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枯野 一

 長い旅を終えた芭蕉は、江戸へは向かわず、故郷の伊賀上野や、京などでゆっくりと過ごした。

 京では特に去来の世話になった。


 書簡を使い、江戸ともやり取りを繰り返した。

 新年には其角から句が届いた。


ゆづり葉や口に含みて筆始ふではじめ


 芭蕉は特にこの句に驚いたという。

 新しい作風であると。

 しかしただ称賛したわけではない。むしろ逆。

 ゆづり葉は縁起ものであるから、新年になると賑やかしの者たちが口に含んで街を回る。そんなことは、犬打童子――犬を追い回して遊ぶガキでも知っている。そんな句をそのまま出してきたので「閑素にして面白」と評した。


 たしかに無垢で幼い感じの句ではあろう。

 だが、そんなに責めるほどの内容だろうか?


 そう。

 責めるほどの内容だったのである。

 芭蕉としては、すでに目指すところからして違った。蕉門の高弟がこういうのを作って寄越してくるのは耐えがたかったのである。


 芭蕉は俳諧についてこう述べている。

 只今天地俳諧にして万代不易。

 すなわち俳諧とは「いまこの世界」を歌うものであり、万代不易――つまり時代に左右されぬものである、と。


 過酷な旅を終えたばかりで、芭蕉の神経は高ぶっていたのだろう。あるいはもともと教えを守らぬ其角に腹を立てていたか。


 とはいえ、これを本人に言ったりしない。

 去来に宛てた書簡に記した。


 *


 さて、そう言う芭蕉であったが、じつはみずからも新風を探っていた。

 不易は大事だが、同じことを繰り返していても仕方がない。


 『去来抄』にはこうある。

「不易を知らざればもと立がたく、流行をわきまへざれば風あらたならず」

 いわゆる不易流行だ。

 ただ読めば矛盾している。

 だが、それくらい絶妙なところを行かねばならぬと言っているのだ。不易と流行のせめぎあいの中に「いま」がある。


 ある花見の席で、一句出た。


木のもとに汁もなますも桜かな


 歌の世界で「木」と出ると、それが「き」なのか「こ」なのか判断が難しいが、これは「き」であるらしい。

 それはともかくとして、作風に注目したい。


 歌において「月」と「花」は特別な存在だ。

 そして花見の席では必ず花を詠むことになるから、誰もが意気込んでしまう。

 そこを芭蕉はサラリと詠んだ。

 あらゆるものから解き放たれたごとく。


 これが「軽み」に達した瞬間であると、のちの人は言う。

 なお「軽み」も「かるみ」と読むのか「かろみ」と読むのか悩ましいところだが、かな表記ではまず「かろみ」となっている。


 *


 かくして句会などをしつつ過ごした芭蕉であるが、突然の訃報に言葉を失うことになる。


 杜国が死んだというのである。


 死因は不明。

 ともかく亡くなった。

 34歳という若さだった。


 伊良湖で遊んだ記憶がよみがえった。

 春をともに過ごした。

 楽しかった。


 若いからといって、死から遠い存在ではない。

 死ぬときは死ぬ。

 だが、それにしても、あまりに急であろう。


 *


 芭蕉は、滋賀大津の幻住庵にこもった。

 誰とも会いたくなかった。


 その草庵はボロボロで、なかばキツネとタヌキの住処になっていた。ヘビやムカデも出る。屋根がついただけの野原と言っていい。

 そこで芭蕉は、何者でもない自分を確認した。


先づ頼む椎の木も有り夏木立


 当時の心情を記した『幻住庵記』に掲げられたのは、この一句のみ。

 「頼む」に力強さを見る人もいるが、本当にそうであったかは分からない。庵は半ば自然にかえっているし、まともに立っているのは椎の木くらいしかなかった。つまり、そこにはほぼなにもなかったのである。

 なんとも表現しようのない場所へ自分を追い込んでいる。


 *


 隠棲とは言うが、外部との書簡のやり取りはしていた。客人もあった。請われれば出かけて句会などもした。

 無気力ではなかった。


 それどころか、路通に関してバチクソに怒っていた。


 路通には盗み癖があり、句会ではちょくちょくモノが消えていたらしい。

 今回は茶入れが消えた。そして路通も行方をくらました。

 芭蕉もあきれ果ててしまい、書簡で「もうそんなヤツ死んでようが結構だわい」と言っている。


 しかし後日、くだんの茶入れは見つかり、路通の仕業でないことが判明した。

 とんだ濡れ衣であったものの、なにかあるとまっさきに疑われるのが路通であった。普段の行いがよろしくなかったのである。


草枕まことの華見しても来よ


 芭蕉は路通にこの句を送り、東北へ送り出した。

 修行のため、ひとりで奥州を旅して来いというわけだ。


 *


 洒堂しゃどうという門弟ともやり取りがあった。

 洒堂は、のちに大阪へ出向き、宗匠となる人物である。このころはまだ珍碩を名乗っているが、ややこしくなるので洒堂で統一しよう。

 彼はまだ修業中の身で、上を目指して俳諧を頑張っている。

 明るい未来を思い描いていたことだろう。


 *


 京にて『猿蓑』の句会があった。

 芭蕉、47歳。

 過酷な生活で体にガタは来ているものの、気力は充実していた。


 『猿蓑』は名作と名高い。


 芭蕉、其角、去来、嵐蘭、杉風、曾良など、名の知れた俳諧師が句を寄せ、新進気鋭の凡兆ぼんちょうがいかんなく才を発揮してまとめた。

 洒堂もいた。

 このところ門人となった丈草じょうそうもいた。

 ほかにも錚々たるメンバーが名を連ねた。


 亡くなったばかりの杜国の句も採用された。


 ともかく歴史に残る俳諧集となった。


 之道しどうも参加した。

 大阪の宗匠。

 いわば大阪の蕉門を仕切っている人物だ。


 この之道が、のちに大阪へ進出した洒堂と衝突し、芭蕉はその仲裁に追われることになる。


 *


 同年、俳諧集『ひさご』が成る。

 編者は洒堂。

 これから名をあげて、活躍していこうという気力が感じられる。


 *


 芭蕉は、その後しばらく一門の運営のために動き回った。

 あちこちで弟子と会い、句会をした。

 幻住庵を出て、嵯峨にある落柿舎らくししゃに入り、そこで『嵯峨日記』を記した。落柿舎は去来の別荘。そこで優雅に日記を書いて過ごしたわけである。去来は芭蕉相手だとサービスの鬼となる。


 この落柿舎には長く滞在したこともあり、数々の弟子が訪れた。

 家主の去来はもちろんのこと、凡兆、曾良、丈草などもよく顔を出した。記録によれば、俳諧についてあれこれ語り合ったようである。


 また、「夢に杜国が出てきて、いろいろ思い出して泣いちゃった」的な記録まである。ずっと引きずっている。


 *


 さて、『猿蓑』で名をあげた凡兆だが、どうにも芭蕉との折り合いがよくなかったらしい。


 『猿蓑』に「田の畝の豆つたひゆく螢かな」という句がある。これは伊賀の門人・万乎まんこの句ということになっているが、作者が凡兆であることが『去来抄』に記されている。


 句会の席にて――。

「まあ添削したらいい感じになるんじゃない?」

 凡兆が出した初案に対し、芭蕉はそう評した。

 凡兆は、しかし納得しなかった。

「いえ、こんなものはクソです。出す価値がありません」

「でも直せば……」

「いいえ、ダメなんです! 捨てます!」

 凡兆も本気で俳諧に取り組んでいたから、妥協はしたくなかったのだろう。

 芭蕉はやれやれと溜め息をつき、こう言った。

「捨てるならもらうわ。ちょっと手直しして、万乎の句にしとくわね」

「えっ、万乎!?」

「そうよ、万乎よ」


 かくしてこれは万乎の句となった。

 本人の了解を得ているかどうかは知らない。この時代、師匠は絶対なのだ。本人の知らないところで勝手に句が作られてしまうこともある。

 いろんな人が参加していたほうが面白いのだ。仕方がない。


 凡兆には間違いなく才能があった。

 それでも芭蕉とは決裂した。

 越人や野水と一緒になって路通を攻撃したことも、芭蕉の怒りに触れたらしい。おそらくは路通に非があったのだと思うが、芭蕉がそう思わない以上、仕方がないのである。


 その後、凡兆はなんらかの事件に連座し、お上にパクられてしまった。

 死罪ではなかったためやがて釈放されたが、すっかり萎えてしまったのか、かつてのような傑作は作れなくなっていた。


 凡兆は、もろもろ折り合いがつかず、表舞台から姿を消してしまった。


(続く)

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