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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第三章、群雄割拠編
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八十二、加賀侵攻

 能登畠山天文二十三年の変の次第については既に述べた。

 その戦訓を取り入れ、一鍬衆にも投槍器を、という声はあったが、加賀侵攻戦では間に合わない。投げた槍のうち使える分は回収し、使えないものは後方に送って再度使えるように屑鉄としてであったり修繕だけで済んだりしたのだが、加賀侵攻までであれば投げる槍を鉄砲衆の分だけ補給するので手一杯であった。小太刀については富田勢源も個人戦を前提として技術を体系化しており、複数人で一人にあたる、或いは複数人同士の戦いでというのは考えていなかったようだ。

 戦訓が得られたからといって、それに簡単に対応できないという好例だろう。


 草太は、加賀への侵攻は能登制圧後収穫までの期間を想定していた。この期間であれば、兵糧を絞った状況で戦うことができる。昨年の秋の収穫の大部分は、田中与兵衛の息のかかった米商人が買い上げているため、加賀一向宗は充分な兵糧を貯蔵できていない可能性が高い。購入総量は予測される加賀一国の収穫の八割に達していた。無論、能登など近隣から売りに来たものも含まれているから、実際には四割程度は加賀国内に残されたと思われるが、そのうちいくらかは正月などで食糧として消費されたし、先の遊佐続光の挙の際に全く兵糧なしということもあるまい。最低限度、最初の二つ程度の村までの分は渡されていたはずだ。

 こう考えていくと、過去の備蓄量にもよるが、それほど多くの兵糧があると考える理由は全くなかった。

 この見方は服部保長もほぼ同様であり、この夏までの出陣、できれば田植え時期の出陣が最も望ましい、と言っていた所以であった。



 姉小路家日誌天文二十三年弥生十六日(1554年4月17日)、七尾城において加賀攻略のための軍議が行われたことが確認されている。

「姉小路房綱公、朝倉家と呼応し加賀を攻略すべしと宣し候。加賀攻略部隊は、能登残置部隊を除き全て能登攻略部隊から賄われ候。一鍬衆八千、鉄砲衆千五百、馬回り五百及び輸送隊、医療隊五百が七尾城から、また末森より合流する形で一鍬衆千五百が加わり、総勢一万二千と決まり候。先陣として滝川一益、木下藤吉郎、渡辺前綱を置き、一鍬衆六千、鉄砲衆千五百を申し付け候。また能登残置部隊と内政を司るものとして後藤帯刀及び城井弥次郎兵衛が、特に輪島の街の発展を特に玉蔵坊英性に申し付けたり」

 ここで興味深いのは、輪島の街という一都市の発展を特に陪臣である玉蔵坊英性に申し付けている点である。草太が軍議にあっても内政を忘れずに行っている、という好例である。もっとも、この発展は日本海での能登半島の先端という地理上の特性を生かしたものであるとともに、特に漆器についての発展を促したという意味で重要である。ただし、現代見ることのできる沈金蒔絵の輪島塗の完成は、早くとも千八百年代を待たなければならない。芸術的美を、ということであれば大正・昭和期の前大峰になるかもしれない。しかし、春慶塗に対抗できる漆器の形式という意味では、輪島塗はこの時期に完成への端緒を見ることができる。

 漆器は、少し話がそれた。

 とにかく、治にして乱を忘れず、乱にして治を忘れず、という草太の性格を如実に表しているといえよう。



 最初が膝枕で一晩眠った、というのがよかったのかもしれない。翌朝謝り他言無用の約束は取り付けたものの、流石に一晩正座をし膝枕し続けたつうの歩き方が正常と同じわけもない。寝不足でもあったため、弥次郎兵衛などはついに手が付いたと思ったらしかった。もっとも、次の間には平助がいたため、手が付いたというのは誤解だとすぐに打ち消されたのだが、少なくとも悪い関係ではないとは常識になった。

 つうと背中をもたれあって書見をしたり、城下のあれこれをつうから聞いたり、と草太の方にもつうにたいして非常に好ましい印象を持っているようであった。


 弥生十五日夜、草太は最近の能登事情の報告書を、つうは通俗的な百合若物語を、背中をもたれあって読みながら過ごしていた。百合若物語自体はなぜか書庫にあり、能登畠山家の誰かが好きだったのかもしれないことを示していた。確かに識字率自体は草太の作った学校で全般に上がってはいるものの、まだ書籍を庶民が買って読む、ということが一般的になるには時間がかかるだろうと思われた。

 そんな折、弥次郎兵衛が草太に使い番をよこした。内容は

「朝倉家より南北より挟撃する体勢が整い候との使い有之候。ただし田植えの時期なれば小勢にならん」

 とあった。即時に明朝の軍議を諸将に触れ、今宵ばかりはつうとの触れ合いもそれで終わりにして、少し考え事をする、白湯を頼む、と言って文机に向かい座りなおした。言うまでもなく翌日の軍議のために頭を切り替えるためであった。時期は丁度田植えの時期直前であり、当初の予定とほとんど変わらなかった。


 翌早朝、軍議を開き、まずは先陣として渡辺前綱を主将とし、滝川一益、木下藤吉郎を副将として、一鍬衆六千、鉄砲衆千五百をつけ急進し津幡城を攻撃するように命令した。今から急進すれば、明日の夕刻には津幡城下に到着できる見込みであった。草太自身はほかの諸将と一鍬衆二千、馬回り五百、輸送隊及び医療隊五百で夕刻前に出発することとした。さすがにまだ残党も出現する可能性があるため、後藤帯刀及び弥次郎兵衛に能登を任せ、一鍬衆を二千を残置部隊としてのこした。もっとも、この二千のうち千は各城の残置部隊として散っている。また途中末森城の一鍬衆千五百とも合流し、ここに込めている兵のうち五百も残置部隊に組み込んだ。

 また、一向門徒衆が安養寺越えで越中を攻撃する可能性があることを使い番を出して内ケ島氏理に伝え、越中に残してきた一鍬衆などの兵の兵権を与えた。安養寺城に詰めさせ、安養寺越えでの敵襲に備えさせた。


 この日の昼前、出陣のために甲冑を身にまとっていると、つうが何か言いたげに出てきた。なんだ、とも言わず、草太は僅かに微笑んで、大丈夫だ、と一言だけ言って軍務を再開した。

 楽な戦などない。どの戦もそう楽ではない。だが、津幡城は城というよりも堅固な屋敷という方が近いと言われる平城であり、渡辺前綱、滝川一益、木下藤吉郎の三人に七千五百の兵をつけて急襲させれば、さほど手間取る城でもないと思われた。

 実際、草太が末森城に分派していた支隊千五百と合流している最中に使い番があり、津幡城が落城したという報告を受けた。


 この裏では、防諜を司る服部保長が姉小路軍の接近を、国境を越えるまで伏せておいた結果でもあった。農繁期の準備のために兵が出払っていた折に姉小路軍が襲い掛かった構図である。結果は火を見るよりも明らかであった。大手門前に兵を集め大手門付近の空堀を土嚢で埋め、掛矢(大型の木槌)で壁を破壊して城内に乱入しただけの話である。多少の軍事訓練を受けている農民と日ごろ専門的な訓練を行っている武士が、一方は城内で戦うには取り回しに難がある槍か脇差、一方は城内での取り回しもよく脇差よりは長い小太刀で戦うのだから、多少の負傷者はでたものの無事に落城させることができた。


 ところで木下藤吉郎は陪臣として随身している増田長盛に兵站のことを任せていた。正確にいえば、兵站のことを実地で覚えさせようとしていた。実務は半分以上木下藤吉郎がやっていたにせよ、増田長盛のやっている仕事は重要であった。最初、武士になれば算盤から離れられると思って武士になった増田長盛が嫌がっていたが、木下藤吉郎がこう諭して真面目に働くようになった。

「いいか、武士は戦って勝つのが仕事の一つだ。正確に言えば、勝って民の安寧を図るのが武士の仕事だ。その勝つためには、食事をしっかりとり、武器の手入れもしなければならない、火縄銃や投槍のように使うたびに補給が必要なものもある。前線に強い兵がいるだけで勝てる、などという変な考え方は捨てることだ。それを支える土台、足腰、そういったものの筆頭として兵站がある。兵站の仕事は専門部隊が作られてはいるが、今回のように急進する場合には補給部隊から離れることがよくある。そういった時の管理は誰がするとおもうのだ。武士ならば算盤は不要、などという不遜な考えは、補給部隊の仕事を軽視する行為だ。以後しないようにな」

 なおも納得しないような顔の増田長盛に、木下藤吉郎は優しく言った。

「のう長盛、民の安寧が我が姉小路家の国是だ。絶対条件といっていい。御屋形様はそのために心を砕いている。ご自分は蕎麦を食べ、民百姓には他国から買い入れてでも米を配るなど、中々出来ない。儂でもせぬだろうよ。だがそれを平然と、当然のごとく行った。他にも、発展させようと頑張れば頑張るほどもうかる仕組みでありながら、できるだけ平等にしようとするのも御屋形様ならではだ。それもこれも、算盤を弾いてやっておる。武士だから算盤が不要、などというのは、間違いだ」

 しかし、と増田長盛は食い下がった。

「滝川一益殿も渡辺前綱殿もしていないではありませんか」

「だから、うちがするんだろうさ。だからうちがつけられたのだろうさ。こうしてお役に立ち、なくてはならぬものと認識されれば、御屋形様の覚えもめでたかろうて」


 津幡城が落城したという報告の使い番が戻ってくるころには、兵站の仕事がひと段落着いたところであった。南方に進出し、尾山御坊を包囲せよ、という。落城後の津幡城に、負傷兵を含め百の残置部隊を残して更に南方に進んだ。すぐに本隊が追いつき、城内の敵兵を含む負傷者らを適切に処置してくれることであろう。



 さて、一方の加賀一向宗である。能登動乱に際して兵を出したこと、その際に姉小路家が介入してきて結局能登全体が姉小路家の支配下になったということから、早晩姉小路家との戦は避けられないと思われ、武器、武将に軍資金を送ってきた。さすがに加賀であるから、兵糧は問題ないだろうと石山本願寺も考えたようである。しかし、その実情はといえば、兵糧は次の収穫までもつかどうか、という辺りであり、姉小路軍が来て籠城となれば秋まで籠ることはできてもそれ以上は難しいだろう、というのが読みであった。

 超勝寺実照は、早期の短期決戦を望んでいた。というのも、朝倉宗滴率いる軍が国境を越えつつある、という。手ごわい相手であった。姉小路軍が接近している以上、兵糧の補充もこれから大幅に増やすのは不可能だろう。思えば昨年の米商人の兵糧の大量買い付け、あれは中国筋と東北筋で大きな需要があるから、と言われて売ったが、それも策に入っていたということであれば、姉小路軍は謀略に長けていると言わざるを得ない。

「どうかなさいましたか」

と声をかけてきたのは、本願寺の坊官、杉浦玄任であった。

「既に陣触れは出してございます。また、昨年兵糧を売り払っただけあって装備は充実しておりますし、僧兵団の士気も高うございます。不安なのは我らにはまだ火縄銃がそれほどないことですが、これも雨を選んで合戦すればよいだけの話にございます」

 衆を頼んでの大雑把な戦、と言われはするが、この杉浦玄任の戦略には定評があった。なによりも越中の国での姉小路軍の戦を間近で見て勝興寺が下ることに決まったからと加賀に来たものであり、姉小路軍のことは加賀一向門徒の中では最もよく知るものの一人であった。


 と、物見の報告が入ってきた。

「姉小路軍が国境を越え接近、津幡城は一日持たずに陥落いたしましてございます」

 超勝寺実照は耳を疑った。兵をそれほど込めておらず堅城とはいえないとはいえ三百ほどは込めていたはずだ。それを、国境を昨夜か今朝越えて、その日のうちに陥落させるとは。

「どのように落城したのだ」

「分かりかねます。ただ、城に姉小路家の藤の丸が高々と掲げられております」

と物見は答えた。

 ふぅ、とため息をついて空を見上げた超勝寺実照は、雨の日を選べぬな、と言った。津幡城から尾山御坊まで三里半、明日には城下に敵兵が来るだろう。だが、天気は生憎の快晴である。


「籠城はどうだ。出来そうか」

 超勝寺実照は試みに聞いてみた。杉浦玄任は首を振った。兵糧が心もとないだけではない。籠城したからといって、救援の当てがないのだ。

「苦しい戦になりそうだな」

 と超勝寺実照は独り言のように言った。


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