雪の彼女
「旦那様」
その日、2月のインデェラフに吹く風はとても冷たく、二重窓の外ではうねる吹雪によって、一面に植わった木々がすべて氷漬けになっているほどであった。
だから当主であるエルドは、暖炉の火が煌々と燃える暖かな室内で安楽椅子に腰かけ、節くれだった指でゆっくりと本を捲っていたのであり、章が変わりふうと一息ついたのと、扉が叩かれたのは、ほとんど同時のことであった。
「わかった」
短く返すと、安楽椅子から立ち上がり座面に読んでいた本を置く。
壁に掛けられた厚手の上着に手をかけると、扉を開け冷気の満ちる廊下へと一歩出た。
エルド・ハルドミットはこの家の8代目の当主であり、現在42歳である。
癖のついたくすんだブロンドにはよく見れば白髪が混じり、顔や手に刻まれた皺は歳以上に深い。発する声も低く、当主としての威厳を常に纏っているのであった。
けれど、今日のエルドは、内心そわそわしていた。
というのも、長年の悲願であった子供がもうじき産れるということであるから、浮足立つのも仕方のないことなのである。
廊下を歩くエルドは考える。
現在の妻を迎えて既に8年。
何度もそういう行為には及び、そのたびに子供はできなかった。
妻は14歳も年下であり、そうなると原因はエルド自身にあるのではないかと、秘密のうちに医者を呼び調べてもらったこともある。そしてそのたびに原因はわからず、ついに妻も説得して調べてもらったが、やはり原因はわからなかった。
落胆を表には出さないものの妻も不妊を思い詰めていたようで、結婚以後数年間、夫婦間に微妙な空気が流れることも珍しくはなかった。
しかし結婚7年目を迎えた昨年の春、妻が子を孕んだのである。
これにはエルドも妻も大変喜び、名前をどうするか男女両方の案を練ったり、服や玩具など生まれる数か月も前から買いそろえたりと、我が子が生まれるのをいまかいまかと待ちわびていたのである。
「入るぞ」
とある扉の前に立ち止まり、エルドは扉を鳴らす。すぐに中から返事があり、ゆっくりと扉が開けられた。
「……ヴィヴィ」
部屋の最奥、大きなベッドに静かに横たわるエルドの妻、ヴィヴィ。
その視線は下に向けられており、それは腕に抱かれた我が子を愛おしく見つめている。
「女の子です、エルド」
「おお!」
エルドはコートを脱ぐのも忘れて、部屋の中央を突っ切る。産婆や従者がいるのも気にせず、ベッドの脇に立ってヴィヴィの胸元を覗くと、そこには真っ赤な顔をしたしわくちゃの赤ん坊が抱かれていたのであった。
「……ありがとう、ヴィヴィ」
エルドの声は少しだけ震えていた。
それは今までの苦労を思っての嬉しさからではなく、純粋に、視界に映ったこの赤ん坊の顔を見て、ただただこみあげてきた感情によるものであった。
「いいえ」
ヴィヴィはそう言って、抱いていた赤ん坊をエルドの方へと持ち上げた。
「お、おい。どうすれば」
困惑しつつベッド脇の丸椅子に座ったエルドにふっと笑みを漏らし、ヴィヴィは静かな口調で抱き方を伝える。エルドの抱き方はとてもぎこちない物だったが、大きな胸の中ですやすやと眠る赤ん坊の表情はとても安心しているようで、二人を幸福の中へと連れていくのであった。
「ヴィヴィ。この子の名前だが」
自身の胸の中で眠る赤ん坊に顔を向け、エルドは口を開く。
「そうですね。それじゃあ前から決めていたあの名前にしましょうか」
「そうだな」
それは妊娠が分かってから、二人が時間を割いて考えた名前であり、最終的に落ち着いたこの名前は、ヴィヴィが考えたものである。
エルドは、小さく腕を揺らしながら我が子の名前を囁きかける。
ヴィヴィも、細い指をそっと我が子の頬に沿わせ、小さな声で名前を呼ぶのであった。
赤ん坊は名前に反応したのか、うーと微かに声を上げ、身をよじり、またすぐに眠りへと落ちていく。
そうしてゼロ・ハルドミットはこの世に生を受けた。
両親の愛情をその身に受けすくすくと育った彼女であるが、それはいつまでも続くものではなかった。
会場の照明が落とされると、先ほどまでの熱気とは一変、奴隷競売場「ノルン・メメット」は異様な静けさに包まれていた。
「ロレット君、お疲れ」
客席の掃除をしていた男の元に、この競売場の支配人であるゾルマースがやってきた。ゾルマースは支配人という立場にいながら一般の従業員にも気さくに話しかける男で、それほど嫌われるような男ではない。
ロレットは腰を上げ二言三言言葉ゾルマースと言葉を交わすが、ゾルマースはそれで満足したのかさっさと奥へと引っ込んでいく。恐らく彼の楽しみである酒を飲みながらの売り上げ計算が始まるのであろう。
それからも掃除を続け、着替えたのちにロレットが建物から出たのは、午前1時半を少し回った頃であった。
「……雪か」
ノルン・メメットの外では雪がちらついており、道はうっすらと白くなっている。シンとした静けさにロレットは息を飲むと、鞄の中から折りたたみの傘を取り出し、家路を急ぎだす。
ノルン・メメットは大通りから奥に入った場所にあるのでこの時間帯では人やクルマの行き交いは少なく、ぽつぽつと申し訳程度に立ち並ぶ外灯が寂しく道を照らしている。たまに浮浪者がいる場合もあるが、この時期は皆暖かさを求めて駅の方へと移動しているため、今、ロレットが歩くこの道は誰もおらず、まるで今この世界にいるのが自分一人のような、そんな錯覚をロレットに与えるほどだ。
それからもしばらく歩き続け、ようやく家へと到着したロレットは上着から家の鍵を取り出すと、音をたてないようにゆっくりと開錠し、扉を引く。少し前まではこのような気遣いなどしなくとも家へ帰ったところで誰もいなかったのだが、今はそうはいかない。
折り畳みの傘を慎重に畳み、上着をハンガーにかけたところで、パッと、玄関の明かりが灯された。
「……ロレットさん?」
「あ、ああ。ただいま」
廊下の奥から顔をのぞかせたのは、10代の少女で名前はゼロ。胸元に金色の長髪を垂らし、その瞳は眠たげに半開きとなっている。どうやら音を聞きつけて目を覚ましたようだ。
「まだ寝てろ。2時にもなってないぞ」
「……これからご飯ですか?」
「そうだが、」
「じゃあ私も」
そういうと、ゼロは壁に手を這わせながら自室からリビングへと移動する。
ゼロの分の夕食はロレットが仕事へ出かける前に作り置きしてやっていたのだが、どうやらゼロは食事しているロレットの話し相手になりたいということらしい。そしてあわよくばロレットの分をつまみ食いしようということであろう。
「……じゃあ椅子に座って待っててくれ」
「はい」
ロレットは荷物を置くと、動きやすい服に着替えて食事の準備に取り掛かる。ゼロは、その間テーブルを拭いたりして食事ができるのを待っているのであった。
「ロレットさんって、何のお仕事されてるんでしたっけ」
唐突な質問に、思わずロレットは持っていたフォークを取り落としそうになる。
食事が完成し食べ始めたロレット。向かいにはゼロが座るのだが、そこで急にそんな質問をしてきたのだ。
「なんだ急に。俺の仕事は……レストランのウエイターだよ」
本当は奴隷競売場のウエイターだが、そんなことはこの少女に言えるはずもない。なぜならこの少女自身奴隷であり、去年の暮れ、ロレットの仕事先で売り払われそうになっていたところをロレットが購入したのである。
ロレットの気まぐれでこうしてこの家へとやってきた彼女に、本当のことを言えるわけもなかった。
「こんな遅くまでご飯を食べに来る人っているんですか?」
「俺みたいに夜から働くやつが、帰りに寄ってくんだよ」
「ふうん……」
適当に話すロレット。
しかしゼロはそんな話を信じているようで、この社会のことをほとんど知らない彼女には仕方のないことである。
「ほら、これやるよ」
ロレットはポテトをハムで挟み、それをフォークで刺してゼロの口元に持っていく。ゼロは大きく口を開け、パクッと口の中に収めてしまった。
「おいふぃいれす」
もぐもぐと咀嚼しながらゼロが礼を言う。水の入ったコップを指先に当ててやると、ゼロはコップの水をごくごくと飲んで満足げに笑った。
「ちゃんと歯磨いて寝ろよ」
「はい」
ゼロはそういうと椅子からぴょんと飛び降り、壁に手を当てながら洗面所へと向かう。
ゼロは目が見えないが、ロレットの家にやってきてから2週間。家の中であればロレットの補助なしに移動出来るまでになっており、ロレットが家を空けているときでもひとりで何とかしているようである。
相変わらず見ていて危なっかしいところもあるが、初めてこの家に来た時とは比べ物にならないほどゼロはここでの暮らしに順応していた。
「なあゼロ」
食器を洗っている時。
ロレットは洗面所で歯を磨いているゼロに問いかけた。
「今日、どっか行くか?」
「うーん」
ゼロが声を上げ、考え込んでいるようである。しばらくシャカシャカと歯ブラシを動かす音が聞こえたが、口をゆすぐ音が聞こえ、足音が近づいてくる。
「どうしたんですか? 急に」
入口から流しに立つロレットの方を見て、ゼロは不思議そうに聞いてくる。
「いや、なんとなく」
ゼロがこの家に着て2週間の間、外に連れて出たのは一度だけだ。
年末年始の休みの間、後半はずっとゼロは感染症にかかっており外出などできる状態ではなかったのである。ようやくゼロがよくなったころにロレットの休暇も終わってしまい、ゼロはここ半月ほぼ家から出ていないのだ。
それにゼロの下腹部の傷、両目について、一度医者に見せる必要があるかもしれないと考えたのである。
「……あれが、食べたいですかね」
しばらく考えていたゼロが、あれ、と口にするが、それをロレットはすぐに理解した。
それは唯一ゼロと外へと出た時に2人で食べたお菓子であり、あれを食べている時にゼロは初めて笑ったのだ。今でもあのお菓子の味が忘れられないのかもしれなかった。
「じゃあ、それ食べに行くか。俺が起きたら行こう」
「じゃあいっぱい寝とかないとですね。私、もう寝ます」
ゼロは喜びを表すようにその場でジャンプすると、自分に与えられた部屋へと戻っていく。ひとり残されたロレットは、そんな彼女の背中を見て、小さくため息を吐いた。
ゼロはロレットの奴隷であり所有物である。
ロレットと同じような人権はないに等しいし、公的機関にかかる際にも奴隷という身分が色々な障害となる。ゼロが病気になった際、ひとりで病院へ行っても保障は効かず、ロレットが付いていてやる必要がある。結婚も難しいし、学校への入学も厳しい。
奴隷を集めて勉強を教えるところもあるが、そういう場所は体裁を気にして不本意ながらに奴隷を学校に通わせたい所有者が選ぶところで、学費は安いものの学内の治安は悪い。
とてもそんな場所に女の子であるゼロを通わせるわけにはいかない。ましてや彼女は目が見えないのである。
本当に大切にされている奴隷は、そういう学校にはいかされず、自宅で雇われた家庭教師から個別の指導を受けるのだ。
「どうするかな」
現在ゼロは12歳。
一般人の子供であれば小学部高学年である。それなりの教養があっていい年齢であるし、出来ればゼロにも知識を身につける機会を与えたい。
ロレットの中では、既にゼロが成人した後の計画は練られており、その時ゼロは奴隷ではなくなる。そんな時に読み書きも簡単な数学もできないようでは、ゼロの将来は暗いものとなってしまうだろう。
と、そう考えるのは、ロレット自身がそういう経験があるからである。
奴隷ではないものの、ロレットは子供のころ学校にまともに通える環境におらず、苦労してある程度の知識を付けた過去があるのだ。ゼロにはそうなってほしくないと考えるのは当然で、そうなるとロレット自身がゼロに勉強を教えるという方法もあるが、これはロレットの中で即却下された。
「無理だよな……、俺には」
今でさえ教養があるとは言えない男が、他人に教えることなど不可能だ。
ゼロには、専属の家庭教師を手配する必要があるかもしれない。
ロレットの収入を考えると、決して難しい話ではないだろう。
「……あいつに頼むか」
暖炉の炎に当たり、天井を仰ぐロレット。
ぱちぱちと爆ぜる音が、次第にロレットの意識をさらっていく。
そうしてしばらくして、彼の意識は闇の中へと飲まれていった。
冒頭は13年前の出来事。
本編はゼロの病気が完治した数日後から始まります。
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