せみのなく頃に 一
「ときは今あめが下しる五月かな」
明智光秀がそう歌ったのは、西暦1582年のことであった。
第六天魔王こと織田信長の暗殺を示唆したとも解釈される問題作。
同年、本能寺の変が起き、信長は世を去ることになる。
さて、冒頭の歌は、光秀が唐突に一人で詠んだわけではない。
愛宕山の寺院で開催された歌会における一首である。「愛宕百韻」として知られる。その名の通り全百首。
寺院の主が「水上まさる庭の夏山」と脇をつけると、里村紹巴が「花落つる池の流をせきとめて」と第三をつけた。
里村は歌の家系だ。
特に紹巴は、戦国時代における、歌の歴史のキーとなる人物でもある。のちに芭蕉が学ぶことになる「貞門」も「談林」も、里村から派生している。
ところがこの紹巴、じつは処刑されていた可能性があった。
本能寺の変で光秀を討ち取った羽柴秀吉が、冒頭の歌を怪しんだのである。暗殺の計画を知っていながら、口をつぐんでいたのだろうと責めたのだ。
このとき紹巴はなんとか弁明して逃れた。
が、またしても危機が訪れた。
羽柴秀次の切腹――。このとき秀次のそばにいた紹巴は、またしても秀吉に怪しまれた。命だけは助かったものの、流罪とされた。
綱渡りの人生であった。
もしどこかのタイミングで紹巴が命を落としていれば、俳諧の歴史はまた違ったものとなっていたかもしれない。
*
「みーんみんみんみん」
1662年。
徳川家康が幕府を開いてから約60年が経過していた。
すでに太平の世となり、武士のおもな仕事も戦から事務作業へと移り変わっていた。もはや刃物を振り回しているだけでは務まらない。教養がなければ笑われてしまう。歌のひとつも分からぬようでは、職場での会話についていけないのである。
「みーんみんみんみん」
伊賀上野に、甚七郎という娘がいた。
18歳。
下級武士とも農民ともつかないこの少女は、やがて松尾芭蕉として日の本に名をとどろかせることになる。
なのだが、いまは、まだ何者でもない。
「みーんみんみんみん」
甚七郎は武家宅に出仕していた。
いわば付き人である。
主は藤堂良忠。20歳。号を蝉吟という。
「あのぅ、蝉吟姐さん……」
「みーんみんみんみ……み゛っ!?」
「お食事の用意できましたけど」
「食べゆ」
甚七郎は、蝉吟の食事係をしていた。
ただの下っ端ではない。上下の別こそあるものの、なかば学友のような関係でもあった。
「ねえ、甚ちゃん。今度さぁ、一緒に北村先生んとこ行こーよぉ」
「北村先生……とは?」
「え、知らないの? マジ? ちょー有名なお歌の先生なんだけど」
「お歌!? ムリですよ! 私、なにも知らないし」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。お歌って言っても俳諧だからさ」
「俳諧?」
「あー、そこからかぁ。えーと、俳諧ってゆーのはぁ……」
当時、ただ「歌」と言えば和歌のことであった。
それは知識階級のたしなむ堅苦しい言語遊戯だ。古典の知識がなければ形にならない。冒頭の「愛宕百韻」もそうである。
純粋な遊びというよりは、貴族が知識を戦わせる目的でもおこなわれた。見ようによってはヒップホップのフリースタイルにも似ている。言葉がリズムをともなって高揚し、周囲の人間へ突き刺さる。
緊張感の高いゲームだったので、プレイヤーたちの消耗も激しかった。
そんな和歌の合間に詠まれたものが「俳諧」だ。
格調の高さは求められない。冗談をカマして笑わせてもいい。少しくらいなら汚い言葉を使ったってよかった。あくまで息抜きの余興。だから、紙に記録されないこともあった。
この余興を一大ジャンルへと洗練させたのが、里村に学んだ松永貞徳であった。
俳諧の持つおかしみを、知識階級だけでなく、広く世間へも伝えようとした。
それは歌の革命だった。
のちに「貞門」と呼ばれる一門である。
とはいえ、それでもまだ庶民には敷居の高い内容だった。ある程度の知識がなければ、いったいどこが面白いのかすら分からぬ代物。分かる人にだけ分かる「くすぐり」だった。
勉強する余裕のある武士や商人にはウケたが、町民や農民にはまだ縁のないものであった。
「それで、北村先生というのは……?」
「貞門の重鎮だよ。すっごくすっごい先生なんだから。マジぱないからさぁ。行こーよぉ」
「いや、あの……。蝉吟姐さん。私、ムリですよ。ロクに教養もありませんし」
「へーき、へーき。先生優しいから。だって甚ちゃん、読み書きはできるんでしょ?」
「ええ、まあ……」
「だったらやろうよ! やんないともったいないよ! 言葉をエンジョイしなきゃ! 五七五、七七、だよ」
「はぁ」
この蝉吟という人物、どこかふわふわしたところがあった。
常に遠くを見ている。
ただ、それだけにつかみどころのない魅力を有していた。
*
はたして甚七郎はパイセンの誘いを断れず、歌会に参加するハメになった。
「北村先生、この子が前に言ってた子。連れて来ちゃったけどいいよね?」
「……」
なかば強引に連れ込まれた邸宅には、すんとした表情の女が立っていた。
着物にも乱れたところがない。
北村季吟。37歳。
貞門七俳仙のひとり。
このとき貞徳はすでに没していたため、一門は弟子たちによって仕切られていた。
「あなた、名は?」
「松尾甚七郎です……」
そう応じると、季吟はさらに目を細めた。
「号はなんというのです?」
「ええと、宗房にしました。姐さんの厨房を担当しているのもあって……」
「結構」
季吟は一方的に話を切り上げ、奥へ行ってしまった。
優しいという前評判とは裏腹に、ずいぶん冷淡な態度だ。
蝉吟はしかしにこにこしている。
「ほら、甚ちゃん。座って座って。楽しい歌会の始まりだよ」
「はぁ……」
なにからなにまで、まだ庶民的ではなかった。
季吟は古今伝授を受けた人物だ。
大名に歌を教えることもある。
古今伝授とは、和歌を極めたものだけが授かることのできる奥義のこと。里村紹巴、細川幽斎、そして松永貞徳など、名だたる歌人のみが許された栄誉である。
つまり彼女は、エリート中のエリートなのだ。
歌会には、季吟の娘、湖春も同席した。
穏やかで品のよさそうな少女。
まだ12歳。
だが、甚七郎とは比較にならぬほどの教養を有していた。
みんなが腰をおろすと、簡単な授業が始まった。
「あおによし。この枕詞に続くものは?」
「え? 菜っ葉でしょうか?」
問われた甚七郎は、首をかしげた。
季吟はしかし動じない。というより、最初から期待していないふうであった。
「湖春、答えなさい」
「奈良です」
「結構」
甚七郎はあせった。
初歩的なことさえ分からない。
のみならず、ようやく毛が生えたくらいの小娘に、知識では完全に負けている。
隣では蝉吟がケタケタ笑い転げている。
季吟は軽く溜め息をついた。
「これでは歌会どころではありませんね。宗房さん、テキストをお貸しします。次回までにすべて頭に入れておいてください」
「はい……」
とんでもない屈辱である。
しかし甚七郎、このときはまだ本気ではなかった。帰ったらどんな料理を作ろうか、そればかりを考えていた。
*
とはいえ、続けていれば興味も湧いてくるものである。新しい知識がどんどん入ってくる。歌も形になってくる。
甚七郎には向いていたのだ。
徐々になにかをつかめてきた。
「みーんみんみんみん」
「蝉吟姐さん、そろそろ出発しませんか? 歌会に遅刻しちゃいますよ」
「うん……」
師走。
吐く息が白い。
蝉吟の様子は日に日におかしくなっていた。
常に遠くを見ている。
「姐さん?」
「んー」
「どうしたんです? 以前にも増して変ですよ?」
蝉吟は人間だから、冬が近いからといってセミのように弱ったりはしないはず。
なのだが、彼女の表情は冴えなかった。
「なんかね、呼ばれてる気がするんだぁ」
「呼ばれる? 誰にです?」
「知んない」
「もー、冗談言ってないで早く行きましょ? 遅れたら怒られちゃいますよ」
「うん」
このとき宗房の名で、初めて句が記録された。
「春や来し年や行きけん小晦日」
当時の暦では、年が明けた瞬間、季節は春とされる。だから正月は「新春」と呼ばれる。
小晦日は大晦日の前日。師走の二十九日。つまり冬。
この年は、正月を迎える前に「立春」が来てしまった。まだ小晦日なのに春が宣言された。そのおかしさを詠んでいる。
季吟は片眉を動かした。
「なるほど」
後世、この句は決して評判がいい句とは言われない。
しかし季吟の目には、見るべきものがあったようである。
まともな教育も受けていない半農の娘が、一年も学ばぬうちに作った句。それにしては出来過ぎていると感じたのかもしれない。
歌会の帰り道、蝉吟は少し元気を見せていた。
「甚ちゃんすごいよ。北村先生、すっごい顔してたよ」
「あれ怒ってたんじゃないんですか?」
「ちがうちがう。驚いてたんだよ。だってすっごい成長したもん」
「だといいんですが……」
しかし甚七郎としては、こうして蝉吟と楽しく過ごせればそれでよかった。食事を作って、一緒に食べて、みんなで俳諧をして楽しく暮らすのだ。
それが続けばいい。
甚七郎は12のときに父を亡くした。
家督は姉が継いだ。
生活はボロボロだった。
なんとしても食い扶持を得なければならなかった。どんなことでもするつもりだった。必死の思いですがりついた蝉吟は、そんな甚七郎を優しく迎え入れてくれた。
幸福であった。
(続く)