花鳥館と風月館(4)
廊下を歩いてきたは初老の男。宿泊客の案内役、ルフスだ。
俺は思わず歯ぎしりした。どうして俺は扉を開ける前に、外の物音ひとつ注意しなかったんだ――いや、今そんなことを考えても仕方がない。
言葉を失っている俺たちに、ルフスは表情を変えず歩み寄ってくる。
素早い動きで、俺たちの前に出たのは泉利だった。率先して、責任を取るかのように進み出た泉利だが、特別口を開くわけではなかった。きっと泉利も混乱してるんだ。
空気を強張らせて構えている俺たちに、ルフスは穏やかな調子で言った。
「こちらにおいででしたか。そろそろ夕飯でございます。どうぞ皆様、食堂へお越しくださいませ」
「えっ……」
思いがけない言葉に、力が抜けた。
あくまで、この館の世話役、ということなんだろうか。この地下室の惨状なんて、知りもしないということか?
確かに、階段を下りたところにも、大工道具や工具のようなものばかりが置いてあった。例の部屋は、鍵こそかかってなかったが、物置でも食糧庫でもなさそうだった。用事がなければ入ることもなく、異変にも気づかないのかもしれない。
ルフスは、目ざとくナザトにも気付いたようだった。
「皆様おそろいのようですね。お声がけが早く済んで何よりです」
柔和な笑みを浮かべてはいるが、どこかうすら寒いものを感じる。
しかし、こいつが地下室のことを知っていようと知るまいと、俺たちが勝手にここへ入ったのを知られたことには変わりない。泉利が進み出て、どうにかフォローを試みる。
「いやあ、色んな剥製を見ようと思って探検してたら、物置にまで入り込んじゃったみたいで。すんません」
ルフスは微笑を張り付けたまま、泉利の言葉に丁寧に返す。
「いえいえ。当館自慢の剥製に夢中になっていただけたのなら、幸いでございます。他に何もない静かなところですから、どうぞごゆっくり鑑賞くださいませ。……とはいえ、ひとまずは夕食に致しましょう。是非、食堂の方へ。ご案内致します」
踵を返すルフスの後ろ姿は、何も語らない。三人に向かって静かに目配せをするが、みな神妙な顔をしたままだ。
ここで固まっていても、仕方がない。今は、案内されるままに行くしかないだろう。
覚悟を決めてルフスの後に続けば、少し遅れて三人の足音が後方からついてきた。
俺は先を行くルフスに、慎重に声をかける。
「食事の前に、手を洗いたいんだけど」
あの地下室を歩き回った後だ。本当は、全身シャワーを浴びて身ぎれいにして、靴は丁寧に磨きたいくらい。でも、変に思われてもいけない。最低限を口にすると、ルフスはやわらかい声で返事をした。
「食堂のすぐそばに手洗い場がございます。どうぞご利用ください」
「ありがとう」
ほっとして短く返した後、ルフスは静かに言った。
「しかしながら……以前にも申し上げましたが、当館には主人のプライベートな場所もございます」
剣呑な光を孕んだ瞳が、肩越しに俺を捉える。ひくりと無自覚に喉が鳴った。
「どうぞあまり深くまで、踏み込まれませんよう」
「……肝に銘じておくよ」
廊下の先の角をひとつ曲がるだけで、例の地下室から食堂へたどり着けた。客室から来るなら、エントランス正面にある扉を二つくぐればいい。
扉のすぐ横にある手洗い場で各々手を洗う。ルフスは扉を押し開いた状態で控えているが、俺たちの緊張した面持ちに気づいているんだろうか。
食堂の中央には、整えられたダイニングテーブルと、それを囲む八脚の椅子。
自分の年齢が一番下だと悟っているからか、ナザトが下座に腰かけた。ナザトの隣に俺、ヒューイ、泉利が一直線に並ぶように腰を下ろす。
視線を投げてよこしてきたナザトを見返すも、すぐに目を逸らされてしまった。
俺たちが席に着いて間もなく、控えめなノック音が響いた。
「皆様お揃いでしょうか」
入ってきたのは、一人の黒髪の青年だった。
学生服に造りの似た、詰襟の上等な服を身に着けている。落ち着いた雰囲気に年上かと錯覚したが、俺と同じくらいだろうとすぐに気付いた。
ルフスが半歩下がり、片手で優雅に青年を示した。
「こちらが、花鳥館の所有者であり、当主のウィラム・ロアシー様です」
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
ルフスに紹介されて、青年が爽やかに挨拶した。
この館の主。当主?
俺は、心なしか背筋を伸ばす。
親ではなく、自分で宿泊施設の運営をしてるんだろうか。年の割に大人びた空気をまとっているのは、その辺りが関係してるのかもしれない。
しかし、この館を取り仕切っているなら、こいつがあの地下室の惨状の首謀者? いや、何か事情があって、親から当主の座と館を譲り受けたばかり、ということも考えられる。油断は禁物だ。
その時、ルフスとウィラムの後ろから、ぱたぱたと足音をさせて人影が走りこんできた。
「遅くなってごめんなさい! もう夕食は始まっちゃった?」
ウィラムと同じ、黒髪の少女だ。十四、五歳くらいだろうか。こちらもやはり、年齢にそぐわぬしっかりした印象を受ける。
ウィラムは少女に向かって、穏やかに微笑む。
「今から始まるところだよ、ウィーシャ。そんなに慌てる必要はない」
「良かったあ。初めまして、お客様。ウィーシャと申します」
少女は安堵したような顔をして、俺たちに向かってぺこりと頭を下げた。
胸元にリボンの付いた上品なブラウスに、ひざ丈のフレアスカート。清楚な細く長い2本の三つ編み。いかにも良家のお嬢様といった感じだ。
館の主たちが自己紹介したからには、次は自分たちの番だと思ったんだろう。泉利が自発的に名乗り始める。
「泉利・レクティアです。今回は友人たちと旅行に来ました。……お二人はご兄妹なんですか?」
「ええ、少し年は離れているんですが、兄妹です」
泉利の質問を受けたウィラムが、微笑みながら応対する。確かに、目元の辺りがよく似ている。
そんなことを考えながらじっとウィラムの目を見つめていたら、不意にこちらへ視線を動かしたウィラムと目が合った。
その深い瞳には、鈍い光が宿っている。茫洋として何も捉えていないような目は、しかし同時に、俺のすべてを見透かしているかのようでもあった。
ぞわりと背中を嫌なものが駆け上がる。重くてどろりとしたものが内臓を圧迫するような感覚に、わずかな吐き気を覚えた。
――ウィラムの目が、エントランスで俺たちを見つめていた剥製のそれと、そっくりだと思ってしまうなんて。
客人である手前、館の主を相手に失礼なことはできない。こみ上げてきた吐き気をぐっと堪えて、俺はヒューイの自己紹介が終わるのを待った。
「ルード・ヴィクタールです。しばらくお世話になります」
名乗れば、ウィラムは片眉を上げて、優しく微笑んでみせた。
「もしかして、ヴィクタール家のご子息ですか?」
「はい。我が家をご存知で?」
「ここで会ったのも何かの縁です。今後何かありましたら、ぜひお声かけください」
「こちらこそ、ぜひよろしくお願いします」
自分の生まれ育った家が、ある程度の地位であることはわかっている。人脈作りも、社交界では大事な仕事だ。この館の主と末永い付き合いになるかどうかは別として、愛想は振りまいておくに限る。
俺の自己紹介が終わった後、ナザトが小さく頭を下げて名乗り始めた。
「ナザト・ロデイラです。今回は実に素晴らしいと評判の、こちらの剥製を拝見しに参りました」
ナザトの家名を聞いて、俺はようやくぴんときた。
ロデイラといえば、大きな商人の家じゃないか。美術品の取り扱いもしているはずだ。それで剥製に興味を持って来たんだな。
ウィラムがナザトに何か言葉を返そうとした傍から、ウィーシャが三つ編みを揺らして割って入る。
「ひとまずお食事を始めましょうよ。せっかくのお料理が冷めちゃうわ。お話は、お食事の合間でもできるでしょう? ね!」
底抜けに明るくも、どこか含みのあるようにも聞こえるウィーシャのその口調に、俺はなぜか背筋が寒くなるのを感じた。俺の勘ぐりすぎだろうか。それとも。
ウィラムとウィーシャが席に着くのを待つ間、泉利がひそめた声で俺とヒューイに声をかけてきた。
「ウィーシャちゃん、将来絶対美人になるね」
「は?」
言われたことの意味がわからず、俺は小さく間の抜けた声を上げる。
「いやあ、元気で明るい子っていいよな」
「おまえ、頼むからやめろよ……」
泉利の浮かれた小声に、ヒューイが呆れた声を絞り出した。俺は呆れて物も言えず、顔をしかめて黙殺するにとどめる。
各々席に座り直すと、ルフスが給仕を始めた。テーブルの上に並べられる料理には目もくれず、興奮気味なウィーシャが、目を輝かせて俺たちに尋ねてくる。
「皆さんはどちらから来られたんですか?」
「こら、ウィーシャ。お客様の前だぞ」
気分が高揚しているのか、机に上半身を乗せるようにして身を乗り出すウィーシャを、ウィラムが冷静に諌める。
「申し訳ありません、妹が。普段の生活ではお会いできないような方々ですので、興奮しているのだと思います」
兄に注意されてしまったウィーシャが、少し頬を赤らめて口をつぐんだ。こうして見ると、本当に邪気の無い子供の仕草なんだけど。
どうぞ召し上がってください、とウィラムはにこやかに促してくる。その言葉に応じて最初に手を動かしたのは、泉利だ。春野菜を使ったサラダに、湯気の立ち上るスープ。順に出される料理は、どれも普通のものばかり。
それでも少し気を抜けば、地下室の光景が目の前に蘇るような気がしてくる。こみ上げる不快感を飲み下し、俺もスプーンに指を絡めた。
ふと、カラトリーに手を伸ばすウィラムの腕に目がいった。
袖口からちらりと見えたのは、随分と安っぽいビーズのブレスレットだ。上質な服装、紳士然とした丁寧な所作だというのに、その手首を彩る装飾品だけがチープで、変に目を引く。
引っかかるものを感じながらも、不躾に質問するのもためらわれて、俺はその違和感を一度頭から追い出した。
ついでに、俺はそれとなく辺りに視線を走らせた。ウィラムとウィーシャもフォークを片手に、食事を始めている。誰かを待っている様子もなければ、用意された食事の席も合わせて六人分。既にいっぱいだ。
俺は小首を傾げて、ウィラムに尋ねる。
「随分、お若い当主様ですね。なにか事情があるんですか?」
丁度二席空いているから、両親も来るかと思ったのに。親が若くして息子に当主の座を譲るということも、無くはない。体を悪くして部屋で食事をとっているとか、もしくは他に何か理由があるのか?
俺が質問すると、ウィラムは一瞬黙ってから答えてくれた。
「先日、父が亡くなりまして……この家を継いだばかりなのです」
俺ははっと息を呑む。所有者のロアシー家について調べてからくればよかったな。失礼なことを訊いてしまった。
「そうだったのですね。お悔み申し上げます。家のことを取り仕切るのは大変でしょう」
「お気遣いありがとうございます。会社のことなども、決めなければならないことも多くて」
弱々しく笑ってみせるウィラムに、同情する。
当主だった父を亡くしたばかりとあっては、家のことも会社のことも大変な時期だろう。俺は父上も母上も健在だけど、その苦労は想像に余りある。
だが、例の地下室の件についてはますますわからなくなった。先日まで生きていた親の管理下にあって、ウィラムは全く関知していないのか。それとも――。
思いついた考えを、胸中で握りつぶす。いや、さすがに、それはない。
まさか、あの地下室で、父親を惨殺したなんてことは。
目の前に座るウィラムの目元には、わずかに憔悴の色が滲んでいる。本当に気疲れしているんだろう。
聞いている側が不快にならない程度の、弱音めいた話をするウィラムに相槌を打つ。すると、ウィーシャが横から口を開いた。
「お兄様、仕事の話はいいでしょ。根を詰めすぎなのよ」
「そうそう! せっかくなんだから楽しい話しましょ」
口をとがらせたウィーシャに賛同して、泉利がへらりと笑う。確かに、食事の間くらい気晴らしになるような明るい雑談をした方が、ウィラムにとっても楽だろう。
ウィラムは妹に微笑みかけた。それを受けたウィーシャもまた、兄に笑顔を返す。実に仲が良さそうだ。少しうらやましい。
「そういえば、食事前はお話を遮ってしまってごめんなさい。ナザトさんは何をされているんですか?」
ウィーシャが謝ると、ナザトは食事の手を止めて顔を上げた。
「普段は、家の仕事を手伝っています」
迷いのない、凛とした声。明朗な物言いからは、強い精神力と自信を感じた。
ここで言い切るってことは、既にロデイラの商人として仕事をしているってことなんだろう。内心感嘆の声を漏らしていたら、ウィラムが俺の気持ちを代弁するように言葉にした。
「お若いのにすごいですね。私もこれからのために勉強していきたいと思ってるんです。よかったらお話を聞かせていただけませんか?」
「僕はただのいち商人ですので、会社の経営などはとても。ですが、気分転換程度にはなるかもしれませんね」
そう謙遜するナザトからは、計算高くて狡猾な商人像は透けて見えない。商家の人間といえば、もっと業突く張りで、抜け目なさそうな奴ばかりかと思ってたけど。
それにしても、と俺はナザトを横目で見た。
こいつの、この堂々とした物言いは何だろう。地下室での出来事など、どこ吹く風だ。これがプロってやつなのか?
仕事の話をああだこうだと話し続ける二人に、ウィーシャが拗ねたように小さくため息を吐いていた。目下のところ、仕事に打ち込んでる奴ってのは、仕事くらいしか話のネタがないのかもしれない。
ナザトは朗らかに微笑をこぼして、ウィラムと会話を続けている。
「我がロデイラの当主はまだ健在ですし、今のうちに自分の足で人脈を作っておこうとふらふらしているんですよ。こちらにも見事な剥製があると聞きまして、伺った次第です」
「最近の若い子たちはすごいな」
馬鹿にした調子でもなく、ヒューイが心からの感想を口にする。泉利はちらりと俺を見やってから、ヒューイの言葉に乗っかった。
「俺なんか最近ようやく稼ぎ出したってくらいなのに、みなさんすごいですねえ……」
泉利と目が合う。何だよ、その意味ありげな視線は。両親に守ってもらって安穏と学生生活送ってる俺を馬鹿にしてんのか。
いや、そんなことより、心配になる言葉があった。おまえまで仕事の話に乗っかると――。
ウィーシャが無邪気に言った。
「泉利さんは何されてるんですか?」
「えっ」
その質問に、泉利が固まった。
ほら見ろ!
不安は見事に的中だ。俺は罵倒の言葉を飲み込んで、心の中で頭を抱えた。ヒューイも同じ心境だろう。
そんな風に話に入っていったら、相手も質問してくるに決まってる。探偵だなんて名乗れないだろ。フアル・ティレットの捜索で、この館は怪しいから調べに来たってのに。
泉利は引きつった笑顔で、やんわりと答える。
「か、会社員です」
ふわっとした嘘持ってきたな、おい。
ウィーシャはにこにこと笑みを浮かべて、次々質問を繰り出す。
「どういった会社にお勤めなんですか?」
「警備会社に勤めてるんです」
「ということは、誰かの護衛とか……?」
「そうですね、要人の護衛とか建物の警備ですね。多少ですが武道を嗜んでます」
「すごい!」
そういう隠し方すんのか、なるほどね。泉利に武道の心得があるのは、見る人が見ればわかるだろうからな。確かにそういう説明をしておけば、納得してもらえるだろう。
ウィーシャは泉利の返答に目をキラキラさせる。
「じゃあ、何か武勇伝をお持ちだったりするんですか!? 悪い人をやっつけたとか!」
「武勇伝!?」
一つ嘘をつくと、その嘘を隠すためにまた一つ、更に一つと嘘を重ねることになる。
目を輝かせるウィーシャを前に、泉利は視線を泳がせていた。
「そうですね……先月……無邪気な女の子を装った犯人をやっつけましたよ……」
おまえ何もしてねーよ。主に走り回ってどうにかしたのは、俺とヒューイじゃねえか。先月の事件のことは、もう忘れてしまいたい。
ウィラムが何とも言えない表情で、泉利の言葉を反芻した。
「無邪気な、女の子ですか」
何を思ったのかまではわからなかった。泉利は気分を害したのかと心配になったらしく、比較的優しい口調でフォローを入れる。
「最近は物騒ですから。若い女の子でも、案外、怖い本性を持ってたりするんですよ」
「ふふ。女性の考えることは、男の私たちには理解できないところもありますからね」
相槌を打ったウィラムを見て、この食卓で紅一点のウィーシャは思うところがあったらしい。泉利は、不満そうに顔をしかめたウィーシャに気付いて小さく笑った。
「もちろん心から可憐な女の子もいると思いますよ。ウィーシャちゃんみたいな、ね!」
「ありがとうございます」
泉利の言葉に、ウィーシャはにこりと笑った。
その後、食事はつつがなく終わった。
ウィーシャとウィラムは風月館に戻るからと丁寧に挨拶をして、そろって席を立った。ウィラムも仕事で疲れているだろうし、ウィーシャもしばらくすれば寝支度を始めるだろう。
俺たち四人も部屋へ戻ることにする。後片付けを始めたルフスに軽く挨拶だけして、食堂を後にした。
部屋へ向かう道中、誰もが黙っていた。
食事の間はどうにか平静を取り繕ったけど、あのショッキングな地下室の映像はまだまぶたの裏にこびりついている。