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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第三章、群雄割拠編
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八十九、宗教改革

 加賀の武力による統一の次第については既に述べた。

 だが、武力による統一が本当に統一として、潜在的な敵対勢力の火を消すという意味での統一になっただろうか。これには甚だ疑問符をつけなければならない。越中、能登も含めて、一向宗という軸での潜在的な敵対勢力がまだ残っていた。苛政による一揆ならまだ仕方がないにしろ、他国の情勢による他国のための戦争という意味での敵対勢力の一掃、という意味では、完全にこれを排除するには宗教改革が必要であると草太は考えていた。



 顕誓が飛騨に来てから、三年が過ぎようとしていた。

 飛騨に来てから毎日のように岡前館前で辻説法をし、瞑想の日々であった。毎日が充実していた。辻説法で僧侶らしい仏事はほとんどなかったにしろ、僧侶としての在り方を据える上では辻説法は毎日新しい発見があり、また民と触れ合うこと自体が刺激的な経験であった。

 しかし、草太のこの三年間の飛躍を見て、こんなに安楽に暮らせているのは草太のおかげであるのに、さして進歩していないという自覚がある顕誓であった。やはり、一人の力では限界があるらしい。その意味では、教団を作って教えを広めた祖父蓮如上人との違いを思い知らされずにはいられなかった。

 その草太から顕誓に手紙が来た。加賀に寺を建てる故、住持として寺を預かってほしいという。顕誓は寺の奥に引っ込むつもりはなかったが、仏事を行うにはやはり小なりと言えども仏寺があった方が何かと都合が良いのは確かであった。それ故、快諾し、越中へいき安養寺越えで加賀へ入り尾山御坊脇にある草太の本陣に着いた。時に天文二十三年卯月十四日(1554年5月15日)のことであった。



 姉小路家日誌天文二十三年卯月十四日(1554年5月15日)の項にこうある。

「飛騨より顕誓殿来着、姉小路房綱公、以て新築なった山田光教寺の住持となすべしと仰せになり、顕誓殿快諾致候。公、また越中、加賀、能登、飛騨の寺院の取りまとめを顕誓殿に依頼なされ候」

 山田光教寺は既に形を整えつつあったとはいえ、宿坊などはまだまだこれからであり、伽藍もそれほどきちんとしたものは作られていないが、それでも寺としての最低限の形は整えてあったと考えられている。そうでなければ顕誓が入るはずはないためである。とはいえ、尾山御坊の陥落から二十日程度であるから、それほど整ったものが完成しているとは考えにくい。以前にあった山田光教寺の施設を修復する形で使ったのかもしれない。

 しかし、この山田光教寺の再建後、小一揆派が分派独立し、政治的には穏健な浄土真宗であり姉小路家の庇護のもと僧兵を持たないという、この時代にしては特異な性格を持つ仏教として成立していったのは事実である。越中一向宗として絶大な権力を誇った勝興寺の縁切り状が残されている。それには次のように書かれている。

「我らは今後一切、民の困窮を原因とせぬ一揆を行う間敷候故、石山本願寺の指示を受け不可申候」

 同様の縁切り状は飛騨、西越中、能登、加賀にあった末寺の全てから出されたと言われており、石山本願寺側の資料によれば、小一揆派による一種のクーデターであったと述べている。

 これは、必要な手であったのかもしれないが、周辺諸国の一向門徒衆、及び武田家を刺激するのに充分なものであった。武田信玄は本願寺顕如の義兄弟に当たるためである。また東越中においては一向宗はその結束を強めるよう御文で指示が出されている。

 これは、英断であったとも言われることがあるが、別の言い方をすれば寺社勢力の政治からの排除を意味するため、政教分離が進んだと言えるのかもしれない。だが、照蓮寺善了や勝興寺五代玄宗、六代顕幸が使僧として仕えており、また後の話になるが朝倉家との戦いにおいては前線の後方基地としての山田光教寺の存在が意味を持っていたなど、政教分離が完成したとはとてもいえな状況であったというのが、今日の一般的な解釈である。

 だが、政教分離に向けて少なくとも一歩前進した、とは言えるのかもしれない。



 山田光教寺に入った顕誓であったが、まだ普請の最中であった。尾山御坊を出る前日の夜、草太との会談の際に草太に依頼されたことを顕誓は反芻していた。飛騨、西越中、能登、加賀の一向宗の寺院を取りまとめ、石山本願寺から独立した宗教勢力としてほしい、ということであった。顕誓は迷った。それは小一揆派が目指したことであり、まつりごとに加担することではないのだろうか、という点であった。

 小一揆派の再興、分派独立。それを意味していた。そしてその頂点として、姉小路家は顕誓を推すということに他ならない。つまりは民の一向一揆を抑えるために顕誓達を使いたいということに他ならなかった。草太は続けていった。

まつりごとが間違っているのであれば、遠慮なく仰っていただきたいし、それでも埒が明かないとなれば一揆というのも分からないでもない。それでも、石山本願寺という組織の中の都合により戦をさせられる、一揆をおこすよう扇動させられるというのは、どう考えてもおかしな話ではござませんか」

 言っていることは、小一揆派が目指していたことと全く違った。小一揆派が目指していたことは、今の石山本願寺の地位を加賀が持つことであった。他人の目にはどう写ろうとも、顕誓は草太の提案に乗ることに決めた。即ち、姉小路家支配地におけるすべての一向宗の寺院を山田光教寺を頂点とする組織として改組し、その上で修業と民衆の善導を旨とすることを求めた。小さな末寺に至るまでこの方針は徹底され、宗教上においても石山本願寺の影響下からの独立という形で、分派独立を目指したのであった。

 天文二十三年皐月二日(1554年6月1日)山田光教寺に照蓮寺善了、瑞泉寺証心、勝興寺玄宗、安国寺瑞円をはじめとした諸寺の住持を集め、今後浄土真宗として石山本願寺の一向宗とは縁を切ること、少なくとも一揆への支援をはじめとする一向宗としての活動をしないことを提案した。すると瑞円が言った。

「そのように卑下なさらずに、こう名乗りましょう。我らはまことの浄土真宗である、と。名乗りは別としても一向宗からは独立した別の一派であると。それ故に我々は遠慮なく真宗を名乗りましょう。……そして、寺に上下はないとはいえ、組織には上下が必要でございます。この山田光教寺を総本山とし、各国に一つずつの本山を置き、その他は本山の指示を受ける末寺である、という形としましょう」

 この発言に賛成したのは勝興寺玄宗であった。

「その通りでございますな。寺に上下がないとはいえ、やはり組織としては上下がなければ成り立ちませぬ。ただし、その指導はあくまで宗教上のもの、教えのものでなければならないという縛りをつけましょう。一揆の扇動などもってのほかにございます」

 この発言を瑞泉寺証心は興味深く聞いたのであった。なにしろ、一揆の扇動に最も過敏に行動していたのは、他ならぬ勝興寺玄宗であったからだ。それを聞くと勝興寺玄宗はこう言った。

「手前、石山の本山に逆らうのが恐ろしくて、あのような扇動を致しました。が、今にして思えば恥ずべきことと考えております」

 軽薄な男だ、と瑞泉寺証心は思った。


 こうして一同は、加賀山田光教寺を総本山とし、各国一寺を本山、他を末寺とする一国一本山制とする浄土真宗を立ち上げたのであった。教えそのもの、講組織など、やっていることは一向宗と同じであったが、その理念は全く異なる。世俗的な利益に積極的に関与することを是としない、というのが基本方針であった。そして一同、縁切り状を石山本願寺に提出し、それとは別に顕誓が一派を立ち上げた挨拶状を送り付けた。


 勿論、これに激怒したのは石山本願寺側であった。一揆を含めた様々な手段で姉小路家を攻撃しようと考えた。実行された策は、少なくとも三つあった。越前で一向一揆をおこしそのまま加賀へなだれ込ませる策、甲斐武田家を動かして飛騨へなだれ込ませる策、そしてもう一つの策があった。この最後の策が最も重要であり、姉小路家を始めいくつかの戦国大名を巻き込んだ混戦を引き起こしたのであるが、それはまたの項に譲るとしよう。


 このうち越前での一向一揆は、すぐさま鎮圧された。朝倉宗滴亡き後とはいえ、さすがにまだその遺訓は色濃く残っており、一向宗の蜂起程度では揺らぎさえしなかった。当然、一向宗の加賀侵攻はなかった。


 甲斐武田家はこの時期、南信濃の制圧に忙しく、漸く小笠原家を下して南信濃の覇権を握りつつあった。それゆえ鰤街道を使っての進軍、短期的な攻略を検討したが、三つ折り屏風の石垣の報告を聞き、さすがは武田信玄である、この道通るべからずと進軍そのものを諦めて別の機会を待つこととした。


 もう一つの策が成立するのは、もうしばらく時がかかった。否、時期を待った。その時になったら話すこととしよう。



 とにかく、草太は各国を悩ませ続けた一向一揆の危険の極めて少ない国であり、かつ、飛騨の鉱山資源及び硝石、西越中及び加賀の米をはじめとした食料、能登を中継とする北回り航路空の運上金、加賀、能登の渤海経由での日明貿易の利益など、非常に暮らしやすく豊かでしかも安全な国を作り上げることに成功したのであった。

 石高も百万石を大きく超えた大国に成長した。


 だが草太の志はこんなところでは終わらないし終われない。日本全土を見渡しても、まだ一割にも届かないのである。唐天竺の果てまでも戦のない世の中を作る、という志は、まだまだ遠いのである。

 周辺には甲斐武田とは外交としてはうまくいっておらず、未だ緊張状態にある。足利将軍家のこともある。まだ見ぬ強敵もたくさんいる。今後がどうなるのか、未だに誰にも分からない。


 この時期は、甲斐武田が南信濃を掌握しつつ甲相駿同盟により後顧の憂いなく飛騨、北信濃を含めた北西への進出を模索し始める時期である。また飛騨の南、美濃斎藤家は斎藤道三が隠居し斎藤義龍が家督を継ぐが、斎藤義龍による斎藤道三の排除から美濃と尾張織田が抗争を激化する時期でもある。更に北条家の拡大期でもあり、中国筋では毛利元就が中国地方に勢力を積極的に拡大しているのもこの時期である。更に九州では島津氏が勢力拡大を始め、東北では伊達家が天文の乱から立ち直りつつある時期でもある。

 時代は混迷を極めていた。


 草太の戦いはまだ終わらない。


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