せみのなく頃に 二
炊事をしては歌会。
そんな生活が数ヶ月は続いたろうか。
甚七郎は、パイセンの蝉吟とともに、いつものように季吟の歌会へ参加していた。
しかしこの日、季吟は忙しいらしく席を外していたため、暇を持て余した参加者たちは雑談などをして過ごしていた。
「みーんみんみんみん」
蝉吟は自分の世界に入っている。
芭蕉は他の会話相手を探すしかない。やむなく部屋を見回すと、湖春がお行儀よく座しているのが見えた。
「ねえ、湖春さん。俳諧ってバーンとカマしていけばいいんでしょ? 枕詞なんておぼえる意味あるのかな?」
甚七郎は日ごろから抱いていた素朴な疑問をぶつけた。決して年下の少女をからかってやるつもりではなかった。
湖春は柔和な笑みだ。
「宗房さん。俳諧といっても和歌の一種なんです。やはり基本を大事にしませんと」
「そう? そんなものかなぁ」
ずいぶん杓子定規なことを言う。
俳諧に枕詞の出番はない。入れてもいいが、堅苦しくなるのであまり歓迎されない。そういう形式から解き放たれて、俗語を用いようというのが俳諧のはずだ。
これでは現状、庶民向けの和歌でしかない。
芭蕉はさらに疑問を投げたかったのだが、湖春はあいまいな笑みで会話を打ち切ってしまった。
ふと、外が騒がしくなった。
季吟が誰かを連れて入ってきたのだ。
大人の女。長い髪をまとめて流している。眼光は鋭い。
「こちら、松江重頼さんです」
季吟がそう紹介すると、室内がざわついた。
それは七俳仙のひとり。貞門の重鎮だ。
重頼は前へ出た。
「みんなも知っての通り、かの『毛吹草』の著者、松江重頼よ。苦しうないわ。サインが欲しいものはあとで申し出るように」
態度がひどい!
それはさておき、『毛吹草』は俳諧の作法書である。内容が特に優れており、多くの俳諧師に手本とされた。
先日、甚七郎も、季吟から押し付けられたものを読んだばかりだ。
虚無顔だった蝉吟が、ふと我に返った。
「ええっ? なんでここに松江先生が!?」
「いい質問だね! とんがってる若造がいるっていうから、わざわざ見に来てやったの。つまんない歌だったらすぐ帰るから、そこんとこヨロピク!」
キザったらしい敬礼が出た。
かくして、目をギラつかせた重頼に見守られる中、歌会が始まった。
とんでもないプレッシャーだ。
みんなやりづらい。
この松江重頼、空気の読める女ではない。みずからが信じた道をゆく。ただそれだけの俳諧師だ。
ピリピリした歌会となった。
様々な歌が出た。
終わったころには、みんなヘトヘトになっていた。
重頼が動いた。
「あんた、名前は?」
「そ、宗房……です……」
そう。
重頼が目を付けたのは甚七郎であった。
「あたしは松江重頼よ! もちろん知ってるわね!?」
「はい、さきほどもうかがいました……」
「いいわ。あんたね、いくつか歌を作ってあたしンとこ送りなさい。こんど俳諧集を出すから。デキがよければ載せたげるわ」
「ええっ……」
俳諧集というのは、俳諧の句を寄せ集めた出版物である。
しかも、かの松江重頼の編。となれば、掲載されれば大変な名誉となる。
ところが甚七郎、その価値をよく理解していなかった。蝉吟を差し置いて自分だけ恩恵にあずかっていいのかも分からない。
キョロキョロする甚七郎に、蝉吟はほほえみかけた。
「甚ちゃん、やったじゃん! 歌が載るよ!」
「いいんでしょうか……」
「いーの、いーの! 才能あるんだから! 私の見込んだ通りだったよ!」
「そんな……」
かくして1664年、宗房の名で、またしても句が掲載された。
松江重頼編『佐夜中山集』だ。
「姥桜咲くや老後の思ひ出」
姥桜の美しさは、他の桜にひけをとるものではない。しかし葉のない姿で咲くため、「歯なし」と掛けて老いたイメージを与えられていた。
この句は、姥桜に元気づけられた老婆が、年甲斐もなくハッスルしかける句である。
名句と言える作品ではない。むしろかなりアレな句である。
だが載った。
重頼としては、若き俳人の成長に期待を込めたのかもしれない。
*
甚七郎の生活は充実していた。
蝉吟の世話をするかたわら、歌会へも出かける。
まだまだ成長途中ではあったものの、甚七郎の句は他の誰よりも見所があった。師匠の手本をそのまま真似たりしない。独特の視点があった。個性というものがあった。
秘められた才能が、いままさに爆発せんとしていた。
ところが、その幸福な生活も、いきなり終焉を迎える。
1666年、蝉吟が死去したのだ。
前触れもなく、唐突に。
病であったのかもしれない。しかし病状はハッキリとしなかった。
24歳という若さであった。
甚七郎には、なにが起きたのかも分からなかった。
事実を、事実として受け入れられなかった。
それなのに、あれよあれよという間に葬儀は終わり、火葬まで済んでしまった。遺骨は高野山へ納められた。
仕えるべき主は、もう、この世界からいなくなってしまった。
甚七郎、22歳。
もはや藤堂家に残る理由もなくなってしまった。
失意のまま、貧しくも懐かしい実家へ戻った。
出迎えたのは姉の半左衛門だった。
「甚七郎、つらいのは分かるけど……」
「……」
もはや抜け殻となっていた。
楽しいことがすべて消え去ってしまった。
まるで夢でも見ていたみたいに。
「ずっとそうしてはいられないよ? 動けるようなら少しは畑を手伝っておくれ? ねっ?」
「……」
なぜ人は死んでしまうのだろう。
それは父を失ったときにも思ったことだった。
太平の世になって久しく、争いだってほとんどなくなったのに、驚くほどあっけなく人が死んでしまう。
「エンジョイしなきゃ」
蝉吟の言葉が思い出された。
「なんで……なんでなの……」
指先で床を掻いても答えは得られない。
楽しかった。
でも、どこか不安だった。
その不安が本当に具現化してしまった。
「セミが……鳴いてる……」
まだ四月だ。
セミが鳴くわけがない。
*
それからの間、甚七郎は亡霊のように過ごした。
自分でもどう過ごしていたのか、さだかでないほどだ。
ただ、思い出にすがるように季吟の歌会に参加した。
句は冴えなかった。
「宗房さん、やめてもらえませんか?」
ある日、湖春が厳しい表情で甚七郎へ詰め寄った。
当時幼かった彼女も、すでに17歳になっていた。季吟の教育もあり、才気にあふれた歌人へと成長していた。
一方、甚七郎は虚ろなままだ。
「えっ、や、やめる……?」
「そうです。もう二度とここへは来ないでください。いつもいつも死んだみたいな顔で。みんなの迷惑です」
「……」
湖春はこんなことを言うような子ではない。
きっと本心ではないのだ。目に涙をためている。
他の参加者たちも、どうしていいか分からずうろたえている。だが、母の季吟だけは黙って話の行方を見守っていた。
甚七郎はムリに笑みを浮かべた。
「ご、ごめん。分かった。帰るね。もう二度と来ないから……」
「待って!」
立ち上がると、裾をつかまれた。
今度は甚七郎が顔をしかめる番だった。
「なに?」
「私、悔しいんです! あんなに才能のある宗房さんが、こんなにダメになっちゃって!」
「言うじゃない……」
「言いますよ! 蝉吟さんだって、いまのあなたを見たら失望するはずです!」
「……」
蝉吟。
名を聞くだけで頭がどうにかなりそうだった。
パァンと横っ面を叩かれた。
やったのは湖春ではない。季吟だった。
甚七郎は床へ転がされ、驚いて目をパチクリさせた。
するとさらに平手が炸裂した。今度は湖春へ。
「じつに愚かですね、あなたたちは」
「……」
とんでもなく冷たい目だ。武士が刃を抜く瞬間の表情をしている。
季吟はさらにこう告げた。
「勘違いしないでください。私は、争うなと言っているのではありません。しかし、もっとも大切なことを忘れていますね。まず、あなたたちは何者です? ここでなにを学びました? 争うにしても、歌でおやりなさい。怒りも、哀しみも、そのとき存分に発揮すればよろしい」
そう言われても、と、甚七郎は思った。
だが、となりで湖春が号泣した。
かと思うと、いきなり甚七郎につかみかかってきた。
「宗房さん! 歌を作ってください!」
「えっ?」
「俳諧集です! 作るんですよ!」
「けど、そんな気分じゃ……」
「目をさましてください! いつまでそうしているつもりですか! 蝉吟さんに届くような歌を作りましょうよ!」
「届くような……歌……」
1667年、湖春の編による『続山井』が刊行された。
宗房の名もある。二十数句。
「花の顔に晴れうてしてや朧月」
この「晴れうて」は、ハレの場に気おくれするさまを現す言葉。
朧月は、春の霞んだ月のこと。
あまりの花の美しさに、月さえ雲に隠れてしまう、という歌だ。
ただし一句の中に素材を盛り込みすぎの感もある。力の入りすぎた作。ただしそれだけに、若きエネルギーが満ち溢れている。
少なくともそこに、ただ落ち込んでいるだけの甚七郎の姿はなかった。
「私には歌があるんだ……。蝉吟姐さん、見ていてくださいね。私、やりますから」
まだ完全には立ち直っていない。
だが、立ち直ろうとする意志は働いていた。
ギアが入った。
才はある。精神の状態だけが問題だった。
(続く)