更科紀行
八月、芭蕉はようやく重い腰をあげ、江戸へ帰ることにした。
しかしただ帰るのではもったいない。旅なのだから、紀行文に仕上げるチャンスだ。今度という今度はデートの記録にしてはいけない。
同行人には越人を選んだ。
挑むは木曽路。更科の姨捨山にて月を見て、善光寺へ参り、それから江戸へ入るプランだ。
のちに『更科紀行』となる旅であるが、まず前文が凄い。
姨捨山の月を見よと秋風が勧めてくる。そこで、同じく旅にイカレた越人をともない、木曽路へ挑むこととした。
という具合である。
しかも「やべー場所だから危険な旅になるぜ」的なことをつらつら書き連ねている。読み手をビビらせようとしている。ちょっと緊張して読めということだ。姨捨山という題材を得て、芭蕉もその気になっている。
実際、木曽路は中山道の難所である。
簡単な旅ではない。
旅マニアの芭蕉としては、ワクワクせざるをえなかったのだ。
この『更科紀行』は二部構成になっている。
旅の合間に歌を詠む形式ではなく、前半に旅パートを置き、後半に句を並べた。
新たな形式にチャレンジしたかったのかもしれない。あるいは木曽路の厳しさに集中してもらうため、あえて分けたか。
*
旅を始めると、まず老僧に出会った。
愛想の悪い坊主であったが、とんでもない量の荷物を運んでいた。一歩進むのも大儀な様子。そこで芭蕉らは、馬に荷物を乗せて運んでやることにした。
この老僧が出てきたことで、人里を離れてわびしい道に入ったことが分かる。
高い山々が連なり、大きな川が流れている。
自然が豊かである。道も険しい。
足場がよくないこともあり、芭蕉はずっと落馬の心配をしている。
桟橋、寝覚の床、猿が馬場、立峠などの名所を通る。
くねくねと道が曲がっている。まるで雲の上の道を進んでいるようで、安定しない。芭蕉はまた落馬を心配している。
じつは越人のほかに、弟子の荷兮が寄越した案内役の男も同行していた。そいつがまたとんでもない。この程度の悪路は慣れたものなのか、ずっと馬の上で爆睡しているのだ。
芭蕉は信じられない気持ちでいる。
なお、現代日本では、馬は軽車両として扱われる。
居眠り運転は処罰の対象。もちろん酔っ払い運転や脇見運転も厳禁。決して真似してはいけない。
夜、旅館に入った。
ここからは姨捨山が見える。
芭蕉が紀行文や句について真剣に思案していると、くだんの老僧が近づいてきた。どうやら旅がつらくて頭を抱えていると思われたらしく、やけに慰めようとしてきた。
老僧は、若いころの旅の話や、阿弥陀如来の話などを一方的に始めた。
おかげで芭蕉は、風情をぶち壊しにされてしまい、まったく自分の作業に集中できなかった。
このくだりは長めに記載されていることから、わりと本気でウザかったものと思われる。
やがて宿が月見酒をふるまい始めると、客たちも賑わい出した。
旧暦の八月十五日は「中秋の名月」である。
あまりデキのよくない盃であったが、それさえ田舎の風情が感じられた。
さあ、お月見だ。
旅パートはそこで終わり。
肝心の月が描写されるのは、後半の句のパートだ。
俳諧師らしい構成である。
俤や姥ひとり泣く月の友
秋の夜に浮かぶ満月は、理屈なしに美しい。
特に、明かりもない山の中だ。
芭蕉はその月を眺めながら、山に捨てられた孤独な姥の姿を想像した。
ひとたび踏み入れば出ることも難しい山の中、死を待つしかない老人を、ひたすらに月が照らしている。
ただそれだけの句。
五七五の十七字では、余計な注釈をつける余裕はない。というより、要らないのだ。ただ光景さえあればいい。
*
八月下旬、芭蕉と越人は江戸に到着。
このとき芭蕉が荷兮に宛てた書簡では、越人は「昼寝がち」になったと書かれている。旅でそうとう疲弊したらしい。
また、同書簡では、其角についての記載もある。其角が上方へ行った際には世話をしてやって欲しいこと。若いからムチャをやらかすかもしれないことなど。
芭蕉の其角に対する印象がよく分かる。
*
書簡といえば、続きがある。
その後、上方へ向かった其角へ宛てたものだ。
江戸で俳諧が賭博と化していることを嘆いている。
俳諧と賭博――。
点と点がつながらないかもしれない。
歌の稽古では、師匠が先にお題として上五を提示し、弟子に中七と下五をつけさせることがある。
いろんな言葉を出させて、試行錯誤させるのだ。
これだけならまともな修行と言えるだろう。
この簡易版もある。師匠があらかじめ中七と下五を複数用意しておき、弟子に正解を選ばせる方式だ。
弟子は札を選ぶだけでよい。
これもまあ修行であろう。
ところが、正解者に景品を出すものが現れ始めた。
俳諧が、賭博の性質を帯びてしまったのだ。
この札合わせはやがて過激化し、ついには俳諧であることすら形骸化して、ふたつの札を組み合わせるだけのものが現れた。
あるいは点取俳諧というものもあった。
師匠がお題を出し、弟子に句を作らせる。師匠は点数をつける。この点数に応じて景品が出る。
こうなってくると、芸術性の追及よりも、師匠にウケる句が優先される。
芭蕉はこれが大嫌いだった。
自分は危険をおかして旅をし、命をかけて道を極めんとしている。なのにこの手の輩は、俳諧を使ってカネを稼ぐことしか考えていない。まったく許せたものではない。
特に其角は俳諧賭博で荒稼ぎしていたから、書簡でチクリとやったわけである。
なお、景品が出ると書いたが、もちろんただ与えるわけではない。参加費はきっちりとっている。参加費という名の賭け金だ。のめり込みすぎて破産するものまで現れた。あまりにヒートアップしたため、のちに幕府が禁止令を出したほどだ。
文芸が賭博となった珍しい例であろう。
言い換えれば、当時はそれが可能なほど識字率が高く、文化を楽しむ余裕もあったということだ。豊かだったのである。たしょうムチャをしても食っていけた。
*
同年、十二月。
「深川八貧」なる句会が開かれた。
物寂しい冬の日に、貧しいメンバーで集まって、句会でもしようというのだ。
米買ひに雪の袋や投頭巾
これが芭蕉の句。
米を買おうと出かけたところ、雪だったので買い物袋を頭にかぶっていったよ、という句か。
句会には曾良や路通も参加した。
この時点で、路通はまだ問題を起こしていない。たぶん。少なくとも大きなものは。芭蕉庵の近くに住み、ちょくちょく顔を出す程度の存在だ。
本当に簡素な集まりだった。
芭蕉は冗談抜きで貧しかったらしく、このころ実家へ「カネがないので仕送りできません」と書簡を送っている。
カネはないが、それでも一門は拡大していった。
弟子が増えただけでなく、おのおのが成長し、活躍しつつあった。
談林派が散り散りになったいま、蕉門こそが俳壇の中心と言っても過言ではなかった。
芭蕉は、あとは紀行文さえあればと考えていた。
俳諧師として納得のゆく、完成度の高い紀行文だ。
そのためには新しい旅が必要だ。
芭蕉はもう次の旅について考えていた。
次こそは、なにかつかめそうな気がしている。
経験は十分。
機も熟した。
あとは実行するのみだ。
(続く)




