3日目
男が朝目を覚ましリビングへ行くと、既に少女は起きていて、部屋の隅で三角座りをし足の指を揉んでいる最中であった。
「……おはようございます」
「ああ」
淡白に返答をする男であったが、内心は少し驚いており、それは少女が自分から声をかけてきたからだ。挨拶をした少女はさっと視線を外してしまったが、少しずつ男に慣れてきているようであった。
「朝食にするけど、食べるよな?」
「……はい」
少女の返事を聞くと、男はキッチンへと向かった。
スープを作るために玉ねぎと人参を切っていると、背後からゆっくりとした足音が。男が振り返ると、おぼつかない足取りで壁に手をついた少女が立っていた。
「どうしたんだ?」
「……」
「トイレか?」
「……」
トイレはリビングの隣にあり、初日に既に場所は教えている。何度か自分で行っているところも男は見ていた。
「……いえ、あ、」
そこまで来たところで、男は思い至った。
「……手伝いたい、とか……?」
その言葉に少女は頷き、下を向く。
これは男にも経験があったことだが、他人が働いていて、自分だけ何もしなというのはどうにも居心地が悪い物なのである。それが気の知った相手ならいいが、少女にとって男は見ず知らずの誰かであり、もっと言えば少女は奴隷である。主人である男に変わって仕事をすることが彼女の仕事であり、何もせずただ座っているだけというのは、それなりの精神的苦痛を与えるものであるのだ。
「でもな。目が見えないんじゃ」
「…………」
包丁を持たせるわけにはいかず、火を扱わせるわけにもいかない。仕方がないので、男は少女の片手に空の皿を持たせると、それをテーブルに置くよう命じた。
両手がふさがっていなければどうにかテーブルまで辿り着けるであろうとそうしたのだが、男の予想とは裏腹に少女はカーペットの僅かな段差に躓いて転び、皿は割れなかったもののかなり盛大に吹っ飛んでいった。
「おい、大丈夫か?」
火を消して少女の元に駆け寄る男。
少女は無表情で「すいません」と謝ると、手探りで手放した皿を探し出す。
けれど探している場所はまったく見当違いの場所で、皿は少女の後ろに転がっているのだ。
男は皿を拾いつつ少女の前にしゃがむと、それを手渡す。
それからしばらくして朝食は完成し、2人が食べ終えた頃には午前9時を回った頃であった。
食事の片づけがおわり一息ついたころに、男は少女についてくるよう言い手を取った。
少女は相変わらずの無表情であったが、若干の不安の色が見て取れ、視線を下げてこれからどこに行くのかと考えているようである。
ついた先は廊下の突き当りの部屋で、中には大きなクローゼットや鏡台、姿見などが置かれており、空気は少し埃っぽい。窓際のテーブルの上には小さな箱が2つ、紙袋が1袋置かれており、男はそれを少女に手渡す。
「……?」
「昨日、出たついでにお前の服買って来たんだ。いつまでも俺の服着させるわけにもいかないし」
「……服、ですか……?」
「気に入るかわからないけど」
そもそも少女に今渡された服がどんなものなのか見ることはできない。気に入る以前の問題なのだが、これは男の自己満足でもあるのだ。
家に出入りする者がみすぼらしい恰好というのは、どうにも見過ごせないのである。
「……いいんですか、こんなに。私なんか最初に着ていた布で……」
「あれはもう捨てた」
「……え」
男はそういうが嘘である。
捨ててはいない。しかしそうでも言わなければこの少女は着ようとしないだろう。
「……わかりました」
「よし」
男は紙袋の包装を破ると、中を取り出す。出てきたのはパンツとキャミソールであり、手助けさせながらそれを着させる。次いで箱を開けると、中にはボルドーの刺繍が施されたフリル襟付きの長袖ブラウスだ。
箱にはもう1着入っており、それはグレーのサリバンスカートであり、サスペンダーもついている。裾にはブラウス同様ボルドーのラインが入っていた。
もうひと箱にはショート丈のナポレオンコートで、ティペットとケープがついている。同じ箱にはブラウンのショートブーツとソックスが入っており、すべて着こんだ時には、少女はすっかり見違えるようになっていた。
「こんなに、いいんですか」
スカーとの裾を摘んでみたり、コートのケープをパタパタさせたりして少女は戸惑っているようである。男は「いいんだ」といい、最後にポケットから紫紺のリボンを取り出すと、少女の髪に留める。
少し離れて全体を見る男だが、やはり服から延びる手足が弱々しい。
しかし数日前までボロ布を纏った食事もままならない奴隷だったことを考えると、仕方のないことであった。
「俺は他人からの目を結構気にするんだ。お前が奴隷でも、俺のとこにいる限り人から笑われたりするような外見や言動を許すつもりはない」
「……はい」
少女の反応を見て、男は苦笑する。
言ってみたものの、これは単に少女が可哀想だったという面も大きい。
数日共に過ごすうちに、それなりに情が湧いてきたようであった。
「お前、なにか好きな食べ物はあるのか?」
「? ……いえ、特には」
「ふうん……」
男の反応を聞いて、少女は不安そうに視線を動かす。
焦点の合わないくすんだ瞳がくるくると動くのは、見ていて痛々しい。
「よし、外、行くか」
「……外……?」
「ずっと家の中じゃ気が滅入る。外の空気でも吸ってこよう」
「……わかりました」
そうして2人は適当に準備をし家を出た。
街には雪がちらつき始めていた。
年末ということで、街には人が溢れていた。
男は少女の手を握り、人ごみを掻き分けていく。しかし少女の足取りでは駆け足にならなければ男のペースについて来られないようで、見かねた男は人が比較的少ない川沿いの遊歩道を行くことにした。
「寒いな」
「……はい」
「寒くないか?」
「……いえ」
「……」
「……」
会話が続かず、何を話していいのかわからない男、だがこれは少女も同じであろう。
少し進むと芝生の上に移動販売のクルマが停車しており、男が隣を見ると、少女は匂いでわかるのか、クルマの方を向いてくんくんと鼻を動かしている。
「食うか」
「い、いえ、私は、」
「待ってろ」
男はベンチに少女を座らせると、クルマへと走っていく。追いかけることもできない少女は、大人しくベンチに座って男の帰りを待っているのであった。
しばらくして戻ってきた男が手に持つのは、ムーン・タルタというお菓子である。
アーモンドを練り込んだスポンジ生地の中にレモンクリームが入ったお菓子であり、この国ではクソガキからジジババまで誰もが好きなお菓子である。
「ほら」
「……ありがとうございます」
受け取る少女。中々食べようとしないが、男が食べ始めると少女もおずおずと口を開いた。
「……おいしい」
ぽつりと呟く少女。
それほど大きなお菓子でもないのにじっくり10分ほどかけて平らげた少女は、心なしか楽しげな表情を浮かべている。最初のうちに食べきっていた男は後半ずっと食べている少女を見ていたのであった。
「おや?」
その時。
2人が座っている後ろから誰かが声を上げた。
男が振り返ってみればそこにいたのは男の勤め先ノルン・メメットの支配人であるゾルマースであり、両脇には10歳くらいの女の子と四十歳ほどの女性が。
どうやら家族で街に買い物をしに出てきているらしい。
「……こんにちは、ゾルマースさん」
「奇遇だね。きみも買い物に? ……そちらのお嬢さんは?」
ゾルマースの言葉に、少女はビクッと肩を震わせる。
「あ、ああ、親戚の子でして」
「そうかそうか。私たちは、この子がどうしても欲しいおもちゃがあると言ってね」
「そうですか」
「雪も降ってきて、君もそちらのお嬢さんも、風邪をひかないようにね。あと、来年は8日から仕事だよ。忘れないように」
「……はい」
ゾルマースは、それだけ言うと家族を引き連れて帰って行った。
隣の少女を見ると、膝の上で両手をグーにして下を向いており、一言も発しない。
しばらくすると少女が顔を上げ。
「……すいません。お嬢さんなんて言われてしまって」
と小さな声で謝る。
「い、いや、別にいいんだ」
男は別のことを考えていた。
あの晩、男がこの少女を買っていなければ、少女はノルン・メメットで売り飛ばされていたのだ。他ならぬゾルマースの手によって。
「……寒いな。帰って茶でも飲むか」
「はい」
2人は、きつく手を繋ぎ家路へとついた。
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