叙述トリック作例~あるいは、文字で出来た世界の不確実さについて~
自称現役高校生探偵の久流虚は鬱々とした日々から成る学生生活から逃れ、一人薄暗い『探偵部部室』にて、窓から差すほのかな太陽光を頼りにミステリー小説を読んでいた。重度の活字中毒である彼には、その時だけが癒やしに浸かれる唯一の瞬間だった。
ふう、と溜め息をつく虚。そして丁度章の変わり目に突入した文庫本を一旦机に置き、ちらちらと脳裏を過ぎって邪魔され続けていた邪念を見つめる。
何故、この世界はこんな世界なのか。何故、俺はこの世界でこんな存在なのか。別に自分を棚に上げて世界中の人々を貶そうなどというつもりはない。しかし、少なくとも俺を囲っているこの世界は俺に合っていなさすぎる。俺はもっと……。
その時である。カラン、とかすかな音を立て扉が開いたために虚は際限のない思考の垂れ流しを中止した。
入ってきたのは『探偵部』の数少ない部員の一人である真目田キィだった。「キィ」は実際には「鍵」と漢字で書く。いわゆるキラキラネームと呼ばれるものであり、両親の意向を汲むならばそのまま漢字で「鍵」と表記するべきだろう。とはいえ、実際の物を表す名詞としての「鍵」はミステリー小説にはつきもののアイテムであり、混同する危険性が極めて高い。よって便宜上「キィ」と、表音文字である片仮名で表すことにする。
「お疲れさまです~。先輩、今日早かったんですね」
キィはいつものニコニコ顔をしながら、スキップでもし始めそうな軽い足取りで虚の方へと向かい、目の前の椅子に腰掛け向かい合わせになった。
「まあな。今日は会議とかなんかで、担当してる部屋の掃除当番が休みになったんだ。だから先に来てた」
「ここは『探偵部部室』ですからね。部員ならいつでも誰でもオッケーですよ。今日は水曜日だから静かですし」
「そうだな」
水曜日は週の中日であるせいか、他の曜日よりも一時限分授業が少なくなっている。よって『探偵部』に限らず全ての部活動が活発な活動を行う日なのである。ただ、『探偵部』にとってはもう一つ水曜日を好む理由があるのだが、それは後に回す。
「霞南先輩は掃除当番ですか?」
キィはまだ現れないもう一人の部員について尋ねた。虚と同じクラスに在籍している。
「あいつ、今日厳しい先生んとこの掃除当番だからな。まだ当分現れないだろう」
「え、終わりのチャイムが鳴っても終わらせてくれないんですか」
「そうそう。『大切なのは何分やったかじゃなくてどれぐらい綺麗にできたかだ!』つって。一理なくはないけど、所詮学生の無給労働なんだから妥協してくれよとは思うな。ちなみに、音楽の山本って先生の時だからもし当たったら覚悟しとけよ。あの人、女子に厳しいんだ。それも顔が可愛いやつには特に」
真顔で飛ばした冗談にキィは本気で顔を赤くした。
「ちょっと~どういう意味ですかそれぇ」
「どういう意味も、事実を客観的に教えただけだよ」
「もう! ……まあ、いいです。こうして虚先輩と二人っきりになれるのも悪くないですから」
今度は虚の顔が青くなった。
「それ、どういう意味だ」
「内心を主観的に教えただけです~」
口を尖らせるキィから慌てて目を逸らすと、目敏いキィはその視線を追い掛け、さっきまで虚が読んでいた文庫本を発見した。
「ミステリー小説ですか?」
「ん? ああ、これか。そうだよ。『真実は虚無の果てに』ってタイトルだ。聞いたことあるか?」
虚はキィに文庫本の表紙側を見せた。全体に黒と紫を基調とした訳のわからぬ図形が大小いくつも描かれ、中心奥の方に光が輝いているという、いかにもありがちな構図である。
目を細め、じっとその抽象画を見つめるキィだったが、すぐに首を振った。
「うーん……分からないです。作者の名前は何ですか?」
「無迷霊苑だ」
「むっむまい……? 間違いなく初耳です、はい」
「キワモノばっかり書いてるからな。他には『リバーシブルサイド・ホテルの殺人』『夢遊・無有・霧憂』『錯乱の文脈』あたりが比較的人気だな。あくまでも比較的に、だが。いわゆる本格ものの推理小説なんだが、普通のトリックは程々に、叙述トリックってのを好んで使ってるんだ。そればっかりだからあんまり人気が出ないのかもしれないな」
生粋のミステリーオタクである虚はそう早口でまくし立てた。本人的には中立で冷静な視点で語っているつもりだろうが、どうみても明るくない人間に話すには情報密度が濃すぎる。
ただ、キィはそれをふむふむと興味深そうに頷きながら真剣に聞き、びしりと挙手し質問の意を示した。
「すみません、叙述トリックってなんですか」
「ああ、すまん。一応専門用語だもんな。……えーと、そうだな」
虚は目を閉じ、暫く思考の渦に潜り込む。具体的な例を示したいが、実際に出版された小説を題材にするとネタバレとなってしまう。とすると……。
その時、まるで天からの使者かのように、思いがけない考えが虚の脳裏に舞い降りた。
「キィ、お前の性別は何だ?」
文脈のない質問に、はあ、と溜め息をつくキィ。
「またその話ですか~。正真正銘、百二十パーセント、男の中の男です!」
「そう、男だ。初対面の人間に女だと間違えられる確率は軽く九割を越えるが、生物学的には間違いなく男だ」
「それがなんですか? 流石の僕も、怒りますよ」
「まあ、待て。これこそが叙述トリックの説明だ」
「??」
「一から説明しよう。俺はさっきまで、ここ『探偵部部室』に一人で居た。これを小説の始まりの部分だとしよう」
「ふむふむ」
「するとお前がやってきて、俺の向かい側に腰を下ろした。俺たち二人は取り留めのない会話――掃除当番について、そして俺が読んでた小説についてだな――で時間を潰し、今に至る。さて、質問だ。ここまでの流れを文章で描写したとして、『真目田キィ』は男と女、どちらだと読者は判断する可能性が高いだろうか?」
現実世界を小説の描写だと考え、読者はそれをどう読むか? そんな一見意図不明の提案に、キィは目をパチクリさせた。
「え、えと……あ! そりゃ男ですよ! だって僕、制服でズボン履いてますから。顔とか関係なく、男と判断するに決まってますよ」
「それはどうかな? 確かにこうして制服姿のキィと面と向かって見れば男だと断定できるだろう。だが読者はそれを自らの目で直接確認することはできないのが小説だ。俺たちが学校終わりにここに来ていることは間違いなく読み取れる。ならば当然制服を着ているのは言うまでもないことで、キィが女物でなく男物の制服を着ているという描写はまずされないはずだ」
「……? うーん」
「更に言えばさっき俺はキィに、『山本先生は可愛い女に厳しいから気をつけろ』と言ったよな? あれは勿論お前をからかう意図で言ったんだが、女に見える男の子、つまり男の娘であるのだという情報を読者が知らなければ、キィが女であるという錯覚をしてしまうだろう。このように、小説という表現方法が直接情景を描かないことを利用して読者を引っ掛けるトリックこそが叙述トリックってことだ」
少し悩んでいたキィだったが、やがて腑に落ちたように頷いた。
「確かに……。そういえば僕もさっきまで『僕』っていう一人称を使っていなかったし、虚先輩とは敬語で話してたから、口調では判断できませんしね。結果的に、たまたま僕と先輩の間で叙述トリックが成立してたってことですか!」
「あくまでも俺たちが小説として書かれていれば、って話だけどな」
「じゃあその……無迷……でしたっけ? って小説家はそれを多様していたと」
「そうだ。だが無迷の仕掛ける叙述トリックは男女誤認ってレベルじゃないぞ。なんせ、まさに世界が――」
と夢中になって危うくネタバレをしそうになっていたその時だった。再びカラン、という音とともに二人の『女子』高生が入ってきた。虚とキィが座る机の真横に立つ。
「うーす、今日も大変だったー!」
「お疲れ様です、霞南先輩! と……」
キィは探偵部員最後の一人である霞南青藍の後ろに、見慣れない少女が立っていることに一瞬戸惑いの表情を浮かべた。
「あれ、京条じゃないか」
虚はすぐに、その少女が同じクラスの京条実夢であることに気がついた。
なお虚、青藍、実夢は皆二年生であり、キィは一年生である。
どう返せばいいのか迷った実夢は、黙って青藍に目配せした。
頷いた青藍は、どん、と威勢よく両手で机を叩いて言った。
「喜べ、自称探偵! 久方ぶりの本格的な依頼よ」
その言葉を聞くやいなや、虚の目がみるみるうちに輝きを増していった。