枯野 二
芭蕉の名声は高まりきっていた。
各地から訪問を請われる。
特に江戸からの要請が強かった。
九月、ついに江戸へ向け出発。
芭蕉としても、いまの江戸の様子を見ておきたかったのだろう。
各所で句会などをこなしつつ、十月の末に到着した。
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なお、この年の十二月、幕府に歌学方として召されていた北村季吟が、法眼に叙されたことも記しておこう。
これは俳諧師としてではなく、和歌の学者としての栄誉である。
季吟は片手間で俳諧をしていたわけではないが、談林以降の流れには付き合わなかった。あくまで和歌の一部として俳諧をしていたのである。
文学者でもあったため、『源氏物語』や『伊勢物語』『土佐日記』などの古典に注釈をつけ、人々の理解を促進した。これらの仕事は現在でも高い評価を得ている。
博大な教養の持ち主であった。
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さて、江戸に腰を落ち着けた芭蕉だが、結局は人付き合いに追われた。
特にうるさかったのが各務支考という人物だった。
口が達者で、理論家ではあるが、クセが強かった。そのせいでよく周囲と衝突した。
越人いわく、自分が路通を攻撃したのは、支考が煽ったせいだという。
支考はとにかく余計な一言が多かった。
この心推せよ花に五器一具
この句とともに、芭蕉は支考を奥州へ送り出した。
やべーやつはとにかく奥州へ送り込むに限る。
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それにしても、芭蕉は心底うんざりしていた。
久々に戻ってきた江戸は、どこもかしこもカネ、カネ、カネ。
芸術そっちのけで点取俳諧ばかり。
そこで芭蕉は『栖去の弁』を書き殴り、業界の風潮に異議を申し立てた。
内容は短い。
あちこち行って日本橋に戻って参りましたが、マジでしょうもない。風情はどこにもない。ほんまクソ。無意味。F■CKです。
実際はこんな悪文ではないが、主張の内容はおおむねこの通りだ。
江戸蕉門を仕切る其角が率先して点取俳諧をやっているのだから、どうにもならない。
芭蕉の胃痛は悪化する一方だ。
いいことがあったとすれば、「十団子も小粒になりぬ秋の風」で名をあげた森川許六が蕉門に入ったこと。
六芸に秀でているため許六を名乗った。
若者ではない。
絵がうまかったので、芭蕉はその分野においては許六の弟子となった。つまり互いに技術を教え合う関係だ。
曲者の多い蕉門において、良心ともいえる存在である。
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芭蕉はまた旅の計画を立てていた。
次は長崎へ行き、阿蘭陀の雰囲気を味わってみたいと考えたのだ。もし成功すれば、間違いなく新しい紀行文になる。
ところが芭蕉の身辺は静まらない。
次から次へと門弟がやってくる。各所からも来てくれと声があがる。
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三月、芭蕉庵にて甥の桃印が死亡した。
33歳だった。
桃印は、芭蕉の姉の子ということ以外、あまり情報のない人物だ。俳号があるので俳諧もしていたと思われるが、特に記録がない。
ともかく、身内が自宅で亡くなってしまった。
芭蕉はショックを受けた。
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七月、芭蕉は『閉関の説』を発し、約ひと月にわたってすべての来客をシャットアウトした。
朝顔や昼は錠おろす門の垣
どうしても一人になりたかった。
このとき50歳。
様々のことに疲れていた。
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1694年、五月、芭蕉はすべきことを一通り済ませ、江戸を発った。
西へ向かい、また別のことをしようとしたのだ。
同年、六月。
上方に滞在する芭蕉のもとへ、愛人・寿貞尼の訃報が届いた。
ある程度の兆候があったからか、芭蕉が動じた様子はほとんどなかった。
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このころ俳諧集『炭俵』が出版された。
梅が香にのつと日の出る山路哉
「のつと」は「のっと」。あるいは「ぬっと」とでも表現しようか。
軽みの境地。というか軽すぎて、この辺りでついていけなくなった門人もいたようである。
なお「梅」の読みについても「うめ」か「むめ」か悩ましいところである。後世の蕪村も「梅咲きぬどれがむめやらうめぢややら」と詠んでいる。
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八月、大阪に進出した洒堂から書簡が届いた。
大阪の俳壇が活気を失い、隙だらけであることが訴えられていたのだ。
かつて談林が生まれ、西鶴が二万句を歌った地は、もはや俳諧への熱を失っていた。
しかも洒堂は、先に大阪で宗匠をしていた之道ともモメている様子。
洒堂は芭蕉の介入を望んでいた。
九月、大阪へ。
芭蕉はこのとき急に体調を崩した。
しかしすぐにおさまるだろうと判断し、少し休んだだけで旅を再開させた。
同月、洒堂宅に到着。
体調は回復せず。
それでも予定を組み、洒堂と之道の和解を促すべく、席をもうけた。
和解が成立したかどうかは分からない。
弟子としては、師の体調のほうが気になったかもしれない。
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以降、芭蕉は事あるごとに体調を崩した。
句会に出ては病を発し、いずこかへ出かけては病を発した。
秋深き隣は何をする人ぞ
病んで句会をキャンセルし、床に伏しながら詠んだもの。
秋ののどかな一幕ではない。
いままさに力尽きんとし、ただ周囲の様子をうかがうことしかできない老人の肉体的な限界の歌であった。
ただ、その極限状態にあっても「軽み」は失われていない。
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それから一週間と経たず、芭蕉は危篤状態になった。
花屋仁右衛門の座敷へ寝かされ、医師がつきっきりで看病に入った。
各所へも書簡が飛んだ。
弟子たちは慌てて大阪を目指した。
去来、支考、丈草などが集まった。
其角は出遅れた。
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
病の床で、芭蕉はこう詠んだ。
辞世の句ではない。
芭蕉は死ぬつもりなど微塵もなかった。
ただ、旅に思いをはせる気持ちが高まりに高まり切って、この句が出た。
病がおさまったらまた旅に出るつもりでいた。長崎を見るのだ。
こんなところで死ぬわけにはいかない。
だが日に日に衰弱し、ついに食事をとることもできなくなった。
其角が到着したのもこのとき。
十月十二日、松尾芭蕉、絶命。
見守っていた弟子たちは、なすすべなく見送ることしかできなかった。
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芭蕉の遺体は、船で膳所の義仲寺へ運び込まれた。
そうするほかなかった。
死んだ人間は生き返らない。
葬るしかない。
其角により、追悼の百韻興行もおこなわれた。
弟子たちはそれぞれに動き出した。
動き出さざるをえなかった。
もう芭蕉はいない。
これからは自分たちで動くしかない。
衝突も起きた。
特に、蕉風に従わぬ其角に対し、去来は『晋氏其角に贈る書』をあらわしていさめた。
蕉門であるなら、蕉風を守るべきであると。
しかし奔放な其角が、そんな主張に従うわけがなかった。
其角はずっと自分の道を進んできた。あとから来た去来にどうこう言われる筋合いはないのである。
この手の衝突は、いたるところで起きた。
各自が独自の流派でやり、バラバラになった。
それ自体は悪いことではない。
誰も芭蕉の操り人形ではないのだ。みずからが先頭に立って活動すべきだ。
ただ、巨大な存在が消えたことで、お互い、なるようになっただけだ。
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さて、床に伏した芭蕉の周囲でも、弟子たちは句を作っていた。
叱られて次の間に出る寒さかな
これは支考の作。
なにかやらかして兄弟子に叱られ、部屋を追い出されたようである。
支考らしい一句である。
ミスでさえ作品にできるのが、俳諧のいいところでもある。
うづくまる薬缶の下の寒さかな
これは丈草。
聞いた芭蕉は「出来たり」と褒めたようである。
*
芭蕉の死によって、大衆芸術としての俳諧は衰退した。
相変わらず元気だったのは、賭博としての俳諧だけだ。
のちに与謝蕪村や小林一茶といった人物も出てくるが、大きなムーブメントを起こすには至らなかった。
そして明治――。
文明開化が起こり、西洋の価値観が流入してきた。
正岡子規の提唱する「俳句」が大流行し、古い俳諧はほぼ一掃された。いまとなっては「連句」と呼ばれる形式が細々と残るのみである。
だが、古人は滅べども、作品は滅ばない。
ググればそこに俳諧はある!
もしくは本屋にある!
物足りない部分はご自分の目でご確認ください!
(おわり)




