花鳥館と風月館(3)
食堂を回り込むように伸びる廊下の奥には、扉が二つあった。位置的に、片方は厨房への入り口だろう。食堂を通りたくないときは、こっちを使うんだろうな。もうひとつは、食糧庫とか?
謎の扉には、鍵がかかっていた。俺がノブを回すも、小さく音を立てるだけの扉を見て、泉利もすぐに悟ったらしい。俺が口を開く前に、泉利が扉に歩み寄った。
かがみこんだ泉利が、どこからともなく取り出したピッキングツールを鍵穴に差しこむ。それを見たナザトが、ぎょっとした顔をして言った。
「そんな、泥棒みたいな……」
「開いたぜ」
泉利は、ナザトの非難を遮るようにうそぶいて、扉の奥へ踏み込んでいった。俺も黙って泉利に続く。振り返ると、ヒューイが少し困ったような顔をして、ナザトの背中を叩いてやっていた。
扉の先に人気はない。ヒューイとナザトが入るのを確認して、俺はすぐに内側から鍵をかける。
部屋は、ちょっとした物置だった。簡素なロッカーと古ぼけた家具、あとは段ボール箱がいくつか。俺と泉利はその中に、地下へ続く階段があることを見逃さなかった。
「これはいよいよ怪しくなってきましたなあー!」
泉利が舌なめずりをしながら声を弾ませると、ヒューイから溜息混じりの言葉が返される。
「何でそんな嬉しそうなんだ。ただの地下倉庫だろう」
「探検しがいがあるじゃん? もしかしたら、もしかするかもよ?」
「物騒だな……」
失踪事件とつながりがあるかもしれない。そう思ってるからこそ、ヒューイも顔をしかめたんだろう。
「あの、ここって入って大丈夫なところなんですか……?」
不安そうな声につられて、全員の視線がナザトに集中する。
そりゃあそうだよな。ナザトからしたら、剥製展示をしているだけのただの宿だ。鍵のかかっている、案内図にも載っていない部屋なんて、客が入っていいとは思えないだろう。
泉利は臆するナザトを焚きつけるように、にやりと笑ってみせた。
「いいじゃん。男の子なら好きだろ、探検」
ひくりと、ナザトの喉が震えた。
探検の二文字に抗い切れない魅力を感じたのか、それとも道徳観が歯止めをかけたのか。ナザトの表情はいまいち読めないが、複雑な色を浮かべているのは確かだった。
ぽっかりと暗闇に口を開けたような階段だ。自分から進んでいるはずなのに、闇に食われているような錯覚に陥る。
泉利と俺が率先して先を行き、続いてヒューイとナザトも下る。
物音ひとつ聞こえない階下に目をこらして、慎重に足を下ろしていった。五感を研ぎ澄ませても、やはり人気はない。さすがにこの時間帯は誰もいないんだろう。
俺は階段を下りきると、すぐ傍の壁をまさぐった。
指先に当たった硬質な感触に、心の中でガッツポーズして、指を乗せ直す。ぱちんと控え目な音がして、階下の部屋が照らし出された。
そこにあったのは、さびれた印象の薄暗い部屋だ。
ナザトが室内を見回しながら言った。
「はしごに、のこぎり……大工道具ですか。物置みたいですね」
申し訳程度に設置された棚や、床に放置されているのは、ナザトの指摘通り日曜大工の道具といった感じだ。庭いじりや館内の整備に使うような道具ばかりだ。
泉利がぼやくように、間延びした声でこぼす。
「なあんだ、ただの倉庫か」
「一体何を期待してたんだ」
ヒューイが呆れたように言うのに続いて、ナザトがこわごわと口を開く。
「ほら、ただの倉庫ですよ。剥製もありませんし、出ましょう?」
「んん、そうだなぁ……」
ナザトの言葉に生返事をする泉利。何が交友深めて情報聞きだす、だか。ナザトが明らかに不審そうな顔してるじゃん。
俺は室内のものを物色している泉利を横目に、ナザトに声をかける。
「悪い。おまえも言ってた通り、泉利は剥製にあんまり興味ないから、退屈してるんだと思うんだ。夕飯まで付き合ってやってくれよ」
言うと、ナザトから恨みがましそうな視線が返ってきた。ああ、まあ、そうだよな。おまえからしてみれば「友人ならあの強引な泉利の態度に物申してくれ」って思うのが普通だよな。
理解はできるものの、俺はあえてその視線を黙殺した。
さっき、連続失踪事件のニュースを耳にしたところだ。フアル・ティレットが巻き込まれてないとも限らない。事件性があるとなれば、客室ではなくこういう倉庫の方が怪しいと、俺も思う。やっぱり探れるものなら、探っておきたいんだよな。
泉利の横を通り過ぎて、ヒューイがふらりとどこかへ歩を進めている。向かう先には、扉がひとつあった。
奥は、もっと色んな工具でごちゃごちゃしているんだろう。花鳥館は人里から少し離れた山の上だ。いざってときの備蓄もあるだろうし。
扉の前で立ち止ったヒューイは、口元に手をやった。
「ヒューイ?」
「変な、においがする……」
「は?」
喉の奥から絞り出したようなヒューイの掠れた声を聞いて、俺は足早にその背に近づいた。後ろからナザトと泉利も寄ってきて、泉利が心配そうに訊ねる。
「そんな酷いか?」
「上手く説明できない、が……とにかく、異様なにおいが」
「食料でも腐ってんじゃね?」
扉の先を視線で暗に示せば、ヒューイは口元を押さえたまま首を横に振った。特別嗅覚に自信があるわけでもないせいか、俺にはちょっとよくわからない。
扉ごしに耳をそばだててみるけど、特に物音も聞こえないし、人の気配もないな。
「……開けてみるか」
ここは慎重に。そっと扉を押し開ける。
すん、と鼻を鳴らせば、今度は俺にも分かった。扉の合間から溢れてくる、異臭。何だこれ。生ゴミを放ったらかしてた、だけじゃ済まない。
室内は真っ暗だった。地下だからそもそも窓もないだろうし、電気を付けなきゃ、本当の暗闇なんだろう。手探りで壁にある電気のスイッチを発見したものの、俺の指はスイッチにかけたまま、不思議と動かなかった。
ざわりと胸が騒ぐ。
これは、俺たちが見ていい部屋か?
「ルードさん?」
「何でもない」
何かを察したのか、ナザトが声をかけてくる。
大体、見ちゃいけない部屋って何だ。こんな地下に、誰かのプライベート空間があるとは思えないし。
怖気づく自分を叱咤して、指に力を入れる。ぱちんと軽い音がして、白い蛍光灯が室内を照らし出した。
開かれた視界に浮かび上がったのは、匂い立つような赤色だった。
「っ……!」
誰が上げた悲鳴かわからない。もしかしたら、自分の喉から飛び出した声だったのかも。
何かが飛び散った跡、こびりついた汚れ、拭きとりきれなかったと思しき筋。部屋をキャンバスに、冗談のような禍々しい絵を描いているようにも見えた。部屋全体、どこもかしこも赤黒く染まっている。
頭が「見るな」と拒否するより先に、視線が部屋中をすべっていく。
部屋の奥、赤黒い薄闇が凝っている場所には、戸棚やロッカーらしきものがいくつかある。部屋の真ん中に、平台が二つ。その平台周りの「汚れ」が一番酷く、傍には何かが落ちている――そう気付いた瞬間、ようやく、強烈な異臭が思考を焼いた。
くらりと、視界が歪む。
平台の下に転がる小さな影。あれが何か考えてはいけない、と止める自分がいることに気が付くも、遅かった。
あれは、肉片だ。
とびきり血が苦手というわけではない。それでも、一瞬喉元まで込み上げてくるものがあった。
しっかりしろ、と自分を叱咤する。呼吸を整える。震える肺は、この部屋の空気を吸いたくないと本能的に拒絶している。また、叱咤する。
「何だ、これ……」
耳に飛び込んできた泉利の声に、俺は我を取り戻した。
そうだ、少し驚いただけだ。もしかしたら、例えば、そう。剥製を作るための部屋かもしれない。俺が勝手に驚いて、変な想像をして、ショックを受けてしまっただけのこと。
俺はゆっくりと足を踏み出して、室内に踏み入った。背後から、金切り声にも似たナザトの声が飛んでくる。
「ルードさん!」
俺は軽く片手を挙げてナザトを制した。すぐに泉利が隣まで寄ってきて、軽く引き寄せるように背中に手を当てられた。その体が心なしか強張っていることを感じて、こいつもやばいと思ってるんだなと実感した。
吐き気を堪えながら、照明に照らされた平台を再度確認する。
病院の手術室で見るような、大きな台だ。その平台には、絡み合った数本の鎖が載っている。こちらも、鉄製のそれに染みこむように変色していることが確認できる。
台から伸びる鎖は5本あった。一ヶ所に集中しているわけじゃない。ちょっと離れたところに、定められた位置でもあるかのように、それぞれ設置されている。
例えば。
この薄汚れた台に人間を寝かせるとして。
大きさはちょうどいい。そして、首と、両手両足を拘束するのに、とても都合の良い位置――。
閃いてしまった光景に、ぞっとした。
ちょっと考えれば分かることだ。動物の剥製を作るのに、拘束具は要らない。だって、生きたまま動物を解体するわけじゃない。普通は狩猟で仕留めた、既に息のない動物で作るはずだ。
死んだ動物を、拘束する必要がどこにある?
気分の悪くなるような考えしか浮かんでこない。俺はかぶりを振った。まだ調査の段階だ。ひとまず、集められるだけ情報を集めよう。
「何人分だ、これ?」
ぽつりと頭の傍から振ってきた泉利の声に、大げさなほど肩が跳ね上がった。
泉利は宥めるように俺の肩を撫で、静かに続ける。
「とっくの昔に乾いて変色してる黒い血、その上に重なったらしい比較的赤い血痕……まだそう時間が経ってない色のものもある」
泉利は俺の肩に回しているのと反対の手で自分のあご先を擦って、目を細めた。
泉利とは短くない付き合いだけど、こんなに落ち着いた姿は初めて見たかもしれない。呑気で明るい泉利がなりを潜めているのを目にして、ぞろりと冷たいものが足元を這った。
泉利は入口の方へ声をかけた。
「ヒューイ」
「……わからん。詳しく見るにしても、専用の機器がないと。俺は検視官じゃない、医者だ。血の跡を見ただけで、何かわかるとは思えん、が……」
「が?」
「これは、一人分じゃないな」
ヒューイは真っ青な顔をしながら、同じように絶句して立ち尽くすナザトを支えるように寄り添っている。そのまま、そこにいることをお勧めする。室内は澱んだ空気でいっぱいだし。地下だから換気できるような窓もないからな。
改めて部屋の中を見回す。少し離れたところに、平台がもうひとつ。
そちらを注視するが、血塗れの平台に鎖が5本、という造りは同じようだ。赤黒い汚れの酷さはどこも似たようなものだけど、その台の上は、この室内においてわずかにきれいだと感じた。きれいといっても、雑に血を拭き取ったような跡が見受けられる程度だけど。
台の上を、拭く。
想像して、胃の中をぐるりとかき回されるような気持ち悪さを感じた。
死んだ人間に拘束具はいらない。拘束具があるのは、生きた人間をこの平台に載せる必要があるからだ。
この部屋の主は、明らかに普通ではない。どんな事情があったって、他者を切り裂き痛めつけるような人間に、まともな感覚があるとは思えない。
それなのに、人目につかない地下室で、首尾よく対象を鎖につないで傷つけて、あまつさえ後片付けまでしている。まともではないはずの人間が!
積み上がっていく人間像に吐き気が込み上げてきて、俺は思わず自分の口を覆った。喉元までぐうっとせり上がってきたものを、歯を食いしばって飲み下す。
泉利が俺の背に手を当てたまま、俺の顔をのぞきこんだ。みっともないところを見せるわけにはいかない。声をかけられる前に、自分から大丈夫、と口にする。
丸めた背中を伸ばして、俺は視線を上げる。
「あれ……?」
その比較的きれいな台の上、鎖に紛れて何かが光っている。俺は吸い寄せられるように、そちらへ手を伸ばした。
シルバーの、細身の指輪だ。
埋め込まれているのはターコイズのようだ。細やかな装飾があしらわれている。サイズからして、男の指には入りそうにない。
「女物だな」
俺の見ていたものに気づいたらしい泉利が、小さくこぼす。
ここへ連れてこられた人間のものか、と考えた瞬間、写真の女が頭をよぎった。ジュエリー会社の令嬢、フアル・ティレット。
あまりにも安直すぎる連想だ。だけど、考えずにはいられない。
同じことを考えたのか、泉利は俺の手の中にある指輪をつまみ上げた。流れるようにそれをポケットにしまい込む泉利の姿に、何か布でくるんだりしなくてよかったのか、なんてどうにも場違いな考えが浮かんだけど、黙っておく。
「泉利、ルード。そろそろ上に戻らないか?」
声をかけてきたのは、入口で待つヒューイだ。
俺は頷いた。
「ああ、戻ろう」
「最後にちょっとだけ、確認させて」
言った泉利は、俺を連れて入口とは反対、部屋の奥へと足を向ける。
奥には、壁に取り付けられた戸棚があった。乱雑に置かれていたのは、薬品の詰まった小瓶や、空のビーカー。中には血がこびりついた入れ物もあって、俺は眉をひそめた。
隅には、靴や布の切れ端が雑然と押し込められている。誰の持ち物か判別がつくようなものはない。
それでも。
俺は直感した。これは、ロアシー一家の持ち物じゃ、ない。
一番端の戸棚を開けば、用途のわからない道具が出てきた。妙な造形の置物とか、杭みたいなものとか。どことなく不安を煽るような形状に、オカルトめいた印象を受けた。
それらに交じって置いてあった紙片に、視線が吸い寄せられる。それは、ところどころ血を吸って黒ずんだ紙だった。どこにでもあるノートから、一頁だけ破り取ったようなもの。
紙の上の文字は、どうにも薄く、滲んでいる箇所も見受けられる。男とも女ともつかない、子供っぽい字の走り書き。高揚か、絶望か、怒りか、乱れた字に目を凝らす。
「――対象の心を操る方法。記憶の薬草ローズマリー、悪魔よけの葉ネトル、禁断のハーブラプンツェル、それに対象の血を混ぜた薬液を作る。『腕輪』をその薬液に一晩浸し、月の光に当てておく。翌朝、対象に『腕輪』を付け、以下の呪文を唱えること」
胸の内で言葉にして読み上げながら、俺は首を傾げた。
薬の調合方法だろうか。ローティーンの女子の間で流行っているような、妙なまじないの手順。毒々しく浮いて見える、「呪文」の文字。
死神がひっきりなしに、内臓を掻きまわしていくような心地がした。
これは何のためのメモなんだ?
一緒に紙片をのぞきこんでいた泉利が、小さな声でこぼす。
「こんなのを本気で信じ込んでるオカルト野郎がいるってのか?」
言いたいことはわかる。俺は返事をせずに、そのままぐるりと部屋を見回した。
部屋の物陰にも、死体や失踪者自身は転がってなさそうだ。その事実に、ほっと胸をなで下ろした。
戸棚や平台に、埃は積もっていない。今も、この部屋に人の出入りがあるってことだ。
誰かが、ここに誰かを連れてきて、拘束して切り刻んだ。凶器は、部屋の片付けついでに処分したのかもしれない。そいつは、その必要最低限の片付けをする程度には、知性も理性もある奴ってことだ。
俺は緊張して乾いた喉に唾液を流し込みながら、考える。
この部屋の主は、誰なのか。
どうにも気持ちの悪い感覚だけを残して、俺たちは部屋を後にした。
なるべく丁寧に扉を閉めて、階段を上がっていく。その間、俺たちは全員無言だった。
死体や血だまりがなかったのは、ある意味幸運だった。そんなものを突然見つけてしまえば、誰かしらパニックになって騒ぎ立てた可能性は高い。あの部屋を使っている奴が俺たちの騒ぎに気づいたら、それこそ危険だ。
一歩踏み出すごとに、後ろから血の匂いに追いかけられているような気分になる。急き立てられるように階段を登りきって、一息ついた。
振り返ると、ナザトは血の気の引いた顔で、胸の前で服をかき合わせるように拳を握っていた。
まさか俺だって、泉利のちょっとした強行軍で、ここまで酷いものを見ることになるとは思ってなかった。泉利自身でさえ想像していなかったはずだ。偶然巻き添えになったナザトはたまったものではないだろう。
申し訳なくなって、小さくナザトに声をかけた。
「悪かった。気分悪いよな。早く客室に帰ろう」
はい、と掠れた声がナザトの口から漏れる。
早く外の空気を吸いたい。俺は、性急に扉を開けて廊下に出た。
その瞬間、視界に飛び込んできたのは、人影だった。