁ、ヨユー。それより跋文くださいよぅ」
「しょうがないわね、ホントに……」
この『虚栗』には芭蕉自身も参加しているから、跋文を書くのはやぶさかではなかった。
それにしても、其角は奔放である。
たとえ師であろうと、芭蕉を神のようにあがめたりしない。かの西鶴とも平気で交流する。酒もやめない。
間違いなく才気に満ち溢れていた。
芭蕉としては、そういう其角に対して、言いたいこともひとつやふたつではなかった。なのだが、それでも彼女が自分の弟子であり続けているという事実に、少なからず満足をおぼえていた。生き様がどうあれ、才能は才能だ。
のちに距離を取りつつも師弟関係を断たなかったことは、このいわく言いがたい関係性による。
(続く)