おくのほそ道 四
さて、陸奥から出羽に入り、名所を満喫した芭蕉らは、ついに越後へ入った。いまでいう新潟だ。
荒海や佐渡によこたふ天河
名句を連発しすぎている。
旅の緊張感からか、あるいはもっと別のなにかのせいか、芭蕉の気力は冴え渡っていた。いや、冴えるというよりは、人間と自然との境界線を失っていた。
景色を感じるまま、言語に変換していた。
*
親しらず、子しらず、犬もどり、駒返しなど、北国の難所を越え、芭蕉はいずこかに宿をとった。すると別室から声が聞こえてきた。どうやらそれは遊女であるらしい。
芭蕉は満面の笑みでこう詠んだ。
一家に遊女もねたり萩と月
ここまでひたすら名句を連発してきた芭蕉であったが、唐突に問題作をぶっ込んできた。
これは紀行文としての面白さを考慮しての一句であろう。
じつは『曾良日記』にそんな記述はない。
単に記録し忘れたんじゃないの?
そうお思いかもしれない。
ところが芭蕉は『おくのほそ道』にこう記している。
「曾良にかたれば書とどめ侍る」
つまり芭蕉がこの一件を語ったところ、曾良はきちんとメモしたのだという。なのに、そのメモに、記載がない。ミステリーというほかない。
いや、いいのだ。
こんな詮索は無粋だ。
芭蕉はなかば物語として『おくのほそ道』を書いた。俳諧の旅はいいぞ、と。みんなに旅を楽しんで欲しくて、自分の体験をもとに脚色したのだ。自分を凄く見せたいわけじゃない。俳諧を全身で味わって欲しかった。それだけなのだ。
*
源平合戦で有名な倶梨伽羅峠などを巡り、金沢の門下生と合うことにした。名を一笑という。
てっきり会えるものかと思っていた。
だが、一笑は亡くなっていた。
交通の不便なこの時代、人の動向を知ることは難しい。
現地に行って初めて知ることもある。
塚も動け我泣声は秋の風
なおこの折、現地の俳人たちと集まり、北枝という俳人とも出会っている。のちに蕉門十哲に数えられるほどの人物だ。
じつは北陸でも俳諧は流行しており、かなりハイレベルなプレイヤーが育っていた。
というより、京からそう遠くないので、もともと文化が伝播しやすい場所なのである。
*
金沢の太田神社にて、源平合戦で活躍した斉藤実盛の具足を見学。
坊さんコスプレなのに神社に入っていいのかと思われるかもしれないが、神仏習合もあったので、基本的にはオーケーである。ただし厳格に分けているところもある。なので坊さんコスプレで神社に行くのはあまりオススメできない。
さて、実盛の具足を見て、芭蕉は唸らされる。
とても手の込んだ立派な甲だ。
武人にとって戦場は活躍の舞台であるから、堂々たる姿で挑まねばならない。実盛は老いを隠すため、白髪を黒く染めて戦場に立ち、そして散った。
むざんやな甲の下のきりぎりす
芭蕉はかつての合戦に思いをはせ、一句詠んだ。
*
加賀では、突然の腹痛が曾良を襲った!
「先生、もうムリっぽいです!」
「ずっとギュルギュルだわね……」
「ちょっとこの辺に知り合いがいるので、そこで休んでます。先生は先に行っていてください。あとで合流します」
「うん……」
行行てたふれ伏とも萩の原
これは曾良の句。
いちど別れたのは事実らしいが、『曾良日記』には特に腹痛の記述はない。
特に理由もなく離れたら、偵察のために旅している忍者と思われるかもしれないので、しいて腹痛ということにしたのかもしれない。
なお両者とも忍者ではない。たぶん。誰かから仕事を請け負っているにしては金がなさすぎる。
*
じつは一緒に各地を巡っていた北枝と、ここでお別れ。
物書て扇引さく余波哉
これは送別吟。つまりお別れの句である。
北枝はなかなかの理論家であり、芭蕉とも話が盛り上がったようである。
*
旅は大詰め。
すでに奥羽を抜け、越後も抜けてしまった。もはや難所はない。
八月。
敦賀を越え、大垣に至った。
大垣は現在の岐阜県内。
ここには木因という信頼できるまとめ役がいる。準備万端で芭蕉を出迎えてくれた。
「先生! 会いたかったです!」
落ち着く間もなく路通が駆け寄ってきた。
そう。
江戸に置き去りにした路通とは、ここで会う約束をしていたのだ。まさか本当に来るとは……。
「しゃあ、間に合った! セーフ! 越人、参上いたしました!」
越人も馬を飛ばして来た。
この越人、馬の扱いは慣れたものである。伊良湖岬では、馬に乗りながら酒を飲み、べろべろになって爆睡をカマした逸話がある。飲酒運転、居眠り運転で、現在なら一発アウトだ。
馬にしてみれば、背の人間がどうしていようとあまり興味もないのかもしれないが。言われた通りに歩むのみだ。
曾良もここで集合した。
「先生、お疲れさまです」
「曾良も無事でなにより」
エンディングにふさわしい大集合である。
みんなで旅の成功を祝い、句会などもしたらしい。
『おくのほそ道』には記載がないが、竹戸なる門人が、疲れた芭蕉に按摩をほどこした。それに感動した芭蕉は、旅に使った紙衾を与えた。
当時の歌が残っている。
首出してはつ雪見ばや此衾
これは紙衾をもらった竹戸が喜んで歌った句。
すると近くにいた曾良も詠んだ。
たたみめは我が手のあとぞ紙衾
その紙衾の折り目は自分がつけたものです、という意味。芭蕉の身辺の世話をしたのは自分だという曾良のアピールだ。
越人も便乗した。
此ふすまとられけむこそ本意なけれ
衾祭りである。
とはいえ、ずっと大垣にいるわけにもいかない。
やがては現地の門人たちともお別れになる。
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
これが『おくのほそ道』のラストを飾る一句。
蛤の貝殻は、同じ個体でなければピタリとハマらない。ゆえに古くは貝合わせという遊戯にも使われた。合うものがひとつしかないことから、別れがたいものを示すときに使われる。
決していやらしい概念ではない!
ともあれ、ここで芭蕉の旅は終わり。
とんでもない大事業を成し遂げた。
ただ旅をするだけでも大変なのに、信じられないほどの名句を量産してしまった。
普通、満足する。
普通なら。
だが、芭蕉は普通ではなかった。
旅が終わると、もう、次の旅のことを考えてしまう。
なにかに追い立てられている。
終わりが見えない。
名声のためではない。そんな前向きな理由ではない。衝動だ。
旅に病んでいる。
(続く)




