第1話
仕事で遅くなった帰り道、誰かが後をついてきているような気がした。普段、この時間に帰るときはだいたい家につくまで一人きり。ごくたまに一緒になる女性がいるが、その人も通りを入ってすぐに違う道にそれていく。
だからこそ、その男が、明らかにこちらの後をついてきていると気付いたのだ。
最初はたまたま方向が同じなのかな、と思った。珍しいなとは思ったけれど、この時点では特に何か感じたわけではない。その後もしばらく足音がついてきたので、近所の誰かの家に用事がある人なのかな?と思った。何か用事がなければ、住宅街にはこないだろうから。
そんな風に考えつつも、街灯が減り、通りが暗くなってくると後ろについてこられるのが少し怖くなったので、意図的に歩調を緩めた。同じぐらいの速さで歩いていたのだから、これで先に行ってくれるはずだ。
しかし、追いついてこない。のろのろと歩くわたしを追い抜けないほど道幅は狭くない。歩調が遅くなるような理由─例えば、携帯をチェックしているというような気配もないのに。
どうして? どうして追い抜いていかないの? たまたま同じ道を歩いてるんじゃないの? まさか……? 心臓がどくりと大きな音を立てた。
緊張でじわりと汗が浮き、呼吸が早くなる。自意識過剰かもしれないけれど、さすがに気になってチラチラと様子を伺ってみると、そいつはひょろりと背が高く痩せ型で、黒っぽいスーツに白いシャツという暑い盛りの今の時期にはちょっと暑そうな格好で、俯いたままゆっくりと歩いていた。
長めの前髪が濃い影を作り、顔を隠している。少しだけ見える口元は薄く笑っているように見えた。
早足で遠ざかってみる? でも、同じように早足で追いかけてこられたら、ついてこられていたのが確定してしまうし、それがきっかけになって襲われたりしそうだ。立ち止まるのも、それで通り過ぎてくれたら良いけれど、一緒に止まられたりしたら逃げ場がなくなってしまう。
そうだ、電話がかかってきた振りをして…ううん、振りじゃなくて、電話しよう。正直とても怖い。夜中だから迷惑かけちゃうけど、あの子なら一人暮らしだしまだ起きているはず──。
携帯を取り出し、コールする。呼出音が1回、2回、3回…早く出て!と祈りながら待っていると、プツリと音がして、繋がった。
「こんな夜中にどーしたのよ、珍しいじゃーん」「あ、…うん、ちょっとね。この間貸したDVDなんだけど、もう観た?」「1本目は観た! 残りはまだだよ。観終わったら感想戦しよーね!」「うん。楽しみにしてるね」……
他愛ない会話。後ろにいるであろう男に警戒させないよう、「つけられている」ということは伏せたままだが、しばらく話していたら、少し落ち着いた。彼女の底抜けに明るい性格にはいつも助けられているが、今回も怖い気分がすっと抜けて、ついてくる足音も気にならなくなった。電話して良かったな、と頬が緩んだその時
「あ、ねーえ、もしかして彼氏一緒?」「え?」「いま、男の声聞こえたよ! なんて言ってたのかは聞き取れなかったけど!」「えっ…」「彼氏一緒のときにわざわざ電話なんてしてこなくていーのに! なに、喧嘩でもしたのー?」
どういうこと? いまここにはわたしと、ついてきているっぽい男だけ。でも、その男も電話に声が入るような距離にはいない、はず。なにより、わたしには男の声なんて聞こえなかった。電話ごしに聞こえるぐらいの声だったら、わたしにも聞こえていなければおかしいじゃないか!
「彼氏なんていないよ! わたし一人だもん! 帰りが遅くなっちゃって、ちょっと怖くて電話したんだよ!?」「うっそだあ。聞こえたもん、ぼそぼそってちょっと怒ったっぽい声! もー早く仲直りしなよー? んじゃ、そろそろ寝るね、おやすみぃ!」「ちょっと待って! 本当に…」
プツリ
ツー、ツー、ツー、ツー……
無情にも電話は切れてしまった。
鳴り続ける無通話音。
一度は消えた恐怖感が再び湧き上がる。
いま振り返ったら、あの男が目の前にいるかもしれない。
いまにも触れてしまいそうな距離で。
わたしが気付かなかっただけで、携帯に声が入るぐらい近く、吐息がかかるぐらいの距離で、背中に張り付くみたいに、身じろぎをしたら触れてしまうぐらい近くにいるかもしれない。
どうしよう。どうしよう。あの子の行った言葉に衝撃を受けたからって、どうしてわたしは立ち止まってしまったのだろう。一人で。怖くて。変質者だったら、電話していたら手は出してこないだろうし、もしかしたら諦めてくれるかもしれない。そんな風に考えていたのに、結果はどうだ。聞こえるはずのない声を聞いたという友人の言葉。切られてしまった電話。そして、止まってしまったわたしの足。
背後の足音は消えている。わたしが止まったからなのか、気付かないうちにどこかに行ったのか。歩調があっていたのはたまたまかも。電話している間に別の道に入ったのかも。たまたま。偶然。きっとそうだったんだと自分に言い聞かせるが、どうにも信じられず。随分長いことその場に立ちすくんでいた。
それからしばらくして、携帯にメールがきた。しんと静まり返って自分の鼓動と呼吸の音、電灯のかすかな電気音しか聞こえないような状況だったから、急な着信音に酷くおたついて携帯を取り落としそうになった。
一体誰から。おかしな内容だったらどうしよう。ありえないけれど、知らない人─あの男からのメールだったりしたら…! ビクビクしながら送り主を確認すると、あの子のメールアドレスだったので、少し安心してメールを開く。
──さっきごめんね。何か言いかけてたでしょ? こっちも急に通話切れて、びっくりしちゃった! すぐかけ直しても通話中のツーツーになっちゃって、繋がらないし。メールだったら、電話終わってから見れるからって思って、メールにしたよ! ちゃんと仲直りできた? もう遅いし、返事とかしなくていいからね! おやすみー!
電話が繋がらなかったって、どういうこと。こちらから通話を切ったわけでもないのに、彼女も切れたって言ってる。メールの送信日時は通話が切れてすぐぐらいだったが、わたしのところに届いたのはたった今。これじゃまるで、今の今まで、どこかと電話がつながっていたみたい…。
夏のうだるような蒸し暑い夜だというのに、背筋に冷たい汗が流れた。先程までの現実的な怖さもまだあるが、今度は得体の知れないオカルティックな怖さだ。入るはずのない声に勝手に切れてどこかと繋がってしまう携帯電話。幽霊なんて見たことも無いし信じてはいない。あった出来事自体は普段なら「故障かな?」で済むような事だが、恐怖感と相まってオカルトを信じてしまいそうだ。おかしな挙動をする携帯が気持ち悪い。携帯を放り出したい気持ちになったが、さすがに我慢した。
わたしはずっと立ちすくんでいた疲れもあって、怖い気持ちを振り切って家に帰ることにした。動いたら、何かに触れてしまうのではないかとぞっとしたけれど、何かに触れることなく歩き出せた。
きっと、全部、気のせい。タイミングとか、間が悪かっただけ。電話が切れたのも、メールがすぐこなかったのも、変な声が入ったのも、たまたま重なって起きたからおかしいと思ったけど、一つづつは大したことない。疲れてるから、ちょっとしたことが引っかかってるだけ。
そう思わないと、歩き出すことすらできなかった。
その日が、その男に気付いた最初の日。
その後わたしは、その男──生きてはいない幽霊男につきまとわれることになる。