七十五、帰路
行く道があれば帰る道がある。
草太たちも、京に、堺にと用を足した後、飛騨の岡前館に戻ることにした。常ならば京から山科へ、そして琵琶湖を右手に見て琵琶湖の西を進むのが常であった。琵琶湖西岸から少し西の山に入ったところに、朽木谷があった。目下、足利将軍家がここに滞在していた。足利将軍家は京に戻るために兵を出すよう要請していたが、興仙僧正からきつく止められた、という経緯があった。それ故に、堺に行っている間に挨拶と献上品目録を細川藤孝に届けさせただけに留め、また国友衆の手紙を言付かっていた故に、今回は観音寺、佐和山を通り長浜にある国友村、そして敦賀へと進む道を選択していた。
こういったお忍びの旅であれば、通常は平助が諸国行脚の武者修行で草太がその弟子、その他はその取り巻きや、場合によっては平助を護衛に雇った町人、貴族という役回りにするのが普通であり、今回も平助の武者修行と草太がその弟子、同じく武者修行の細川藤孝にそれらを護衛に雇った商人の木下藤吉郎と人足という装いで歩いていた。
草太は木下藤吉郎の行動をよく見ていたが、いつの間にか針を仕入れて勝手に針売りをして路銀を稼ぐなど、行商人であると言われなくともこれほど行商人らしい者もいなかった。草太が一度、行商人で生きていくのはどうなのだ、と聞いたところ、既に経験済みだということであった。
「昔はさ、針をこうやって売って歩いて、尾張から駿河までは何度も往復したさね。だがね、やっぱり侍になりたくってね、川並衆に入って傭兵として働いたり、その手並みを見て今川のある武家に奉公に上がったんだが、この面が拙いってんで退転を余儀なくされてさ。仕方なしに川並衆に戻って蜂須賀の兄貴のところでごろごろしてたら、お前は姉小路家に行け、ってこうだよ。最初はさ、適当に働いて帰るつもりだったんだが、面白くってね。なにがって、姉小路家がさ。他とはまるで違う。んでそこから先はご存知の通り。っつうわけで、昔の本業をまたやってるだけだから上手に決まってるさね。なんたって、その当時はしくじれば飢え死にだもの」
ま、今は禄があるから失敗しても良いと思えば気楽でいいさね、と笑いながら木下藤吉郎は人通りがある処に出れば針売りの行商を行っていた。
そうして国友村に着いた。言付かっていた手紙を渡すために国友善兵衛宅に寄ると、珍しいことに国友善兵衛が床の間で待っていた。無論国友善兵衛は草太が何者かを知っており、その日に訪ねることは前もって知らせてあった。が、いつもであれば自らの鉄砲鍛冶が優先で下手をすると数刻近くも待たされるのだが、珍しいこともあったものだ、と草太は思った。しかも、国友善兵衛は一人ではなかった。一人の子供を脇に座らせていた。
草太が入り、床の間を背に座ると、平助が直答を許す、と型通りに言い、会見が始まった。
まずは草太から、言付かっていた手紙を一束、これは国友衆それぞれからそれぞれの親類衆に宛てたものだというので、取りまとめて渡すように言付けた。勿論手紙を持っているのは草太ではなく木下藤吉郎であった。そしてその後、草太は国友衆、特にカラクリ部分を作れる人材をもう少し増員してほしいと頼んだ。まず無理だろうと思っていたが、やはり無理であった。国友善兵衛は草太の頼みに
「うちも人手不足でさ。沖島に頼まれたからってのと、少し分散させた方が何かあったときに良いから、ってのでそちらに二組送ったので、もう少し下を仕込むまではその頼みは聞けねぇ。すまねぇけどな」
そう頭を下げられると、草太も引き下がらざるを得なかった。
それはそれとして、と今度は国友善兵衛が草太に頼みがあるようだった。
「こいつは、隣村の増田仁右衛門長盛というんだが、親が落ちぶれた土豪でな、どうにもこれを侍にしたいらしい。この間草太殿がここに来ると聞いてな、早いが元服だ、それで姉小路房綱殿に頼まれてもらおう、と、こう思ってな。悪いが一つ、頼まれてもらいてぇ」
よろしくお願いいたします、と丁寧に頭を下げた少年は、草太よりもいくつか年下だろうか。前髪を剃った跡が青白いところを見ると、つい最近に元服したということは見て取れた。ふむ、と草太は、なぜ武士になりたいのか聞いてみた。すると困った顔になって増田長盛は言った。
「親が、武士になれ武士になれ、武士になれば算盤もいらぬし米の飯を三度食べられるから、と申しましたので」
なんとも心もとない返事であった。
「志はないのか。男として生まれたからにはこれをなしたい、だとか、武士になったからにはこうしたい、というような希望、理想はないのか」
草太が促すと、増田長盛は少し困り顔で言った。
「算盤はともかくとして、米の飯を日に三度は多いにしても十日に一度くらいは武士以外でも食べられるような世の中にしたいです」
それならば合格だ。民のために、ということが志に入っていれば、まずは合格だ。その上、どうせ人手不足だ、というものもあり、草太が雇おう、と言った。何ができると聞いたところ、さして何も、という。武芸よりもそれ以外の方が向いているように思えたので、文字は読めるか、算盤はどうか、と尋ねたところ、どちらも人並みにはできますとのことであった。弥次郎兵衛か木下藤吉郎の配下にして修業させればモノになるだろう、と思ったが、それ以上に木下藤吉郎が自分の部下に欲しいといった。なぜか、と聞くと
「何となくですがね、こいつは伸びる。そんな気がするものですから、先に青田買いです」
苦笑して草太は、
「では木下藤吉郎、そなたの家来にしろ」
と命じた。草太から見れば陪臣になるが、立派な武士には違いはなかった。木下藤吉郎がいくら禄を出すのかは分からなかったが、とりあえず祝儀と支度金だと言って銀十匁を国友善兵衛に渡した。
なぜか、子供を金で買ったような気分になった。
少し身ぎれいに過ぎたが、増田長盛はとりあえずこの旅の中では細川藤孝の弟子、ということとして、また敦賀から船に乗ろうとしたところ、増田長盛はしり込みした。聞けば、船にに弱く、琵琶湖でも酔うという。
木下藤吉郎が耳打ちした。
「御屋形様も平助様も、船にはめっぽう弱いが、それでも何度も乗っておる。来るときも最初から桶を抱いて乗ったくらいだからな。だが、この程度のことも嫌がるなら、武士なんぞやっていられないから、大人しく村へ帰れ」
「ならば、私も桶をお願いします」
増田長盛は言った。自覚はあるらしかった。
かくして、転落防止のために帆柱に結びつけられ桶を抱いて船酔いをする仲間が、帰路には一人増えたのであった。
ここで、良い機会なので姉小路家が封建制を打破し、中央集権的な制度を敷いたと言われる所以を示したいと思う。ただし、数ある封建制の中では中央集権寄り、という程度でしかないのではあるが。
姉小路家では、一国二制度と呼ばれる特異な制度を使っていた。一般武将である武将衆と国人衆の二つである。
まず武将衆である。直臣、陪臣といういわゆる封建制度はまだ残っている。また、与力という形で直臣の中に命令系統も存在する。部下が与力か陪臣かは、簡単に言えば直臣の部下の禄、つまり給料を払っているのが誰か、という違いである。陪臣の場合にはその陪臣を雇っている直臣又は陪臣が禄を払っているが、直属の直臣又は陪臣から別の命令系統に移されることは滅多にない。勿論あり得るのだが、それは陪臣が了解した場合に与力として貸し与えられるだけである。忙しくて手が足りないからと頼まれる場合もあれば、何らかの経験を積ませる目的で頼み込んで与力に入れてもらう場合もある。
そして、ここが最も特徴的なのだが、通常の戦国大名の場合には、禄は領土で与えられる。つまり、家禄一千石といえば、一千石の収穫量のある土地なり村なりを与えられたのである。その一千石の内で例えば五公五民のような税率で税を受け取る。そして、その広さに割り当てられた兵を出す義務を負う。その義務が重すぎるなら、離反することも謀反を起こすことも当然ありえた。
そう、禄とは給料ではなくあくまで土地の支配権そのものだったのである。当然、その内部での行政権の類も与えられる。例えば司法権の類も与えられ、一揆などが起こった場合には責任を取らなければならない。また、軍役もその土地の人間をやりくりして出さなければならない。
一方で姉小路家では、全てが蔵米、つまり全ての税が一度姉小路家の財布に入り、そこから一千石ならば一千石を支払うことになっていた。
こう説明すると分かりやすいかもしれない。一般的な封建制度では禄の石高は子会社の売上であり、そこから仕入れ費用も必要経費も支払う必要がある。しかし姉小路家の禄高は手取り給料であり、陪臣に払う分を除いて払う必要は全くない。なので、同じ禄高であっても姉小路家の方がはるかに実収入は多かった。単純に言って二倍以上の収入増であり、更に経費の大部分を占める土地の管理費用を払う必要がなくなるのだから、ある意味当然である。通常、他家から受け入れた武将の禄は前の禄高の六割と姉小路家では定められていたが、実際の手取り額は確実に増えていた。
このように、土地と切り離された給料としての禄を概念として一般的に導入したのが、見逃されがちではあるが草太が行った最大の改革の一つに数えられるかもしれない。
因みに、姉小路家直轄として一鍬衆以下の常備兵がいたが、彼らには固定給と合戦に出た場合の危険手当が支給されていた。首を討つこと自体が禁止されていたため、何人倒したかは関係がなく、あくまでも参加した合戦に応じての手当てであったようである。ただし、どのような形で固定給なりが決定されていたのかは今のところ判然としない。今後の研究を待つことにしよう。
大幅な昇給を望むのであれば、軍学校に通って士官となる必要があったが、それはまた後に語る機会があるので、そちらに譲ることとしよう。
また、戦傷や加齢などで常備兵として働けなくなったとしても、農民衆としてどこかの村に帰農させる、などの方法をとるのが一般的であり、いきなり放り出したりはしなかったとされている。この辺りも今のところ判然とせず、これからの研究に期待したいところである。
もう一つの体系は、国人衆である。基本的には降伏した地方豪族が本領安堵をしてもらった場合である場合が多いが、一門衆などで所領を与えられた場合には例外的ではあるが国人衆となっていた。とはいえ、草太の生きている時代にはこの例は一例もない。加増は、分かっているだけでは皆無である。
国人衆は一般的な封建制度そのままの、所領安堵と引き換えに様々な形で物的、人的負担を命じられる立場であり、特に道路、築城については彼らの負担がかなり大であった。ただし、軍事に関することで国人衆が大きな役割を果たしたことは滅多にない。
ただ一家の例外を除いて。
その例外は、もう予想はついているだろうが、内ケ島家である。姉小路の背後を守る、といわれるほどに後方、後詰や要所の抑えをすることが多いが、国人衆でほとんど唯一、一鍬衆や鉄砲隊を独自にも持っており、また姉小路家から与力として預けられた家である。また、例外として武将衆と同じく蔵米であったが、加増があった家でもある。もっとも、その次第については既に一部触れた(続、越中評定)が、大部分は後のことになるので語るのはまたの機会にしよう。
このような一般武将についての特異な制度が、大兵力の集中運用、諸兵科分離運用、集団戦術の有機的連携運用といった近代的軍組織をし、更に常備軍であることによる厳しい訓練が高い練度を要求する軍隊行動を可能にしたのであろう。




