八十四、尾山御坊包囲陣
尾山御坊に集結した一万五千の一向門徒衆と僧兵の群れと草太たちとの壮絶な戦いについては既に述べた。
まさに壮絶としか言えない。残された一万三千体にも上る死体を荼毘に付すだけでも、気の遠くなりそうな作業であった。それでも草太は、全てを荼毘に付させた。勿論、槍の穂や脇差なども金属類は再利用するため回収するのだが、最初の数列はそもそも槍も持っていなかったようであった。正に、人間を接近のための肉の盾としか思っていないようなその所業に、草太は胸が悪くなった。だが、僧兵を中心にした二千名がまだ尾山御坊で籠城の構えを見せていた。とりあえずの手配りとして目につく大手門に小島職鎮、裏門に平野右衛門尉をそれぞれ一鍬衆三千をつけて配し、残りの人員は一人でも生き残っていないかを確認しつつ、金属類の回収などをしつつ、荼毘に付していった。
荼毘に付すのは、別に供養のためだけではない。死体をそのままにしておくと疫病が流行るためであった。
生き残りは、いた。たった三名だけではあったが、楽にする必要のない生き残りが、一万三千名余りのうちたった三名だけであった。農民兵であり重傷ではあったが医療隊がすぐさま手当てをしたため、一命はとりとめそうだということであった。草太はこのことを聞いて非常に喜んだ。もう一人、喜んだのは服部保長であった。確かに助かった命があるという点だけでも喜ぶべきことだが、服部保長はそれとは異なり、なぜあのような挙ができたのか、それを知らなければならなかった。どういう方法であれば自ら死ぬことが分かっている行進を行うことができたのだろうか。信仰が、といったところで信仰心が強すぎる。絶対に何かがある。そう服部保長は考えていた。
話を聞くと、果たして南無阿弥陀仏を全員で唱和しながら香炉の香の匂いが変わったような気がした後、助け出されるまでの記憶がすっぽりと抜けていた。ただ、なんというか答えに抑揚がなく、聞かれたから答えている、というだけの反応に思えた。
「奴らめ、使ってはならない手を使いよって」
服部保長が珍しく怒りを露にしていた。聞けば、催眠の法の一つで彼らの間では忘心香と呼ばれる香だろうと言った。
「人間を、人間ではなくするための、単なる道具にするための法でございます。我らにも確かに伝えられていますから私も使うことはできるでしょう。ただし、材料は特殊ですし与えられる命令も簡単なもの、精々単なる行進程度です。ただし、質問にためらいなく答えていたことからも分かるように、道具になった人間はどこまでも道具でしかありません。元に戻す法は、私にもわかりかねます」
ふら、とそのうちの一人が手に短刀をとり、そして自分の喉をためらいなく刺した。
「残り二人は縛っておけ。……外道が」
服部保長は、その人物が誰かは見当がつかなかったが、元は高野山筋から流れてきた技術だと聞くため、仏教のつながりでこの技術を知るものがいたのだろうと推測した。
残り二人は下っ端の農民兵でしかなく、それ以上の情報を持たなかった。
これは、いまでいう麻薬を使った集団催眠のようなものであろうと言われている。このような法が実際にあったことを示す資料は、いくつかの文書が示している。姉小路家日誌にも「公、人を道具と化す外法に大いに怒り」とそのような法が実際に使われたことを示したと思われる部分がある。
一向門徒衆だけが使ったというわけでもないが、他で使われたことを示したとされるのは尋問などの際の自白剤としてであり、このように大規模に使われたと資料から読み取れるのはこの一回きりである。材料の問題があったからとも、非人道的であったからだとも言われている。ただし、現在では失伝しており、詳細は不明である。もっとも、本当に失伝したという証拠はない。むしろ○×教事件の際にマインドコントロールという言葉が流行ったが、連綿と歴史の裏で息づいているのかもしれない。
余談が過ぎた。本題に戻ろう。
草太は人員点呼の結果を聞いて、被害の大きさに驚いていた。敵方の人的被害も相当大きなものだが、姉小路軍の被害は死者だけで一鍬衆二百数十というものであり、過去最大の被害であった。被害の発生要因を詳しく聞くと、ほとんどが僧兵が土嚢を越えて突撃してきた際に懐に入られた一鍬衆が小太刀で立ち回った折に発生した被害だという。重傷者を含めれば千人近い数が、土嚢を越えた僧兵により失われた。三間槍も距離をとって戦えるうちは有効なものの、距離を容易に詰められる状況であれば問題が発生するとは以前から指摘されていたことであり、また集団戦術をとるということは少なくともある戦局において敵よりも数が多くなければ、接近を許すことになりかねない。だからこその空堀であり土嚢であり逆茂木であった。しかし、倒した人間の死体によって空堀が土嚢が機能しなくなるまで埋められるとは、誰も予想していなかっただろう。
逆に最後の両翼から突入した一鍬衆には被害がほとんどなかった辺り、やはり僧兵が懐に入るという事態そのものが被害の原因であると考えられた。支えきれない可能性をすら、先陣の一鍬衆を指揮していた渡辺前綱は考えていたという。無論、突破されたからといって第二陣として木下藤吉郎率いる一鍬衆千がいたため、即座に草太が危険というわけではなかったが、木下藤吉郎隊も突入すべきかかなり悩んだという。
結果だけ見ると姉小路軍の圧勝に見えた尾山御坊前合戦も、例えばあと数千の僧兵団が投入されていたら、或いは最後の両翼からの突入が遅れていたら、中央を抜かれて大きな被害を受けていた可能性が高い。その結果として尾山御坊の包囲ができなくなれば、それは戦術的には勝利でも全体の戦略として見れば敗北に終わる可能性さえあった。正に薄氷を履むが如き勝利であったのだ。
しかし、尾山御坊に二千という数の僧兵が籠り、籠城戦の構えを見せていた。軍議の場で木下藤吉郎が言った。
「ありゃ、そう簡単には落ちねぇ。結構な構えではないかね。石垣といい、水をたたえた堀に練塀、小高い丘にあって水の手は切れねぇように工夫してある。狭間の準備もしてある気配が匂いやがる上、櫓もしっかりと作っていやがる。……どう落とすかって、それぁ、俄かには無理ってもんだ。兵糧も一万五千なら二月も持たなかっただろうが、二千なら多分年内いっぱいなら持つ。それまで釘付けにされるのなら、たまらねぇやな」
草太はふと気になった別のことを考えていた。
「籠城して、一体どうするつもりなのだ」
「こっちが諦めて帰るか、背後を突く勢力があるかのいずれか、というのが常道でございますな。しかし背後を突く勢力は、朝倉殿が引き受けてくれているはず。無論物見は切らしませんが、そう簡単には行きますまい。となるとやはりこちらが根負けして帰るのを待つ作戦にございましょう。……とはいうものの、常軌を逸した戦にございましたから、なかなか」
と滝川一益が答えた。確かに、将来の展望もなくただ寺を守ってるだけ、という可能性も捨てきれなかった。
「某としては、ですな」服部保長が口を開いた。「あの城にいる主だった将は逃すべきではない。全員斬首すべきと進言いたします。あの外法を使う者たちを生かしてはおけぬのです」
それは落城後の話だ、と滝川一益が言い、
「まずは落城させることを考えましょう。そのあとの処置はその後で」
あの、と末席から声を上げる人物がいた。長沢光国であった。
「先にあの城を落とさなければならないのですか。一揆を鎮めれば良いのではありませんか。誰も協力しなければ、後は力で強奪する以外に寄進を集める方は無いはずです」
「そんなことができるのか。一向宗の講、あれは厄介だ。一般の農民が一夜にして将になり蜂起することも珍しくはない。土豪や庄屋の類でも将としては充分な資格があることになる」
渡辺前綱は、さすがに一時期加賀との国境を守っていただけあって、よく知っていた。だが、長沢光国もやはり一向宗のことをよく知っていた。なぜなら、神保家が再起する際に力を借りたのも、能登畠山だけではなく一向宗にも大きな借りを作った、それ自体を間近で見ていたのだ。知らないわけがなかった。
「その講組織を、そっくり頂いてしまいましょう。それなら、多分誰も文句がない。それで、姉小路家が政と軍事を司る、という形に落とし込めば良いのではありませんか」
「そっくり頂く、と……そういえば山田光教寺は廃寺にされていましたが、あそこは顕誓さまの寺でございましたな」
渡辺前綱が思い出したように言った。草太が決断を下した。
「顕誓殿の寺を再建する。後回しになって久しいから、丁度よかろう。場所は廃寺とされた山田光教寺跡とすべきであるが、他に適当な場所があればそちらへ。いずれにせよ急ぎ顕誓殿に了解を取り付けるのだ。その間に我らは、尾山御坊を包囲しつつ民を慰撫する。何をするのでも民の安寧を一番に考えよ」
物見頭が戻って来て報告した。
「松任城、高尾城、安吉城はほぼ空城と見えたり、との報告がございました。鷹巣城は未だ物見が戻りません」
服部保長が聞いた。
「物見が戻らぬとは、どういうことだ。第二、第三の物見はだしたか」
「は、第二、第三の物見は既に出しました。第三は第二の物見の一町程度後ろをつける形で出しております」
ならばよし、と服部保長が言った。草太は渡辺前綱に与力として長沢光国、寺島職定、菊池武勝をつけ、至急石川郡までを制圧せよと命じ、更にこういった。
「三禁(勿殺、勿奪、勿害)を守れ。根切りなどもってのほかだ。ただ慰撫に努めよ。武装して襲って来るやも知れぬが、三間槍の穂を外して適当にいなしておけ。難しいと思うが、人間、腹が膨れ危害を加えられぬと分かれば、大抵は大人しくなるものだ。では行け」
もう一方の加賀侵攻軍、朝倉宗滴率いる朝倉軍は、そのころ大聖寺を火攻めにて攻め落とし、主だった村で主だった者を根切りにしつつ北上していた。
多くの難民が、北上する朝倉軍に追い立てられるように北へと逃れていた。




