フル立机
かの季吟に学び、かの宗因と歌を詠んだ甚七郎。
その存在は、まだまだ江戸中に知れ渡ったとは言いがたかったが、俳諧師の界隈では次第に噂となっていた。
ある日、甚七郎は人づてにある人物を紹介された。
商売のかたわら、熱心に俳諧を続けている人物。
鯉屋の杉風だ。
近ごろ勢いのある松尾桃青と、ぜひお近づきになりたいというのである。
このころ甚七郎はまだ一門を起こしていなかったから、あくまで同好の士という関係になる。
「鯉屋をしております杉山と申します。杉風とお呼びください」
「これはこれは……」
甚七郎31歳。杉風29歳であった。
杉風は商売人らしく、物腰の柔らかな、それでいて隙のないたたずまいをしていた。
「なんでも、西山先生と一緒にお歌を詠まれたとか」
「偶然に偶然が重なりまして」
「羨ましいものです。手前なども商売の合間に歌をたしなんでおりますが、これがなかなか芽を出さず……。西山先生にお会いすることさえかないません」
商売柄なのかもしれないが、妙に謙遜してくる。
あまりこういう対応に慣れていなかった甚七郎は、少々ムズムズしていた。
杉風も察したらしい。
「あ、いや、これは失礼いたしました。ひとりで長々と」
「いえいえ。当方いまだ修行中の身でして、恐縮しておった次第で……」
などと社交辞令を交わしていると、外から大きな声が響いてきた。
「頼もーっ! 頼もーっ!」
聞いただけで分かる。
クソガキの声だ。
いったいどこの誰だか分からないが、そのままにしておいては迷惑千万。
甚七郎は「ちと失礼」と立ち上がった。
戸を開けると、少女が仁王立ちしていた。着流しに一本差し、ひょうたんから酒を飲んでいる。
「あんたかい、伊賀から来た忍者ってのは?」
「違います」
「え、でもあんた松尾さんだろ?」
「そうだけど、忍者じゃないの」
「アタイは其角ってんだ。ね、アタイに俳諧を教えてくんろ!」
「……」
ピシャリと戸を閉めた。
が、すぐに開けられてしまった。
「なんで閉めるんだ! さてはケチンボだな?」
「あのね、私は忙しいの。ガキはガキと一緒に遊んでなさい」
「やーだー! 俳諧したい! 俳諧させろ!」
「もー、クソムカつくクソガキね……」
このとき14歳のクソガキが、のちに芭蕉の一番弟子となり、江戸俳壇を仕切るようになる。
が、この段階では、間違いなくただのクソガキであった。
すると、遠方から別の女が現れた。
「お取り込み中でしたかな?」
こちらは誠実そうな雰囲気の大人だ。
甚七郎は其角を押しのけ、業務用スマイルに切り替えた。
「いえ、問題ありません。なにかご用で?」
「私、嵐蘭と申します。俳諧をたしなんでおりまして。このところ活躍めざましい松尾先生に、ぜひお目にかかりたいと思いまして……」
このとき嵐蘭29歳。
杉風が顔を覗かせた。
「おや、お客さまですか? でしたら私は席を外しましょう」
立て続けに訪問客が来たものだから、正客の杉風にまで気を使わせてしまったようだ。
甚七郎はパニックになりそうだった。
「あ、いえ、大丈夫です。皆さん俳諧を愛する同好の士ですし、せっかくですから一緒にお話なんかどうかなーって……あはは……」
もうこうなってしまうと其角だけ追い返すわけにはいかない。
「ふーん。じゃ、あがらせてもらうぜーい」
其角は堂々とあがりこんできた。
「あの、嵐蘭さんもぜひ」
「いいんですか? ありがとうございます!」
この三名は、のちに蕉門の最古参となる。
*
他日、甚七郎は、山口素堂の自宅を訪れていた。
「ははぁ、それはだいぶん大変でしたね」
「大変どころじゃありませんよ。特に其角とかいうクソガキ、まったく礼儀もなっちゃいなくて……」
この両名、その後も師弟関係にはならない。あくまで友人のままである。ウマが合ったのであろう。
「きっと名が知られてきたってことですね。先日の歌会でも思いましたけど、松尾さんには人を引き付ける力があるようです。きっとこれからも、素敵な出会いが待っていますよ」
「だといいんですが」
素敵かどうかはともかく、出会いがあるのは間違いなかった。
なお、この素堂という人物もなかなかの風流人であった。
実家は甲斐の酒屋であったのだが、家業を弟へ譲り、自分は歌や茶の湯に没頭した。京へ出向き、季吟に教えを請うたこともある。
1676年、甚七郎と素堂による『江戸両吟集』が刊行された。
両吟とは、二名で吟じることである。ひとりなら独吟、三名なら三吟となる。
ともあれ、ふたりで俳諧集を出すほど意気投合していた。
*
しかして甚七郎、俳諧だけに没頭しているわけにもいかなかった。
生活のために働かねばならなかったのだ。
卜尺の仲介で、水道工事の差配を任されることもあった。神田上水の工事にも携わった。労働者を集め、現場を割り当てる。
「松尾さん、現場行ったらもう終わってたんだけど! どうなってんのよ!」
「アタイらんとこは人手不足だから増やしといて! 大至急ね!」
屈強な人足たちから、とにかく要望が飛んでくる。
それらをサバくのが甚七郎の仕事だった。
「あーもー、頭おかしくなる! なんだか帳簿の数字も合わない気がするし! いや気のせいよ! 私はなにもミスってない……」
上からは効率を求められ、現場からは好き放題言われる。
のちに松尾芭蕉として知られる女も、若くして大成していたわけではない。長い下積み生活があったのだ。というより、芭蕉として全国に名が知られてからも、人間関係に苦しめられることになるのだが……。
それはのちほど。
*
1677年、33歳になった甚七郎は、ついに立机した。
立机というのは、一門をおこし、宗匠となること。
特に誰かの許可を取ったわけではない。いまから宗匠になると自分で決めたのだ。
号は「桃青」のまま。まだ芭蕉ではない。
杉風、其角、嵐蘭らが門人となった。
のみならず、甚七郎に住居を提供した卜尺も入門した。
甚七郎にそれだけの実力があることを、彼女たちも理解していたのだ。
だが、立机したからといって急になにかが変わるわけではない。相変わらず水道工事の仕事は続いていた。
金がなかったのである。
「お、お金なんてなくても俳諧はできるんだから……。でも、生活費くらいはなんとかしたいわね……」
ここが甚七郎の長所でもあり、弱点でもあった。
人に金を無心することはあった。しかし荒稼ぎだけは絶対にしなかった。必要なぶんしか欲しがらない。
意地のようなものであろう。
それだけに、本業をおろそかにして稼ぐ同業者には容赦がなかった。それがたとえ愛弟子であったとしても、だ。
この間も、さまざまな歌会に参加したり、知人の俳諧集に協力したりと、芸術活動にも打ち込んできた。
それでも甚七郎は満たされなかった。
なにかが足りないと感じたのだ。
初めて談林に触れたとき、たしかに興奮した。だが、周りもみんな同じような談林をやっているのを見ると、さらにそれを超えたくなってくる。
甚七郎の心は渇いていた。
大阪で、井原西鶴が暴れているという噂も気になった。
矢数俳諧などと称し、一晩に何千句も詠んでいるのだという。ここまで来ると、もはや見世物だ。
甚七郎としては、そんなバラマキのようなものを認めるわけにはいかなかった。歌は一期一会であるべきだ。
なのに、ふざけた西鶴のやり方が、庶民にはウケているのだという。
西鶴は、宗因の弟子でもあった。
甚七郎とは同門ということになる。
かたや華々しいパフォーマンスで脚光を浴びる西鶴。
かたや貧しくて地味な甚七郎。
なにかをしなくては、という気持ちが強くなってきた。
自分の求めているものはなんであろう。
自分のやりたいことはなんであろう。
そんなことを自らに問う日が続いた。
*
1680年、『桃青門弟独吟二十歌仙』が刊行された。
これは門弟による二十の歌仙である。
歌仙というのは、三十六句で完結する形式のこと。
杉風、其角、嵐蘭、卜尺のほか、新たに入門した服部嵐雪も参加した。
同年冬、思うところあった甚七郎は、活気あふれる日本橋を離れ、深川の庵に隠棲した。
日本橋はたしかに刺激的な場所である。賑やかだし、ムーブメントの最先端に触れることもできる。
だが、いつしかそういうものを、うるさく感じ始めていた。
門弟たちと歌をしているうち、もはや日本橋の人脈に頼る必要もないと判断したのだろう。
都心でぶいぶい言わせていたIT企業が、急に郊外へ移転したようなものだ。社交界からも外れてしまう。
寂れた場所であったから、交流の途絶えた人たちもいた。
尋ねてくる人もかなり減った。
甚七郎はそれでもよかった。
杉風の提供してくれた小ぢんまりとしたこの庵は、甚七郎にとってじつに居心地がよかった。
侘しくも、寂しい。
そういう場所で自分を見つめ直そうと思ったのだ。
門人の李下が、記念にと芭蕉の木を植えてくれた。
バナナとよく似た植物だ。
これを喜んだ甚七郎は、庵の名を芭蕉庵とした。
芭蕉庵松尾桃青。
それが甚七郎の通り名となった。
(続く)