俳諧師列伝
芭蕉関係にはいろんな人物がいる。
今回は有名な俳諧師をピックアップし、本編に納まりきらなかった情報を見てゆこう。
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まずは北村季吟の子・湖春から。
晩年の季吟は俳諧に注力しなかったが、湖春はわりと句会に顔を出していたようである。
蕉門とも交流があり、俳諧集などにいくらか名前を残している。
作風は古い。
いや、誤解なきよう記しておくと、古いことは悪いことではない。当時のムーブメントから見ると保守的であったというだけの話だ。むしろ古さが大事なシーンもある。
バキバキの知的エリートでもあったため、理論に関しては譲らないこともあった。
芭蕉が「山路来て何やらゆかしすみれ草」と歌ったとき、湖春は難色を示した。「すみれは野にあるべきもので、山の句で詠むのはいかがなものでしょうか」と。
古典として考えれば湖春が正しい。
しかし芭蕉は、古典を乗り越えようとしていたので、そんなことはわりとどうでもよかったのである。
どちらか一方が全面的に正しいということはない。あくまで芸術性の違いだ。
湖春は芭蕉よりやや生きたが、父・季吟より先に亡くなってしまった。
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宝井其角。
江戸座を興し、点取俳諧で好き放題やらかした張本人。
酒での失敗も多数。
腕はすこぶるいい。
此所小便無用花の山
これを代表作と言えばブチギレるファンもいるかもしれないが、少なくとも有名な一句ではある。
其角は、友人とともにある文化人の家に招かれた。家主は立派な屏風を見せつけて、「なんかいっちょ書いてくんろ」と言ってきた。すると其角の同行者が「小便無用」と書いた。
これに家主は遺憾の意。
「超えちゃいけないライン考えろよ……」
其角はすかさず前後を書き足し、先ほどの一句に仕上げた。
家主の怒りはおさまり、むしろ屏風は家宝として大事に扱われることとなった。
また、あるとき其角は神社に呼ばれ、雨乞いの儀式で歌を詠んだ。
夕立や田を見めぐりの神ならば
これは折句となっている。上五、中七、下五の頭をつなげると「ゆたか」になる。
この句を捧げたのち、雨が降ったという。
だが、いい評判ばかりではない。
切れたるゆめハまことかのみのあと
この句に対しては、芭蕉が「これ大袈裟じゃない? なんなの? 藤原定家なの?」と突っ込んだことが記録されている。
もちろん其角本人には言っていない。この手の皮肉は、なぜか去来にぶつけられる。そして去来がメモして現代に残る。
芭蕉があまりに其角を揶揄するものだから、去来もさすがに気になったのであろう。
「先生、其角は蕉風から外れた作風ですが、ご指導なさらないので?」
こう尋ねると、芭蕉も答えた。
「あてくしは閑寂を好んで細み、其角は伊達を好んで細みます。この細みが一致しているのです」
ここで言う「細み」というのは「鋭さ」のこと。
つまりお互いの方向性は異なるものの、道を極めんとする姿勢は同じだと言っている。
本心かどうかは不明だが、現代に伝わる限りではそのようになっている。
十五から酒をのみ出てけふの月
其角は無類の酒好きであった。
そのせいかは不明だが、五十まで生きなかった。
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各務支考。
美濃蕉門。
これはのちに美濃派という一大勢力になる。
支考は理論家だが、言いすぎる。
特に越人とは折り合いが悪く、出版した本を通じてバチバチに争った。
酔っ払うと歌を歌ったらしい。お茶目である。
また、自分の葬式をあげて死んだことにするなど、やや「あたおか」な一面も見られた。四方八方から攻撃されて頭がパーンとなったのであろう。
本人の評価は様々だが、少なくとも弟子の育成には成功している。同門からは「田舎蕉門」などと揶揄されたこともあるが、それでも美濃派は現代まで脈々と続いている。
ろくに弟子も育てなかった俳諧師が多い中、こういう堅実な運営は珍しい。いちおう後世のことも考えて活動していたのだ。
「朝顔につるべ取られてもらい水」で有名な加賀千代女も、支考の直弟子。
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田捨女。
この「女」は女性だと勝手につけられるものであって、本名はシンプルに「田ステ」となる。一見ひどい名前だが……。キレイな名前だと鬼に連れ去られるという迷信があったため、あえて汚い名前にされた可能性がある。
参考までに、かの紀貫之の幼名は「あこくそ」であった。クソはひどい……。
さて、ステの名前は知らずとも、代表作は聞いたことがあるのではなかろうか。
雪の朝二の字二の字の下駄の跡
ステは、じつは季吟の弟子であった。
つまり芭蕉とは同門だ。
ただし派手に活躍しなかったためか、ほとんど記録がない。
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広瀬惟然。
名は「いねん」なのか「いぜん」なのかハッキリしない。
芭蕉存命中の弟子。
出家した坊主。
かなりの変わり者で、俳諧を「風羅念仏」に仕立てて全国を行脚したようである。
「あ、古池にぃ、古池にぃ、蛙とびこむ水の音ぉ、水の音ぉ、ナンマンダブナンマンダブぅ」
かくのごときザマであったという。
とはいえ、この風羅念仏は芭蕉の没後にやらかしたものなので、芭蕉による感想は残されていない。
惟然もべつに芭蕉をナメくさっていたわけではなく、いたって真面目である。むしろこの手の輩がいちばんヤバい気もするが。
自由にやり過ぎたため、同門の許六からは「俳諧の賊」と痛罵された。真面目にやってる人間からすれば、意味不明としか言いようのない言動だったのだ。
ややこしくなるため、本編には登場させていない。
これでも蕉門十哲に含まれたり含まれなかったりする。人によって見解は異なる。
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内藤丈草。
陰気さで有名。
家族との関係が良好でなかったこともあり、常に孤独に追い回された人物。
血を分けし身とは思はず蚊のにくさ
蚊に対してさえこの感情である。
大原や蝶の出て舞ふ朧月
センチメンタルな作品が多い。これは幻想的な光景を描いた句だが、批判も浴びた。
夜に蝶は出ないというのである。
ただ、丈草という人物を知る手がかりにはなる。闇にまみれながらも、美しいなにかを見ようとしたのだ。
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菅野谷高政にも触れておこう。
談林の急先鋒。
かの宗因から「末茂れ守武流の惣本寺」と歌を送られたほどの人物。
「末茂れ」は「栄えあれ」くらいの言祝ぎ。守武は、守武千句で有名な室町の歌人・荒木田守武。惣本寺は高政の別号。
ただ称賛するだけの内容であり、句そのものに見所はない。
さて、「やり過ぎ」で有名な談林であるが、その中でも高政は特にやり過ぎた人物であった。
おかげでライバルの貞門メンバーだけでなく、同門からも「売僧」と叩かれた。フルボッコである。
いつの間にか消えた。
高政の俳諧集には、芭蕉の句も採用されている。
あのときの芭蕉サンはかなり尖っていた。
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本編にも登場した松江重頼。
貞門七俳仙の一人。
芭蕉の上の世代。すなわち季吟や宗因と同世代の人である。
同門と折り合いがつかなかったため、わりとバチバチにやり合っていた。俳諧師はこんなのばっかりである。
もう同門などアテにせんとばかりに書き殴った指南書『毛吹草』は、多くの俳諧師のバイブルとなった。
まだ若かった芭蕉の才能にも注目し、自身の俳諧集にも句を採用した。
弟子に上島鬼貫がいる。
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上島鬼貫。
派手な活躍はなかったが、死後、与謝蕪村らの世代から「東の芭蕉、西の鬼貫」と称された人物。そのわりには知名度がいまいちなような……?
作品よりは「まことの外に俳諧なし」の名言で知られているかもしれない。
俳号の由来は紀貫之。
青年時代は血気盛んでもあったらしい。
武家に仕官する際、「雇ってくれなければ家の前で切腹しますけど、どうする?」と脅迫まがいのことを言っている。
存命中は蕉門とも接点があった。しかも、よりによって惟然や路通らと交流があったらしい。この辺と同類なのだろうか……。
によつぽりと秋の空なる不尽の山
あまりにもにょっぽりし過ぎている。
1690年の句らしい。となると芭蕉の「木のもとに汁も膾も桜かな」と同年であり、先んじて「軽み」を極めきっていたと言えなくもない。
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堀内雲鼓。
いちおう芭蕉と同時代の人物。
雲鼓は俳諧師ではあるが、本式ではなく、「笠付」を広めたことで知られる。
先に上五を師匠が提示しておいて、中七と下五を弟子につけさせる方式だ。転じて博打になったことは本編でも書いた。
あまりに大流行したため「俺が雲鼓だ」と名乗るものが各地に現れ、俳諧の歴史を雲鼓まみれにしてしまった。
雲鼓の罪は重い……。
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さあ、来た! 早野巴人だ!
皆さんご存じ、夜半亭宋阿です。
え、知らない?
そんなまさか……。
いちおう芭蕉存命中の門弟。
しかし指導に当たったのは其角や嵐雪であるらしい。
おそらく点取俳諧の煽りをモロに受けたことであろう。
この巴人……残念ながらじつはあまり評価されていない。
その代わり、弟子の与謝蕪村が超有名である。
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与謝蕪村。
基本的には画家として活動した。俳人として有名になったのは、明治に正岡子規らに「発見」されてから。
旅をして、宿代を絵で払うという、「裸の大将」のパクリとしか思えない行動をとっている。
え、逆?
なかなかの芭蕉ファン。
俳諧が急速に廃れてゆくのを目の当たりにし、どうにかせねばと芭蕉への回帰を目指した。特にこの時代俳諧は、どこも博打ばかりであった。
菜の花や月は東に日は西に
天体が二つも登場する欲張りな一句。地球も含めれば三つ。
画家らしいダイナミックな構図である。
凧きのふの空のありどころ
凧はタコのこと。
これも絵的なインパクトが強い。それでありながら、いま存在しているタコと、タコに居場所を奪われた空間まで描ききっている。
グラフィカルなセンスがいかんなく発揮されている。
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俳諧師列伝のラストを飾るのは、皆さんご存じ、蓑笠庵梨一!
江戸随一の芭蕉マニアである。
え、知らない?
そんなまさか……。
梨一は武士の家に生まれ、その後、文化に傾倒し、芭蕉の研究を始めた人物。
生まれは1714年。つまり芭蕉が没してから20年も経っているが……それでも梨一の研究はズバ抜けていた。
芭蕉の足跡を追い、各所で事実関係を確認しまくったのだ。そのおかげで、今日、だいぶ詳しい芭蕉の歴史が伝わっている。
ただし俳諧師の例にもれず、家庭をかえりみず活動したため、晩年は孤独であった。
肝心の俳諧師としての作品も……まあググれば出てくるのでここでは省略しよう。
(おわり)




