ゼロの時間
眩しい日の光で目を覚ましたロレットは、ベッドの脇に誰かがいるのを見た。
「おはようございます」
「……うん」
はっきりしない意識でゼロを見るロレット。どうやら椅子を持ってきて彼が目を覚ますまでずっと待っていたらしい。柱に掛けられた時計を見ると、既に午前10時過ぎだ。
「……ゼロ、お前いつからそこに」
「えっと、私がここにきてすぐに時計の鐘が8回鳴りましたけど」
「馬鹿……」
どうやら2時間もこの場で座って待っていたらしい。ゼロは、せっかく早起きして待っていたのに馬鹿と言われて少し機嫌を損ねたようで、頬を膨らませるとまだ体が動かないロレットをゆさゆさと揺らし始めた。
「外行くんでしょ? 早く起きてください」
手で制止しゼロの揺さぶり攻撃から逃れつつ、床に降り立ったロレットはゼロを見る。
半月前まで、会話もまともにできなかったのに、今ではこうしてゼロからロレットの元にやって来て話すようになったのだ。ロレットは子供の成長速度に感心するとともに、ゼロの顔を見て自分の頬が緩むのを覚えた。
「時間が惜しいから、朝飯は外で食べよう。いいよな?」
「もちろんです」
そう言ってゼロは、部屋を出るロレットのシャツの裾を摘んでついていく。
ロレットが歯を磨いたり服を着ている間、ゼロも自分の部屋で服を着ていたようで、ロレットが準備を終えて玄関に行くと、少し遅れてゼロもやってきた。
頭には紫紺のリボンがつけられており、これはロレットがプレゼントしたものだ。どうやらゼロも気に入ったらしい。
「お前」
そう言ってロレットはその場にしゃがむと、ゼロの着ていたナポレオンコートを脱がせにかかる。
「えっ、なんですかっ、」
突然上着を脱がされそうになったゼロが、小さな悲鳴を上げる。
「コート逆だ」
「……すいません」
しゅんとして素直に脱がされるゼロ。ついでにゼロの髪も手櫛で整えてやり、ロレットは家の扉を開ける。
そうして家を出ると、2人の全身に冷たい冬の大気がまとわりついてくる。ロレットの隣で立つゼロは、くしゅんと控えめなくしゃみをすると、垂れた鼻水をずずっと啜った。
「行こうか」
そうしてロレットはゼロの手を握ると、2人して昼の街へと繰り出していった。
しかし、しばらくしたのち。
川沿いの遊歩道に設けられたベンチに座り、2人ははあと深いため息を吐く。
「……ごめんな、ゼロ」
「ロレットさんのせいじゃないですよ」
あの日移動販売のクルマが出ていた場所に向かったロレットとゼロであるが、既にそこには何もなかった。代わりに別の食べ物を売るクルマが出ていたが、ゼロは今日あのムーン・タルタを食べに来たのだ。代わりにはならないだろう。
「それに私、あなたと一緒ならなんでもおいしいですよ。好き嫌いなんかありませんし」
「……そうか」
年甲斐もなく落ち込んでいたロレットは、ゼロの言葉に励まされると、ゼロの手を取ってベンチから立ち上がる。
「じゃあ、今日は新しいお前の好きな食べ物を探しに行こう。いいな?」
「はい!」
気を取り直して再び歩き出す2人。
平日の昼間ということもあり人の通りは相変わらず多いものの年末よりは道は空いていて、今日はゼロを連れたまま大通りの店を見て回ることもできそうである。とは言っても、ロレットはある程度歩く速度を考えなければ、途端にゼロはついてこられなくなってしまうだろう。
さしあたってはゼロに朝食を与えなくてはならないため、ロレットの目は自然と食べ物屋を探し出した。
店を探すロレットの隣で、ゼロはきょろきょろと首を左右に振る。目が見えない彼女であるが、鼻腔に入る空気の香り、耳に届く周囲の音や、肌に感じる街の雰囲気で、目が見えないなりにあたりの景色を楽しんでいるのかもしれない。
しかし向かいから歩いて来る通行人がゼロの肩に軽く当たったり、大きな音が鳴ったりするたびにゼロが体を震わせロレットの身体にその身を寄せるのを見て、彼は目が見えないというハンデの大きさを改めて痛感した。
「――お、あそこにするか」
しばらく歩いたのち、ロレットは立ち止まる。それに合わせてゼロも立ち止まり、着いた先は一件の小さな飯屋である。昼間は大衆食堂、夜間はバーという店で、ロレットも何度か足を踏み入れたことがある。
食堂と言っても店内は静かで、ゼロでも気兼ねなく食事ができることであろう。それに今は昼前であり、一般人が昼食に来るにはまだ余裕があった。
両開きの扉を開けると、ゼロが入るまで扉を持っておいてやるロレット。中へ入ると若い店員が近寄り、2人を店の奥の窓際の席まで案内する。同時にメニューを置いていき、2人はメニューとのにらめっこをはじめた。
「どんなのがいい? 肉とか野菜とか、味付けとか」
ゼロはすぐに返事を寄越す。まるで最初から決めていたかのようだ。
「ええとですね。希望としましては、お肉ですかね」
「なるほど」
暮らしてきて実感したことだが、ゼロは肉やイモなどが好きで、しかも濃い味付けを好むのだ。そんな趣向では今までのパンや水だけといった質素な食事はさぞ苦痛であり、まるで今まで食べられなかった分今たくさん食べようとしているのではと、ロレットは涙を流したこともある。しかしゼロの身体は依然として細く小さなままなので、今は肉などを多めに食べるくらいがちょうどいいのかもしれない。
が、そんな食生活では高血圧などの心配も出てくるので、野菜や薄味の食事も与えなければならないと、ロレットは今後の献立を頭の中で組み始めた。
「……ロレットさん?」
「ああ、すまない」
急に黙り込んだロレットに、ゼロが声をかける。メニューは見えないのでゼロはロレットに選んでもらうしかないのである。
「肉な。肉肉……。お、牛肉のトマト煮込みなんかはどうだ?」
赤ワイン煮込みもあったが、ゼロにはまだ早いかもしれない。あれはしっかり煮込まないとワインの風味がかなり残ってしまう。子どものゼロにはまだ早いであろう。
「おいしそうですね。ではそれをいただけますか」
「わかった。俺はそんな腹減ってないから、これでいいや」
ロレットが決めたのは鳥の串焼きである。シンプルに塩コショウで味付けしたものだが、それほど空腹ではない今の彼にはちょうどいい。
ロレットは店員を呼ぶと、水2つと鳥の串焼き、牛肉とトマト煮込みを注文する。それから料理が来たのは10分後のことであり、ゼロはその間ロレットと楽しくおしゃべりをしていた。
「皿に分けてやるからちょっと待っててな」
ロレットは小皿を取ると、大皿に入った牛肉を取り、さらにキャベツやニンジンも入れてやる。ゼロの前に持っていくとその手にフォークを握らせてやった。
「いただきます」
ゼロは慎重にフォークで皿の中身を突き刺すと、ふうふうと息を吹きかけながら口の中へと入れる。少し熱かったのかびっくりしたような表情をしたゼロであるがなんとか食べられたようで、ゆっくりと咀嚼し飲み込んだ時には、すっかり気に入ったようで、満面の笑みを浮かべてロレットの方を見ていた。
「いま、お肉溶けましたよ! 野菜もおいしい」
スプーンに持ち替えたゼロはトマトスープを飲んでおり、こちらも美味しいらしい。ゼロの向かいで串焼きをほおばるロレットは、そんな彼女を見てただほほ笑んでいるのであった。
それからしばらくして2人はすっかり皿の中身を平らげており、驚いたことにゼロはひとりで煮込みの大皿を完食していた。普通に大人一人前のはずなのに、どうやらゼロは大食いらしかった。
「お待たせしました」
そんな時。
さあもう少ししたら帰ろうかと話している2人の元に、店員が小さな皿を盆に乗せやってきた。
皿を2人の前に置き、スプーンも置いていく。
「お、おい。これは頼んでいないが」
「サービスです」
ロレットとゼロに明るく笑顔を向けると、店員はバックへと戻っていく。置かれていたのはアイスクリームであり、ゼロは皿を持って冷たいのに驚いたのか、怪しむような顔でアイスとロレットの方を交互に見てくる。
「これ、なんですか?」
「アイスっていうんだが、甘くて冷たいデザート」
「……アイス」
ロレットがスプーンを手渡してやると、ゼロはまたしても慎重にアイスにスプーンを突き立てていく。そうして掬い取ったそれを口に入れると、びっくりしたように目を見開き、スプーンを咥えたまま口を開けようとしない。
「お、おい、どうした」
「ちめたい」
「え?」
「とっても冷たいです。でも雪よりおいしい」
言葉の端々に苦労が滲むゼロであるが、どうやら気に入ったらしい。
「新しい好きな物、出来たな」
「はい!」
ゼロは本当にアイスクリームを気に入ったようで、ロレットは自分の分をひと口だけ食べて残りはゼロにやった。それもゼロはおいしそうに完食し、最後にナプキンで口を拭くと、お腹をポンポンとさすり少し眠たげな表情を浮かべ始めた。
「そろそろ出るか」
「はい」
席を立つと、レジへと移動する。
置かれたベルを鳴らすと奥から店員が顔を出し、会計を始めた。
「デザート、ありがとう」
「いえいえ。また来てくださいね」
お代を払い店を出ると雪が降っていた。傘が必要なほどではなく、地面に着いた途端に溶けて消えてしまいそうな、そんな雪であった。
飯屋を出たところでちょうど昼時となったこの街は、段々と行き交う人の数も増えてきていた。
あれから再び歩き出した2人は、大通りから少し外れた裏通りを並んで歩いており、左右に立ち並ぶ店のショーウインドーを交互に見てロレットは何かを探しているようである。ゼロは大通りとは違った静けさの満ちる街の空気を楽しんでいるようであった。
店の表には様々な看板やチラシが出されており、見ているだけでも楽しい。新作の衣装や化粧品を宣伝する看板や、宝石店のガラスにはシルバーリングの予約開始のチラシが貼られている。
それを見て、ロレットは2月が近いことを思い出した。
「なにか、探してるんですか?」
考え事をしつつ黙って探し物をしているロレットに、ゼロが尋ねてきた。
「ちょっとな。あればいい、くらいに思ってるんだが」
「……?」
はっきりとしない答えに、ゼロは小首を傾げる。
その後も数店の店を見て回り、最後に行きついたのは小さな時計屋だった。
「……ここですか?」
「少し覗いてみよう」
扉を開けるとベルが鳴り、奥に座っていた老人がこちらを見て「いらっしゃい」と声をかける。店の中へ入ると、途端に耳に届くのは秒針が時を刻む音や振り子が揺れる音、決して不快ではない音に包まれた。
「? 時計屋さんですかね」
「そうだ」
手をつないだまま、ロレットは店中の商品を見て回る。奥には大きな壁かけや柱時計があり、小さな時計は店の前側に置かれている。ロレットは小さい時計を中心に見て回り、とあるひとつの時計を見つけ、それを手に取った。
「ゼロ、ここをちょっと触ってみろ」
ロレットはしゃがむと、ゼロの空いている方の手を取って、その指先を時計に触れさせる。
「何時か、わかるか?」
「……えっと、12時……18分……?」
ロレットの仕事は変則的で、夕方から深夜にかけては家にいない。代わりに日中は自由にできるのだが、ロレットのいない夜の間、ゼロはひとりで留守番する必要があり、目が見えない彼女であっても時間がわかれば、色々生活の助けになるだろうとロレットは考えたのである。
家にも鐘が鳴る時計はあるが、あれは1時間ごとにしか鳴らず、分単位で時間を知ることはできない。そこで、文字盤が時刻に合わせて回転するタイプの時計を探しており、それをゼロにプレゼントしようということであった。
「これがあればいつでも何時かわかるだろ? 自分で時間分かった方がいいかと思って」
文字盤の数字を指でなぞって興味深そうにいじるゼロ。どうやら気に入ったようである。
「確かにその方がいいですけど、いいんですか? 高いんじゃ」
ゼロが時計をもって感じたことは、重い、ということである。単純に針で時刻を指すタイプではなく時刻に合わせて内部が可動するものなので、その分部品も多く、精巧にできているため時計自体が重いのだ。
普通の時計よりも高い物であろうし、そこでゼロはこれをもらうことに抵抗を感じてしまったらしい。
「金はあるから、大丈夫だ。遠慮しなくていい」
ロレットはそれなりの給料をもらっているので金銭的な心配は必要ない。あとはゼロの気持ちだけなのである。
「……そうですか?」
ゼロは呟きながら、手に持つ時計をじっと見つめている。何も見えないが、手を通して伝わる振動などを感じているのだろう。
「……じゃあ、いいですか? これ、欲しいです」
「よし」
ゼロは控えめにそう言うと、時計をロレットに差し出してくる。受け取ったロレットはそれをもってレジへと向かい、会計を済ませると時計の入った紙袋を、ゼロへと手渡した。
「ありがとうございます」
紙袋を持って、ロレットと手をつなぐゼロ。
今日は嬉しいことがたくさんあったと、彼女はそんなことを考えていた。
ゼロは大食い。
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