阿蘭陀流
ただ「連歌」といった場合、普通は格式張った正式のものをさす。だからもし俳諧について語る場合、「俳諧の連歌」と呼ぶ。
連歌とは、ごく簡単に言えば、五七五と七七を交互につなげたものである。
そのスタートを飾る五七五は特別な一句だ。これを「発句」という。次の七七を「脇」、次の五七五を「第三」という。ラストの句は「挙句」。現代でも「挙句の果て」という言葉に残る。
月の句と花の句は特別な句であるから、好き勝手に詠んではならない。ここは連歌の要だ。基本的にゲストに詠ませる。特に花の句は重要であるから、その直前の句は、花を導きやすいよう詠まねばならない。いわゆる「花をもたせる」はこの作法に由来する。
俳諧では、五七五だけを鑑賞する文化もある。
これを特に「地発句」という。「俳句」という言葉は明治時代に正岡子規が作った言葉なので、江戸時代にはまだ使われていない。
*
甚七郎は数年をかけ、季吟から歌を学んだ。
心の欠けた部分を満たさんとして、必死でやった。自分には、もうそれしかないとばかりに。
才能と気力は充実し切っていたから、上達は早かった。
彼女のスキルは、いつしか他の門下生とは一線を画していた。
のみならず――。
才気ある若者にしばしば起こりうることだが、師の教えに、どこか物足りなさをおぼえてきたのである。
このまま同じことを繰り返していても、殻を破れないと感じ始めた。
そんなある日のことだ。
甚七郎は、いつものように京の季吟を訪ねた。
そこで、たまたま居合わせた重頼と、季吟がなにやら話をしているのを聞いた。
「大阪のほうで、宗因が勢いづいてるらしくてね」
重頼がそう告げると、季吟も眉をひそめた。
「西山先生が?」
「ずいぶんくだけた調子で歌を作ってて、それが庶民にウケてるんだってさ。あたしら貞門派のやり方はもう古いのかも」
「なにを弱気な。古いものには古いよさがあります」
「そりゃあんたは古典の申し子みたいなモンだけどさ。このままじゃ、みんな客取られちまうよ? あたしらの商売もあがったりさ」
甚七郎は、湧きあがる興味を抑えきれそうになかった。
伊賀と京を往復するだけの人生だった。しかしその外にも世界は広がっており、なにか新しいことが始まっている。
ずっとここに留まっているわけにはいかない。
「北村先生、ご相談が」
重頼が帰り、歌会も終わったところで、甚七郎はぐぐっと季吟へ歩み寄った。
「な、なんですか? 顔が近いですよ」
「失礼しました。じつは見識を広めたく、各地を探訪したいと思いまして……」
「おや、そうでしたか」
季吟は止めなかった。
甚七郎ほどの才があれば、ひとつところに留まれないのは明白である。いずれこのときが来ると思っていたのだろう。
甚七郎はこう続けた。
「しかしなにぶん勝手が分からず、どこへ行ったらよいものやら……。大阪が面白いらしいと聞いたのですが……」
すると季吟の片眉がピクリと動いた。
「大阪はおやめなさい」
「な、なぜです?」
「あなたには相応しくありません。江戸に私の弟子がありますから、そこを頼るといいでしょう。名主ですから、生活に困ることはないはずです」
「江戸……」
そこに幕府があることは知っている。
だが、他にはなにも思い浮かばなかった。文化の中心地はあくまで京だ。そこから離れた東国で、歌の需要などあるのだろうか?
甚七郎が渋っていると、季吟の目が細くなった。
「イヤならいいのですよ。あなたの思うようにすれば」
「いえ、そんなことは! ぜひお願いいたします!」
「結構。私から文を送っておきます」
*
1672年、自作の俳諧集『貝おほひ』を宗房の名で刊行。
きても見よ甚兵衛が羽折花ごろも
この有名な句が記録された。
1674年、季吟より『埋木』なる卒業証書を与えられ、京を出発。
同年、江戸の日本橋へ到着。
出迎えてくれたのは、小沢卜尺という有力者だった。
もちろん甚七郎はただの食客としてやってきたのではない。事務作業を手伝いつつの住み込みとなる。
伊賀上野では武家に出仕していたから、読み書き算盤は一通り心得ていた。
「少々狭いかもしれませんが、ご自由にお使いください」
卜尺に案内されたのは、隠居小屋のような平屋の建物であった。最小限の機能しか備わっていない。
それでも甚七郎にとっては十分だった。
「ありがとうございます」
東国はひなびたド田舎であろう。そう予想していたのだが、実情はまったく違った。
巨大都市だ。
たくさんの人々が行き交い、店先にはさまざまな商品が並べられ、街には活気がみなぎっていた。そして中心部には堂々たる武家屋敷。
徳川家の発令した参勤交代の影響もあり、江戸に諸藩の武家が住居を構えていたのであった。
江戸での生活は刺激的だった。
京と違ってみんな声が大きい。ただ会話しているだけでもケンカをしているようだ。実際、ケンカも多かった。それでいてカラッとしている。
卜尺の案内で、俳諧の仲間も増えた。この活気あふれる江戸では、洒脱な俳諧が大いに受け入れられていた。それも、貞門の俳諧ではなく、西山宗因の興した「談林」の俳諧である。
大阪で始まったムーブメントが、江戸にまで広まっていた。
「されば爰に談林の木あり梅の花」
これが宗因による、談林の樹立宣言とされている。
新しい風が吹き始めたのだ。
できるだけ堅苦しい形式を排し、俗っぽくて分かりやすい表現が盛り込まれた。これが町人にウケた。
談林は、貞門が超えずに厳守していたラインを次々と超えまくった。おかげで貞門からは「ユルすぎ」や「ふざけてんのか」などの批判も殺到したが。
あまりに風変わりな歌が横行したせいで、「阿蘭陀流」とまで揶揄される始末。
それでも談林派の俳諧は広く受け入れられた。
いまや文化の担い手は町人なのだ。
勢力図はすでに塗り替わっていたのである。
*
1675年――。
江戸の藩邸に、磐城平藩の藩主・内藤義概が滞在していた。号を「風虎」という。
彼女は藩政を部下に一任し、あくまで自身はアートに没頭するという、かなり行き過ぎた風流人であった。おかげでのちに藩を乗っ取られそうになったほど。
アーティストのパトロンもしており、かの八橋検校を召し抱えていたこともある。
もちろん俳諧も愛した。
屋敷に俳諧師を集めては、しばしば歌会をやったのだ。
徐々に名を知られてきた甚七郎も、その歌会に招待されるようになった。宗匠としてではなく、新進気鋭のプレイヤーとしてである。
のみならず、その席には談林の開祖・西山宗因も招かれた。
芭蕉と談林が、ついに邂逅した。
宗因は、かつて松江重頼とともに里村に学んだ人物。のちに重頼が貞門へ行ってからも、宗因は独自の道を突き進んだ。その結果がコレだ。
大阪を拠点に一門を広げ、江戸にまで名が知られるようになった。
風虎邸での連歌が始まった。
甚七郎と宗因が、百韻の中で相まみえたのである。
このとき甚七郎は「桃青」なる号を用いた。一説によると、漂泊の詩人「李白」にあやかったものではないかとも言われている。
名を改め、心機一転で挑んだ歌会だった。
いと凉しき大徳也けり法の水 宗因
軒を宗と因む蓮池 ショウ画
反橋のけしきに扇ひらき来て 幽山
石壇よりも夕日こぼるる 桃青
領境松に残して一時雨 信章
発句、脇、第三は特に重要であるが、それ以降は平句となる。
桃青の名は四句目に出た。
五句目に登場した信章というのは、のちに甚七郎の盟友となる山口素堂。
いろんな出会いがあった。
連歌では、他者の句に、自分の句を付ける。「付合」という。これを繰り返して一巻を紡ぐ。
いちど始まってしまえば、名人だろうが下手だろうが互いに付け合うことになる。いわば言語による協奏だ。気迫で負けていたら話にならない。
思想や作風が違えば、さながら荒波のようにもなる。
だが、それでいい。
人と人とは同じではない。だから、相性によってはなにが起こるか分からない。それこそが連歌の妙味なのである。
この歌会は、甚七郎にとって大きな経験となった。
じつに衝撃的だった。
貞門の殻を破りたかった彼女は、以降、宗因を師と仰ぐようになる。
「もし宗因がいなかったら、私の俳諧は貞徳の涎をねぶってるようなもんだったわね!」
のちに甚七郎は、弟子たちにこう述懐している。
貞徳は貞門の開祖であるのみならず、季吟の師でもある。その貞徳をこの言いよう。当時の感動がいかばかりであったかがうかがい知れよう。
「西山先生、大変勉強になりました」
甚七郎が頭をさげると、僧形の宗因は柔和な表情でうなずいた。
「いやいや、こちらこそありがとうございました。本日はとても楽しかった。またお会いしましょう」
「はい!」
かくして甚七郎は、いともあっさり談林へ傾倒した。
堅苦しい貞門の作法から離れ、軽妙洒脱な作風へと向かい始めたのである。
(続く)