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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第三章、群雄割拠編
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八十六、朝倉との軋轢の高まりと尾山御坊の降伏次第

 姉小路軍が南に向けて渡辺前綱を送り出した、それと同時期に行われた作戦として、松根城の攻略がある。話は前後するが、尾山御坊を包囲した直後に話を戻したいと思う。

 姉小路家日誌もこの辺りは時系列が混乱しており、同じ日に書かれていることからも、どうも平助は全てを時系列順に並べるよりも一つ一つの事件を書き連ねていく形にしなければ理解が難しいと判断したのかもしれない。非常に簡単に、天文二十三年弥生二十二日(1554年4月21日)の項に南方への派遣が、天文二十三年弥生二十五日(1554年4月24日)の項に非常に簡単に

「鷹巣城主平野神右衛門、帰順し服部保長に仕え候。又富樫氏、帰順し、富樫春貞殿はお伽衆に、嫡男富樫家俊殿、若年とて馬回りに取り立て候」

と書かれているだけである。更に天文二十三年弥生二十七日(1554年4月26日)の項に

「姉小路房綱公、木下藤吉郎隊により松根城が落城し、安養寺越えで物資運搬が可能になったことを喜びなさり、(略)」

と簡単に報告されている。どれだけの兵がどこに配されたのかは分からないが、木下藤吉郎隊を出した直後は草太直轄部隊は馬回り以外には千もいなかったのではないだろうか。それとも記録がないだけで増派が既にされていたのだろうか。特に一鍬衆は数がかなり減っていたのは間違いない。

 ともかく、安養寺越えが物資運搬に使えるようになったのは大きい。西越中から一度能登を経由する場合に比べて距離が四分の一以下になるためである。倶利伽羅峠を使うにしても距離が一割以上短縮される上、倶利伽羅峠よりも安養寺越えの方が街道が整備されている。個人の移動程度であればさほど問題にはならないが、大規模な輸送とあれば街道の整備状況というものも重要な要因である。



 尾山御坊を包囲し、渡辺前綱と長沢光国、寺島職定、菊池武勝を副将として南方に送り出した、その直後に草太は松根城攻略を木下藤吉郎に命じた。この城を抜ければ、越中からの補給がかなり捗ることになるためであった。物見の報告では二百ばかりの兵が詰めているとはいえ、木下藤吉郎に言わせると

「わけもないことですや。水の手が弱い城なんて、水の手を切ってしまえば十日と持ちませんや」

とのことであった。一鍬衆二千と鉄砲隊二百をつけて攻略に向かわせると、果たして五日後に落城の報が入り、いわゆる安養寺越えで西越中から直接物資が運び込まれることとなった。特に重要なのは、兵糧が大量に安養寺越えで加賀に運び込まれたことであり、後にはこれが南方に送られ、随所での炊き出しの原動力となった。ただしそれはこの軍議よりは後であった。


 草太は、自作自演だな、と一人思っていた。加賀から兵糧を奪うように買い入れて、その買い入れた兵糧を今度は炊き出しの形で渡している、ただそれだけなのだ。それなのに、憎まれるのは加賀一向宗であり、ありがたがられるのは姉小路家であった。元をたどれば、どちらも同じ米なのだ。

 考えても仕方がないか。

 草太はそれ以上この問題を考えることを一旦停止して、これまでの整理とこれからのことについて考えることにした。


 まず、これまでのところを整理した。

 尾山御坊は未だ落ちず、一鍬衆四千と鉄砲衆二百が、小島職鎮と平野右衛門尉に率いられて包囲していた。南方には渡辺前綱を主将とする二千が慰撫と接収のために向かっていた。更に木下藤吉郎に一鍬衆二千と鉄砲隊二百をつけて松根城を攻略させた。これは遠からず帰ってくるはずであった。草太の手元には、一鍬衆が負傷兵を含めて数百と鉄砲衆が百、それに馬回り五百と補給隊、医療隊合わせて五百であった。予備隊としてはこれ以上削るのは危険であった。

 それ故、南方に増派するのは、木下藤吉郎隊が帰ってきた後ということであった。

 南方へ派遣した部隊は既に石川郡を抑え終わり、慰撫に努めていたが、南方よりの難民の群れが絶えないという。これは、朝倉軍が根切りを行った結果、一般の農民に至るまで避難してきたためであった。

 報告を聞いて、草太は怒りと悲しみが同時に襲ってくるのと同時に、どこか冷めた目で、さもありなん、という気になった。つまりは、朝倉家にとって加賀は治めるべき土地ではなく、迷惑な隣人でしかない。それ故、迷惑がかからないように一向一揆が起こらないようにする。つまり根切りをする、ということであった。理解できることと感情的に収まりがつくのとは別の問題であった。


 草太は、越中にいる一鍬衆、鉄砲衆の加賀増派を決めた。思えば能登侵攻から一か月以上が経過していた。能登侵攻当時には間に合わなかった越中で編成された一鍬衆、鉄砲衆も、一鍬衆は最初の数隊が、鉄砲衆もいくらかはそろそろ仕上がっているはずであった。更に、国人衆による街道整備と特に勝興寺玄宗には物資輸送方三百を増派するよう命じた。とはいえ、運ぶべき物資を用意するのは、予め用意させていたとはいえ弥次郎兵衛の仕事であった。


 ここまでを草太は頭の中で決めて、軍議を開いた。草太が言った。まだ木下藤吉郎隊も戻ってきていないが、時が惜しい。

「まず、現状では尾山御坊は落ちない。包囲は完全ではあるが、恐ろしく時間がかかる。城外退去を条件に講和をしたいがどうか」

 これに反対したのは、服部保長であった。

「講和は良いですが、全員の命を助けるのは絶対に反対です。外法使い、平野神右衛門によれば杉浦玄任かその手のものだということですが、こ奴らは生かしておけませぬ」

 滝川一益が言った。

「ならば、主だった将の切腹辺りか」

 草太は、切腹、という言葉にピクリと反応しつつも、それ以外に方法がないのも確かであった。

「とにかく早いうちに一度交渉しておきたい。あまり長くなると、彼らと朝倉をかみ合わせられなくなる」

 この草太の構想を聞いて、一同驚いた。確かに僧兵を領外退去にすれば、行く先は南、朝倉領しかない。とはいえ、朝倉は同盟軍であった。このことは、同盟関係にある朝倉氏であれば彼らを処理できるという信頼関係の表れとも、両者を戦わせることにより手の内を見る、可能であれば僧兵隊との戦闘で戦力を多少なりとも減じてもらうという不信感の表れとも思われた。


 沈黙がしばし続いた。沈黙を破ったのは、やはり滝川一益であった。

「いずれにせよ、相手がなぜ籠城しているのか、その目的を知るのは大切ですな」

 なるほど、という顔をして土肥但馬守が言った。

「援軍を待っているなら援軍など来ないと知らしめるのもよいでしょうし、単に寺だからまもっているのであれば、このまま籠城させる以外にはありませぬな」

 だが、草太は別のことを考えていた。

「多分、自分の寺だから守っている。宗門争いで勝たなければ、結局は狂信者の群れとしてどこかで武力蜂起を考えるだろうよ。だから、結局は顕誓殿頼りなのかもしれぬな」


 この軍議の終わりころ、渡辺前綱から手取川まで、即ち石川郡南端までの接収が終わり、ただし難民が南より押し寄せ続けていて対応に苦慮しているとの使い番が到着した。朝倉軍の根切りを怖れて、一般の農民まで土地を捨てて逃げてきているのだという。

 ここに至って草太は決断した。

「すぐに軍使を。降伏勧告をせよ。条件は、僧兵のみ陸路での領外へ退去を許す。以後、(まつりごと軍事いくさごとに口を出さぬ単なる寺としてであれば存続を許す。寺域その他は詳細は別に定める。正使は田中弥左衛門、副使として土肥但馬守が仕れ」

 は、と両名が返事を返した。と、滝川一益が言った。

「和議がならなければ力攻めですか」

「後方から兵が届き次第、力攻めにて落とす。……時に服部保長、煙玉というものが伊賀にはあると聞いたが」

 服部保長が答えた。

「ございますな。ただ煙が出て前が見えなくなる、それだけのものでございますが」

 草太が再び聞いた。

「今から数が作れるか。可能であれば正面を見えなくするほどだ」

 これには服部保長が答えた。

「材料は火縄銃の火薬を流用しますが、今は配下がおりますから、我が配下にもやらせましょう。十人の手で作れば三日かからずに全城を覆う程もできるでしょう。……ときに、なぜそれをご存知ですか」

「なに、何かの書にそのようなものがあると見かけただけだ」

 草太は、子供のころに見た特撮ものだとは言えなかった。



 翌朝、軍使として田中弥左衛門、土肥但馬守が尾山御坊前に立った。流石に、戦国時代であろうとも軍使を攻撃したりはしない。すぐに中に通された。

「して、何用でございますかな」

 挨拶が済むと超勝寺実照が温和な口調で言った。顔も温厚そうな顔であり、なるほど僧という言葉はこういう風貌がよく似合う、と言いそうな人物であった。

「我ら姉小路家は尾山御坊を完全に囲みましてございます。半年が一年でもこのまま囲み続けるのはたやすき事なれど、互いに益無き事なれば、和議を、というのが姉小路房綱様のご意向でございます」

 ふむ、と超勝寺実照が考え込んだ。というよりも、単に押し黙ったという方が近いだろう。すぐ横にいた目つきの鋭い男が、す、と前に出て超勝寺実照の脇をつついた。超勝寺実照はそれを受けて、杉浦玄任、そなたに交渉を任せよう、と言った。おそらくこの光景を服部保長が見たとしたら、超勝寺実照も外法により操り人形にされていたと気が付いただろう。しかし、田中弥左衛門も土肥但馬守も、外法の存在そのものを知らない。精々、杉浦玄任が実権を握っているようにしか見えなかった。

 杉浦玄任は超勝寺実照に言われてから、こう聞いた。

「和議については前向きに話そう。和議の条件はどのようなものか」

 田中弥左衛門は、軍議で草太に言われた条件、僧兵のみ陸路での領外へ退去、以後、(まつりごと軍事いくさごとに口を出さぬ単なる寺としてであれば存続を許す、寺域その他は詳細は別に定めると条件を話した。杉浦玄任は笑いながら言った。

「僧兵のみ陸路で、どこへ退去しろというのだ。朝倉領か。政、軍事に口を出さぬ、というが出したくて出しているわけではない。出さざるを得ないから出しているだけの話だ。民百姓が安心して信心できるなら口など出さぬよ」

 土肥但馬守が口をはさんだ。

「お言葉ですが、富樫氏の政務はどうあれ、姉小路家の政、軍事はそなたら一向宗のそれよりも悪いとは、我らは全く思わぬ。飛騨も西越中も一向宗の門徒は多いが、姉小路家の支配になってからは一向一揆は一度も起こっておりませぬ。出さざるを得ないなどというのは、姉小路家については全くあてはまりませぬ」

「どうだか、と言いたいが、直言居士の土肥但馬守の意見ならば、それはそうかもしれぬな」

 杉浦玄任の言葉に、土肥但馬守は背筋が凍った。土肥但馬守が直言居士と呼ばれたのは十年近く前、まだ氷見衆の一員として神保氏に属していたころのことだ。それを知っている、ということはそれほどの情報収集能力があるということを暗に示していた。


 実は田中弥左衛門と土肥但馬守は出発前、服部保長に呼ばれて言われたことを思い出していた。杉浦玄任と対峙した際に何か異臭がしたら、即座に窓際か外に逃げよ、と。理由は聞くな、知らぬが良い。とも。異臭はまだしなかったが、二人ともの直感が危険を告げていた。即座に会見を打ち切りこの場を離れることを考えていた。

「すぐに答えを出していただきたい。不調に終われば力攻めに攻め落とす、と言われております故」

と田中弥左衛門は席を立ち、土肥但馬守もそれに従って席を立った。


 戻って復命している間、服部保長が二人の話を聞いていて、呆れたように言った。

「外法使いは杉浦玄任、超勝寺実照は単なる絡繰り人形に他なりませぬ。悪いが二人は念のため次の戦では後方で待機してもらう、何をするかわからんのでな」

 服部保長は口にこそしなかったが、大小一揆の真相の一端が見えた気がした。


 翌朝、降伏の使者が来た。僧兵が通行する間は姉小路軍は反撃以外の手を出さないことが絶対条件であった。僧兵団は超勝寺実照を先頭に退出し、残ったのは瑞円を筆頭とした数名の僧侶と鏑木頼信、窪田経忠といった地侍が数名、及び寺男に過ぎなかった。

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