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おくのほそ道 一

 のちに俳諧集『阿羅野』として出版される句会などをこなしつつ、芭蕉はしばし江戸にあった。

 ひとたび句会を開くだけでも、各地から名プレイヤーが集まり、質の高い句集が出来上がる。


 このころは去来きょらいの台頭もめざましかった。


 向井去来は京の人。

 武家の出身であるが、普段は医師をしている。

 誠実にして頭脳明晰。

 晩年の芭蕉が特に信頼をおいた人物でもあり、「西の俳諧奉行」とまで称せられた。

 『蛙合』にも句を寄せていたから、蕉門に入ってからはだいぶ経つ。


 さて、一門は順調。

 芭蕉としては、あとは紀行文を完成させるだけであった。

 もちろん過去の旅も悪くはなかった。それでも、歴史を回顧すれば、古人の紀行文を凌駕するものになっているとは思えなかった。まだ足りない。


 *


 1689年。

 芭蕉46歳。


 新たな旅に備え、芭蕉は杉風の別宅へ入った。

 杉風は鯉屋である。蕉門の古株でもあり、芭蕉のパトロンでもある。ただ資金援助していただけでなく、芭蕉の教えをよく学び、歌もよく詠んだ。

 生類憐みの令によって商売が厳しくなっていたが、それでもまだ芭蕉を支援するくらいの余裕はあった。


 さて、芭蕉は悩んでいた。

 旅に重要なのは、まずルート。

 そして同行者だ。

 ひとりであちこち行っても、いまいちパンチが弱い。


 ある日、弟子が集まっているとき、芭蕉はこう尋ねた。

「次の旅さ……路通と一緒に行こうと思ってるんだけど……どう思う?」

 場がざわめいた。

 

 八十村路通――。


 顔だけはいい。

 だが、素行がすこぶるよろしくなかった。

 とにかく品がない。手癖が悪い。モノをくすねる。いやしい。意地汚い。破門されていないのがおかしいくらいのうつけだった。

 俳人としてどうこう以前に、人として問題があった。

 路通が問題児であることは芭蕉の書簡にも残されているし、のちに路通本人も「いねいねと人に言われつ年の暮」と詠むくらい嫌われていた。


 姿勢よく座していた去来も、さすがに眉を動かした。

「先生、なぜ路通のようなものを……?」

「え、面白そうじゃない?」

 確かに事件には事欠くまい。

 しかし本当の本当に事件の連続で終わることになろう。


 路通はにこにこしている。

「え、去来さま、もしかして選ばれなくて悔しかったりします?」

「……」

 このとき去来の額に太い青筋が立った。

 とんでもないクソガキムーブである。

 脇に刀があったら叩き斬っていたかもしれない。


 其角がふんと鼻を鳴らした。

「アタイはいいと思いますよ。笑える紀行文になるのは間違いないと思うし」

「……」

 露骨な挑発だ。

 これには芭蕉も気を悪くした。

 子弟ではあるが、バチバチしている。


「は? じゃあ誰だったらいいの? 代案は? ん?」

 キレ気味に返した芭蕉であったが、なんとなくこうなる気はしていた。

 もし路通を連れていけば、結局はデート紀行文に終わる。顔だけで選ぶとそういうことになるのだ。実績もある。

 弟子たちも、そのことはよく分かっていた。『笈の小文』はまだ出版されていなかったが、ここにいる直弟子は師匠の旅を知っている。


 とはいえ、一門の重鎮たちにはそれぞれ仕事があるから、旅に同行することはできない。

 其角も去来も指導的な立場にある。身動きがとれない。となれば、仕事で俳諧をしている業俳ではなく、遊俳のものを指名するしかない。それも、ほぼ無職に近いもの。


 曾良がにこにこしていた。

「私、行けますよ。予定も空いてますし」

「……」

 曾良は、じつのところあまり目立ったメンバーではなかった。

 ただし素行はすこぶるいい。人当たりもいい。

 頭もよろしい。きちんと神道を学んだこともあり、博識である。

 旅となると興奮しがちな芭蕉とは、相性もよかった。


 去来も「まあ、曾良ならいいのでは?」と納得した。

 其角はどうでもいいとばかりにひょうたんから酒を一口。


 不安そうなのは路通だ。

「え、じゃあつうはどうなるの? 放置なの?」

 うるうるした目で見つめてくる。

 芭蕉はこれに弱い。

「あ、じゃあ、えーと……。旅は曾良と行くけど、どこかで合流しましょう。ね? それならいいよね? ね?」

「うん……」


 かくして旅の同行者は曾良に決まった。


 *


 準備を整え、弟子たちに別れの挨拶をし、杉風の別宅を出た。


行春や鳥啼とりなき魚の目はなみだ


 この句を詠んで、芭蕉は旅を始めた。

 文字通りの内容であり、格別面白い句ではない。だが、それだけに素直な心情が込められている。技巧をこらすだけが歌ではない。


 *


 さて、これまで旅と言えば、芭蕉は地元と江戸を行き来しただけであった。

 すでに安全性の確保された街道を進み、見知らぬ土地でも現地の門弟に道案内してもらうなど、さまざまにお膳立てされた旅であった。

 しかし今回は違う。

 奥州だ。

 頼るもののない不安な旅となる。


 じつは芭蕉、歌人として奥州に入った第一人者ではない。

 古くは西行法師が藤原氏などを訪ね、各地で歌を詠んだ。

 その西行にあこがれ、数々の歌人が奥州に入っている。芭蕉の少し上の世代も、いくらか奥州に入ったようである。


 磐城平藩の藩主・内藤氏の存在も大きかった。

 号は風虎。

 風虎は、江戸の藩邸でよく句会をした。芭蕉も招かれた。西山宗因も来た。ちょっとした俳諧サロンだった。

 風虎は芸術が大好きだった。八橋検校のパトロンもしていた。あまりにアートに傾倒しすぎて、家臣から追放されそうになったほどだ。


 藩主としてはクッソ最低な人物であったが、俳諧の発展には寄与した。

 東北の地に歌人が来れば、丁重にもてなしたようである。


 そんなこともあり、奥州へ旅立つ歌人はすでにいた。

 なのだが、彼らはそれを個人的な体験にしかせず、紀行文にはしていなかった。


 江戸の人からすれば、東北は秘境である。歌枕でしか知られぬ地だ。

 京と江戸を行き来する者は多い。だが、東北となると、しいて行こうと思わなければ行かないような場所である。ゆえに歌人くらいしか訪れない。その歌人が、ただ行って帰ってくるのは、あまりにもったいない。


 とはいえ、風虎はすでに没している。芸術のせいで傾きかけた藩だから、俳諧師など相手にもされまい。風虎の子・露沾は、家のごたごたのせいで跡を継げなくなっているから、もはやツテにもならない。


 それでも芭蕉は北を目指した。

 西行法師にならい、奥州で歌を詠むと決めたのだ。


 *


 千住を発った芭蕉は、草加を通り過ぎ、春日部で一泊することにした。

 だが『おくのほそ道』では、一泊目は手前の草加ということになっている。


「うーん、まあ初日は草加に泊まったことにしましょうか。勢いで春日部まで来たけどなんもないし。あんまり飛ばすとテンポおかしくなっちゃうからね」

「はい」

「で、曾良はなに書いてんの?」

「日記です」

「……」


 じつは同行者の曾良も日記をつけていた。

 あくまで旅の記録なので、何月何日にどこに泊まったとかいう簡素な内容である。

 ただ、それだけに厳密であり、正確である。


「曾良、その記録、表に出さないでよ? 脚色がバレるから」

「大丈夫ですよ。あくまで個人用ですから」

「あんたってマメよね……」

「えへへ。性格なんです」


 この『曾良日記』と『おくのほそ道』にはいくらか齟齬そごがある。

 『おくのほそ道』はあくまで紀行文であるから、いくらか脚色がある。掲載された句も、あとから何度も推敲されている。

 芭蕉としては、正確性よりも、読み物としての完成度を求めたわけである。旅物語を、みんなが憧れるような、わくわくするものにしたかった。


 *


 さて、栃木へ入った。

 もちろんまだ関東。

 室の八島という神社を訪れた。


「ここに祀られているのは、富士と同じコノハナサクヤヒメですね。不倫を疑われて、むろで焼かれたんです」

 神道を学んだ曾良のうんちくが始まった。

「え、焼かれたの? ヤバくない?」

「でも潔白だったんで助かったんですよ。それで子供が生まれました。だからここは室の八島って名前なんですね」

「感動より先に恐怖が来たわ。とんだサイコパス神話だよ……」


 この地は歌枕であり、「室の八島」といえば「煙」が詠まれる。

 しかし元ネタが「人を焼いた煙」かと思うと、だいぶイカレていると言わざるをえない。


(続く)

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