八十七、朝倉宗滴の死と加賀制圧
尾山御坊の僧兵団が退去した次第については、既に述べた。
その行先は、草太の想定していた越前ではなく、山際を進み手取川を上流に進み鳥越城及び二曲城に入ったと物見の報告が入った。そこにはそれ以前から鈴木重泰率いる一向門徒衆が入っていることが分かっていた。その数は千前後であった上、平野部からかなり離れているため後回しとしていたが、そこに狂信的な僧兵二千が入ったとすれば容易ならざる相手となる可能性が高かった。
ところで、このころの朝倉家の北上作戦についても姉小路家日誌に記述があるので紹介しよう。日付は天文二十三年二十七日(1554年4月26日)の項に纏めて書かれているが、これはまとまった報告がその日になされたとみるべきかもしれない、
「姉小路房綱公、越前朝倉家の朝倉宗滴率いる北上軍について詳しく報告を受け候。朝倉宗滴率いる朝倉隊はまずは大聖寺を焼き討ちにて破却し北上、松山城に集いし一向門徒衆を一日にて破り、更に今江城を平らげ、宇津呂丹波守、宇津呂藤六郎の守りし波佐谷城を破り二人を斬首仕り、若林長門守以下の籠る小松城を攻め候。その間、根切りと称して乱暴狼藉に及び、近隣の住民は手取川を渡って北へと逃げ候。公、大いに怒りて曰く、民を安らげるが我らが役割なり、民に乱暴狼藉に及ぶとは、いかなることぞと。(略)今は同盟関係にあれば、手取川を渡り来る民へ食を給させ候。また人を募りて加賀一鍬衆、鉄砲衆の採用を始め、また望みのままに西越中へ送り候」
朝倉宗滴は、自身の体調について理解していた。おそらくこの戦が最後の戦になる。元々病を押しての出陣であった。寿命が尽きかけている、そう感じたのであった。朝倉宗滴自身、多数の戦をしたが、朝倉家の領土は寸土も越前を出ていない。精々、越前の内部の寺領、荘園を横領した程度であった。それに引き換え姉小路は飛騨の一部から始めて既に飛騨一国、西越中、能登を手にし、北加賀へを手を伸ばそうとしていた。朝倉宗滴に羨望と焦りがなかったとは言わない。今回の戦も根切りをして禍根を取り除きつつ北上し、今は小松城を囲んでいたが、これで南加賀に領土が増えるかと言えば増えないだろう。増えたとしても、住民のほとんどを武力で抑え込んでいるような状況が長く続くはずはない。精々、次の一向一揆までの時間を引き延ばす程度でしかない。だが、越前の防衛という意味であれば、加賀一向宗が動かないことがそれだけで利益である。
それでも、領土が増えない、という意味では全くの無益であった。
「今更だな」
誰に言うともなく言い、小松城主若林長門守の頑強な抵抗、おそらく退路がない窮鼠猫を噛むの類かと思いながら朝倉宗滴は攻め手を緩めなかった。小松城への攻撃を督戦しようとして、ぐらりと視界が歪んだ。
「宗滴様、宗滴様、誰か医者を」
朝倉宗滴は口から大量の血を含んだ吐瀉物を吐き戻しながら倒れた。赤黒い血が陣幕の内側に血だまりを作っていた。
次に朝倉宗滴が目を開けた時には、朝倉宗滴は横向きに寝かされていた。鎧甲冑の類はすべて外され、手足もしびれて動かすのもままならない。従者が一人、付ききりで朝倉宗滴の背を撫でていた。朝倉宗滴が一つ大きくせき込み、またどっと口から赤黒い血を吐いた。口回りを従者がぬれた手拭いでふき取っていた。
「そうか、儂は死ぬのか。行く先はどうせ地獄だな」
回らぬ頭でぼんやりと考えながら、朝倉景紀、朝倉景隆の二人を呼ばせた。
「おそらく、儂は、ここまでだ。後は、任す。朝倉家の、領土が、寸土も、増えなんだは、残念では、あるが、仕方あるまい」
朝倉宗滴は何とかそう言い、朝倉景隆に即座に軍を纏めて帰国するように命じたあと、
「ここで、死ぬのは、天命よ、心残りは、ないがな、あの小僧、姉小路房綱、あれが、行く末が、どうなるか、見れなんだは、残念だ」
そう言い残して、朝倉宗滴は陣没した。
残された朝倉景紀、朝倉景隆の両名は、即座に帰国せよという最後の命令を実行すべく行動を開始した。小松城主若林長門守に軍使を出し、追撃を行わない代わりに朝倉軍は越前に引き上げる、という条件で講和した。そして、帰りは粛々と、来た時の乱暴狼藉が嘘のように粛々と、戻っていった。
朝倉宗滴の死は当初、姉小路家の知る処ではなかったが、突如小松城攻めを中止し越前へと引き返し始めたという報告に服部保長は何となくではあるが朝倉宗滴が重病になったか何かで急に帰国せざるを得ない状況になったと推測していた。若狭に大きな政変があったとも、美濃からの侵攻があったとも、いずれもなかったためであったが、越前へ入った後弔旗を立てた。朝倉宗滴が死去したということであった。
朝倉宗滴の最後の加賀侵攻、これは一向宗を駆逐した一方で、朝倉家が領土を増やさなかったこともあり、加賀南部は政治的に真空状態となった。加賀守護であり実際に北加賀を支配している草太にとっては、見逃すべからざる状況となった。
草太は、ためらいもなく渡辺前綱らに南部への侵攻を指示した。無論、後詰として今までの渡辺前綱の仕事を引き継ぐ形で、滝川一益、小島職鎮、木下藤吉郎を充てた。特に滝川一益には服部保長をつけ、退却した僧兵隊が籠った先である二曲城の攻略も命じた。ただしこれは越中からの部隊が入った後に行うとされていた。
渡辺前綱は、能登北部での攻城戦の演習の成果を存分に発揮し、まずはわざと搦手を開けて正面から和田山城を力攻めにて落とし、そこから逃げ出す一向門徒衆をつける形で小松城に迫った。だが小島職鎮のようにはうまくはいかず、小松城では外曲輪を落としただけで門を閉められてしまった。しかし小松城の外曲輪を落としただけでも大したものであり、じりじりと力押しに内曲輪を締め上げておいて、降伏勧告の使者を出し、姉小路家は根切りをしない、守将以下全員の命を助ける、という条件で開城させることに成功した。
同時期に長沢光国が最南端である大聖寺付近から松山城にかけて、寺島職定が松山城から今江城にかけて、菊池武勝が今江城から小松城にかけて、小松城以北は渡辺前綱がそれぞれ炊き出しを行い、根切りはしない旨の宣言を各地で行わせた。この事実に、最も驚いたのは若林長門守ら小松城を根拠とする地侍である。更に、御屋形様の裁可を受けなければならないが、と言って国人衆として所領安堵という道もあるが、所領を差し出して武将として帷幄に参じることも可能であると伝えられると、元々部屋住みの若林甚八郎が自分でも帷幄に参じることができるかと聞いてきた。
「無論である、ただし御屋形様の裁可が必要だ」
と渡辺前綱が答えた。
姉小路家日誌天文二十三年弥生二十九日(1554年4月30日)の項に、こうある。
「姉小路房綱公、渡辺前綱の働きを賞して(略)、また元一向門徒衆の地侍、長山九郎兵衛、若林長門守、若林雅楽助、若林甚八郎、岸田常徳、岸田新四郎、坪坂新五郎、荒川市介、徳田小次郎、三林善四郎、黒瀬左近、松永丹波守の今までの罪を許し給い、それぞれに地侍としての道と随身の道を選ばせ候。若林長門守、若林雅楽助は自城及び周辺数カ村を安堵され、国人衆となり、余のものは帷幄に参ずることとなれり。また山田光教寺の再建について、詳しき場所等を聞き出し、案内の人員を若林長門守に申し付けたり。縄張り建築は勝興寺玄宗及び長続連に命じ候」
この記述から、かなり早い段階で朝倉宗滴の死を姉小路家が把握し、それに対応して行動していたことが分かる。逆にいえば、姉小路家は朝倉家を警戒していたのか、常に朝倉家の動向に注目していたという事実も浮かび上がる。これは、根切りの前からそうであったのか、根切りを行うようになってからそうするようになったのかは定かではない。
いずれにせよ、一向宗の主だった中核人物の大部分はこの時に姉小路家に帰順しているため、一向一揆の起こる可能性は加賀では大幅に減少したと共に、百姓の持ちたる国であった加賀はここに滅び、姉小路家の、武家の支配する国となったという意味で、大変に大きな意味がある出来事である。
また、山田光教寺の再建を命じているところからすれば、顕誓上人の了解のもと、小一揆の再興を考えていたとする一派もあるが、小一揆の再興までは行き過ぎであるとする一派の方が一般的である。もっとも、この後の歴史では分派という道をとるので、小一揆派がここで再興を意図していたと考えるのも、あながちうがちすぎではないかもしれない。
草太は、未だ尾山御坊前に構えた本陣にいた。ここにいる意味は全くなく、むしろ接収した尾山御坊に入城する方が普通であるが、本陣を動かすという意見には頑として反対していた。これは、尾山御坊の何かを警戒していたわけではなく、単に本陣の方が各種対応が楽だったからに他ならない。本陣は休まらないだろうという意見もあったが、尾山御坊に入って戦勝気分に浸る危険を警戒したためと、現代にいたころは雨が降っていようとベランダに寝かされるのはザラだった為、本陣でもかなり快適であったという事情もあった。
因みに瑞円との面会は果たしており、瑞円が素知らぬ顔をしていたが、対面時挨拶の
「その節は失礼いたしました」
という言葉やその他の端々により、草太が飛騨入りした際に会ったことを覚えているようであった。瑞円がとりあえず尾山御坊の住持代理として尾山御坊を預かることとされた。正式なものは、草太の構想の中では小一揆の分派再興であり、その中心として山田光教寺に顕誓を入れることで一向宗は浄土真宗の一派のまま、俗事に手を出さない穏健な派閥として成立させ取り込む考えであった。
また、地侍である鏑木頼信、窪田経忠の二人は元々城持ちであるため、数カ村の支配を安堵され国人衆として仕えることとなった。といっても、しばらくは混乱が続くため、実際に国人衆としての活動をするのは混乱が収まった後と定められた。
そして、朝倉宗滴の死後手取川を渡らせた渡辺前綱らにより、大聖寺城までの支配は成った。炊き出しなど慰撫に努めている実態を詳しく報告を受けた。
弥生二十七日には小松城も降伏し、弥生二十九日には元一向衆の主だった地侍、長山九郎兵衛、若林長門守、若林雅楽助、若林甚八郎、岸田常徳、岸田新四郎、坪坂新五郎、荒川市介、徳田小次郎、三林善四郎、黒瀬左近、松永丹波守の十二名が渡辺前綱に連れられて送られてきた。このうち国人衆を望むものは若林長門守、若林雅楽助の二名であり、待遇は鏑木頼信、窪田経忠と同じく、混乱が治まれば数カ村の支配を安堵され国人衆として仕えることとなった。残りは全て随身することとなり、一方の武将として、或いは与力として働かされることとなった。




