九十一、外交という名の剃刀の刃
姉小路家日誌天文二十三年水無月三日(1554年7月4日)の項にこうある。
「姉小路房綱公、大垣城にて平助のみを伴にして斎藤義龍殿と面会、斎藤家との間に無期限の同盟を結び候。この際、斎藤義龍殿、公を試さんと欲するも公、泰然自若として動じず、これを見て斎藤義龍殿は怪しみて試みを止め候」
試さんと欲する、が何を意味するのか、今日では定かではない。
将軍足利義輝に謁した草太は、その帰路、少し道を外れて大垣城に入った。無論、兵は外であり、供回りは平助のみであった。
周囲は全て敵兵で草太の味方は平助のみ、とう状況に全く何の怯えの色も見せない草太に、斎藤義龍は見くびられているのか、それとも豪胆なのかと少しいぶかしんだが、さすがは戦場往来の兵、という氏家卜全の言葉に、そうだなと答えるしかなかった。並みはずれて豪胆なのだ、とこの状況を理解することとした。
型通りの挨拶を終え、無期限の不戦同盟を、という段になって草太が言った。
「実は先般、足利将軍義輝公に謁した際に、土岐家の美濃奪回を手伝うように、と命じられました。しかし、某はそれを拒否いたしました。なぜなら、美濃は斎藤家の手によってうまく治められているためでございます」
土岐家の美濃奪回を、というところでざわめきかけた場も、その続きの拒否したというところで静まった。草太は続けて言った。
「今後も美濃が斎藤家の手によってうまく治められているのであれば、我々も義輝公の要請を拒むことができまする。何卒、ご理解いただきたい」
この発言に斎藤義龍は言った。
「ご理解いただきたい、とは、うまく治められているうちは将軍家の命にさえ逆らってさえ同盟を選ぶ、ということで良いか」
その通りでございます、と草太が言った。実際、尾張織田家の侵入と撃退を繰り返しているが、そういった外患以外に内憂である前当主斎藤道三との確執も聞こえていないではなかったが、それは今は知らないふりをした。手の内は明かさぬものだ。
「良かろう、斎藤家は飛騨姉小路家と事を構えない。国境は、あってなきようなものだが今まで通りとする。また食料その他の交易も勝手たるべし、と。この要件でよいな」
諾、と短く言い、用意した二通の書状を渡した。内容は同じものであることを確認し、斎藤家は斎藤義龍が、姉小路家は草太が、それぞれ署名と花押を入れて一通ずつ持った。
ところで、と斎藤義龍は話題を変えた。
「ここで其方を謀殺せんとしていたとしたら、どうなるかな」
草太はこともなげに言った。
「できるものなら、お試しなさるが良かろうと存じます。平助が守りは、千の兵に守られているに勝ります故」
実際は草太たちは予め服部保長から煙玉を受け取っており、それをところかまわず投げながら逃げと防御に徹する、そして脱出する予定であった。入ってから広間までの道のりも、武者隠しの有無も把握していた。その上で、最近は富田勢源の手ほどきによる小太刀の型も身に着けつつあった草太と平助が後れを取るとは思えなかった。城門も、城の外部からは堅くとも、内部から開けようとすれば容易に開くものであると、草太は知っていた。それ故にこそのこの平常心であり豪胆さであった。
さて豪胆なものか無謀なものか、と斎藤義龍は少し危うく思った。大垣城からは兵を減らしているとはいえ、それでも千近い兵は詰めている。それを事も無げに切り抜けられると言っているのだから。ならば、と合図を出そうとしたその瞬間、すさまじい剣気を受けた。言うまでもない、平助と草太が剣気を抑えずに放ったためである。さすがは斎藤義龍であった。その剣気を感じ、確かに切り抜ける自信があるのだと確信した。合図は止めにして、同盟を結んだだけで帰すことにした。
草太たちが帰った後、斎藤義龍は氏家卜全に言った。
「あの者たちは、何者だったのだ。尋常一通りの人ではあるまい。我らと何が違うのだ」
氏家卜全は答えに窮しながらも、さすがは三年余りで飛騨半国もないところから飛騨、西越中、能登、加賀を領するだけあります、と返すのが精一杯であった。
さて、姉小路家日誌天文二十三年水無月六日(1554年7月7日)の項に、こうある。
「姉小路房綱公、越知山大谷寺にて朝倉義景殿と面談なされ候。公、将軍からの依頼を淡々と述べた後、足利義輝公の軍の通行許可を命ずる書状を披露し、通過許可を求め候処、朝倉義景殿、公方様からの命ならば是非もなしとて許可を出し候。加賀分国、朝倉宗滴殿の死については、いずれよりも話を出さざるに付、遂に何も話さずに終わり候」
ここで二つ、重要なことがある。一つは、将軍家からの軍の通行許可をとってから面会に臨んだ、という点である。最初から軍の通行許可を得るための会見であったと考えるのは、穿ちすぎだろうか。草太には最初から丹後、若狭攻略という命が下ることを見越して居たと考えるのは穿ちすぎだろうか。
更に、当初は分家を作って加賀守護代に据える云々と加賀分国の約束がありながら、それを草太のみならず朝倉義景まで言いださなかったのは、どういうことなのであろうか。確かに朝倉宗滴という柱を失って朝倉家の力が大幅に減少していたことも事実であるが、領土交渉が不調に終わるどころか、言いだしさえもしなかったのはどういうことだったのだろうか。
勿論、朝倉宗滴の死については一武将の死であり、姉小路家のかかわる話ではないから出なかったというのも不思議ではないにせよ、である。平助も怪しんでいるような書き方であったところを見ると、平助の目から見ても確かに怪しかったのであろうと思われる。
姉小路家の加賀統一に関して、収まらないのは朝倉義景であった。聞けば、姉小路家が単独で加賀一向一揆を退治したかのように伝えられているが、実際には兵を出したのは朝倉家もであった。しかし姉小路家は刀一振りという恩賞を貰い、加賀一国の守護である。朝倉家には何もない。確かに、南加賀を攻略中に朝倉宗滴の死があったため撤兵した。そのため、南加賀が一種の空白地帯となった隙に姉小路家がそれを奪った、という事情は分からないでもなかった。しかし、朝倉宗滴という名将を失い、寸土も増えず、恩賞もなかった。これでは収まるものも収まらない。しかも、往路は急ぐためと称して会談せず、復路で会談するという、後回しにされたという感情的なもつれは、確実に朝倉義景の感情を害していた。これが堅いしこりとなって居たことは間違いない事実であった。
領土拡張を目指す考えは、朝倉義景の頭からかなり最初に抜けた。問題は、山田光教寺の場所にあった。加賀からの一向一揆にも鎮圧に手を焼き、一向宗と他の浄土真宗諸派をかみ合わせながら領内の一向一揆が拡大しないよう、飛び火しないよう細心の注意を払って来た朝倉義景は、その一向宗から分派独立した浄土真宗、その総本山の山田光教寺を領内に置くことは絶対に容認できなかった。といって、浄土真宗を領外へ追放するとすれば、政が宗派を攻撃してきたという理由で彼らが一揆をおこし、追放しなければ一向宗は排斥を求めて一向一揆を始めるであろうことは、容易に想像できた。つまり、南加賀を手に入れたところで、それは一揆を誘発する重大な原因の一つでしかない。
朝倉宗滴が生きていれば、この状況を相談することもできただろうし、対応する策も考え付いたかもしれない。だが、朝倉宗滴という柱を失った朝倉義景には、新たな柱はまだなく、そして朝倉義景の力では南加賀の放棄という以外に策は思いつかなかった。
また、朝倉宗滴が生前、朝倉義景に言っていた言葉を思い出していた。それは、決して姉小路房綱という人物を敵に回してはなりませぬ、という言葉であった。どういう意味かと問えば、朝倉宗滴はこう答えた。
「あのものと戦えば、十中十まで殿の負けでございます。国の大きさではございませぬ、たとえ石高が逆であっても、いずれ巻き返されついにはあの者の城に馬をつなぐ破目になるでしょう。その位、人間の器が違いまする」
どうしたら勝てるのか、と問うたところ、
「相対して戦える相手であれば、おそらくどこかに勝機はありましょう。ですが、内政ですらこちらを攻める手とする、相対する以前のところで既に勝敗を決することのできる相手に対しての勝機はかなり薄うございます。もし勝てるとすれば……」
ここで言葉を濁した。その先は朝倉義景が引き取った。
「暗殺、或いは裏切りによる姉小路房綱の死、か」
「御意」
草太は朝倉家との折衝はせめて天台宗の寺で、と考え、越知山大谷寺にて、それもできるだけ後に回したいと考えていたので帰路に、朝倉義景との会談の約束を取り付けさせた。今後も同盟関係を維持するとすれば必然的に会わないわけにはいかなかった。おそらくは南加賀の割譲が話題に上る。これをどうすべきか、草太には割譲しても良いという考えもない訳ではなかったが、既に内政を行っている部分もあり、築城も行っているため、富山城のように簡単に渡すのはためらわれた。出方次第で、という無計画な方法は、得てして良い結果を生まない。一応は割譲する方向ではあるが、その場合には朝倉家そのものではなくその家臣なり一門衆が分家を作るなりという形で、守護代という形で入ってもらう、という条件を付けることというのが、弥次郎兵衛、木下藤吉郎、服部保長をはじめとした諸将の一致した見方であった。守護代であれば変えることも可能であるから、取り戻すこと自体も情勢次第ではいずれ可能になるためであった。
これに加え草太は、まず将軍家からの命令である若狭、丹後の平定、そのための軍の通行許可をもらう必要があった。いざとなれば船でも若狭入りは可能であるが、数千から万単位の兵を運ぶことを考え、その兵糧その他を運ぶことも考えた場合には、それだけで北回り航路が麻痺しかねないと考えていた。そのため、通行許可は何を差し置いてももらう必要があった。そのためであれば、南加賀を渡しても構わない、とまで思っていた。
そして、会談に臨んだ草太であった。草太からはまず軍の通行許可を頼み、将軍足利義輝からの書状を披露することで通行許可についてはすんなりと終わった。その後、しばし沈黙が流れた。そして朝倉義景が足利義輝の機嫌を聞くなど雑談に入り、遂に南加賀の割譲はおろか朝倉宗滴の死についてさえ話題に上らず、会見は終了した。
南加賀の割譲に備えて色々考えていたことが全て肩透かしにあった格好となった草太であったが、朝倉家には領土欲がないのか、これが佐幕か、と奇妙な誤解をしただけであった。




