七十二、一宮の合戦と末森城攻略
羽咋川の北岸、海沿いに能登一宮として知られる気多大社がある。ここから羽咋川を渡った南の海岸沿いで起こった姉小路軍と能登畠山軍の衝突が、狭義での一宮の合戦である。広義には、一宮の合戦には前述の一向門徒衆との合戦も含むのではあるが、それぞれに別の合戦として生起していることから、別の合戦としてとらえたい。個人的には、生起した場所から言って前述の一向門徒衆と姉小路軍の戦いを一宮の合戦、狭義での一宮の合戦と呼ばれる、これから述べる能登畠山軍と姉小路軍の衝突を末森城下の合戦と呼びたいところではある。
姉小路家日誌天文二十二年霜月二十三日(1553年12月28日)の項に、こうある。
「姉小路房綱公、末森城を囲みたるを見て、畠山義綱、能登一宮方面より囲みを解くべく攻撃を致候。公曰く、臣下の手綱も取れずかかる騒擾を起こし、民を安んずるもなく我らに責めかかるは不埒なり、とぞ。(略)然るに公、怒りを収めて曰く、かの者も位にあらざれば民の一人也、位にあらばこそ民の害とならん、とぞ。ここに公、能登畠山家を取り潰すことを決し候」
能登畠山軍が羽咋川下流の海岸沿いに陣をとっても未だ軍使を出さないのを見て、草太は交戦意思があるものと見て対応することにした。
といっても能登畠山軍も夜戦を嫌ったものか、払暁まで陣を動かなかった。夜中には小雪がちらついていたが払暁には止み、当初鉄砲の運用には少し厳しい、という報告がなされていたが、それでも雨覆いをかぶせれば運用に問題はないとのことであった。ただし雨覆いは油紙に竹ひごで作られている以上、強風の中では使えないという問題が明らかになった。これはこの冬にも改良の余地があるな、と草太は考えていた。
この払暁に行われたのがいわゆる一宮の合戦である。
能登畠山軍は払暁と共に陣払いをし、前進後古風にも一町半の距離から鏑矢を撃ち、矢合わせを行おうとしたが、矢盾を構えた一鍬衆が最前列に、その陰から滝川一益率いる鉄砲隊千が四隊に分かれて交互射撃を行った。二百五十の鉄砲による間断のない四連の銃撃に能登畠山軍はなすすべもない。何より一町半では矢がほとんど届かないが、中筒であれば射程は約二町であるため問題がない。たちまちのうちに最前列の弓隊が壊滅した。
能登畠山軍の実質的な支配者である温井総貞は最前列の弓隊に大被害が出ていると聞き、すぐに下がらせた。単なる雑兵と違い、弓隊は弓を扱うという訓練を施さなければならないため、簡単に補充がきかないためである。正確な被害は後で点呼をとらなければならないが、五百しかいない弓隊のうち半数以上が或いは手傷を追い、或いは戦死したと聞かされた。本隊だけでこれである。雑兵を突撃させながらも、鉄砲隊に阻まれて接近戦に至るのは難しいかもしれない。だが火縄銃の玉数をどの程度持ってきているのかは分からないが、弾が尽きればただのこん棒と変わらない。雑兵を弾除けに前に出し、弾を消費させある程度接近したところで全軍を突撃させようと考えた。特に期待しているのは氷見衆であった。最も戦意が高い隊である。とはいえ、本来は「手伝い」であるはずの氷見衆が最も戦意が高いというのは、やはりそれはそれで問題ではあるのだが。
一方の滝川一益率いる中筒隊は、各人二発を撃った時点で一旦打ち方を止め、敵の出方を見ていた。また、山もあるため、側面からの奇襲にも備える意味もあり、一鍬衆の槍隊をいつでも前面に出せるよう準備していた。と、敵の弓隊が下がり、変わって足軽隊が突撃してきた。距離は三町ほどで、中筒の射程に入らないところを見ると、弾を消費させるのが目的なのだろうと思われた。にらみ合いが続くかに見えた。
そのころ、草太のもとに物見の報告があった。氷見衆と見られる兵八百、大回りに丘陵地帯を経て側面に入りつつあり、という。槍隊のうち千を平野右衛門尉に任せて分派して備え、後藤帯刀の指揮下にある一鍬衆の槍隊の残り五千を前進させることにした。無論、滝川一益もこれには賛成であり、いつでも正面を交代できるという形をとっていた。既に矢も飛んでこず、矢盾は槍に持ち替えられていた。といっても、矢盾に突き立った矢自体がほんの数本という辺り、矢盾がなくとも被害はほとんどなかっただろう。
温井総貞は鉄砲の音が止んだのをみて、距離があるためか弾が尽きたのか測りかねていた。が、それを知るには雑兵隊を突撃させる以外にはない。五千八百の兵のうち氷見衆八百を除いた五千、そのうち雑兵隊四千を突撃させた。距離が二町を踏み越え、一町になったとき、再び銃撃が始まった。元々の士気が高くない上に銃撃で前列から、銃声の度に百数十の兵が文字通り脱落する。しかも鉄砲は一発撃ってから次を撃つまでには相当の時間がかかるはずであるが、十五も数えぬうちに次の銃声が鳴る。いかなる奇術を使っているのかは分からないが、それが温井総貞の見聞きした事実であった。
すぐに兵を止め、後方に下げたが、僅かな時間に千近い兵が銃弾の餌食となり、温井総貞は畠山義綱に七尾城撤退を進言した。畠山義綱に否も応もない。目の前の惨状を見て、七尾城撤退はある意味当然であった。仕切り直しだ。だが氷見衆に伝令を出すのを思い出したものは、この幕舎には誰もいなかった。ただ撤退戦を行うだけで精一杯であったからだ。
その氷見衆、長沢光国、寺島職定、菊池武勝率いる兵八百は、雑木林を抜けて姉小路軍の側面に出た。鉄砲隊の側面である。好機、とばかりに側面から攻撃を加えようと突撃を開始した。が、その側面から平野右衛門尉率いる槍隊が衝突してきた。後一呼吸遅れていれば、勝負は違ったかもしれない。氷見衆は中筒隊に届いたかもしれない。だが現実は非情であった。最接近した部分では一町を切っていたが、その攻撃は全て槍隊により阻まれた。最右翼の部隊である長沢光国隊三百が百五十まで兵を減らし撤退を決めた時には、既に他の二隊も撤退を開始しており、雑木林に逃げ込んだのは僅か三百に満たない数であった。本隊に合流しようとしたが、本体も七尾城を目指して撤退している最中であったので、合流して七尾城に引くことにした。
かくして一宮の合戦と呼ばれる合戦は、ほぼ一方的な姉小路軍中筒隊による蹂躙と、ほんの少しの槍隊の攻撃で幕を閉じた。姉小路軍の損害はほぼなく、一人が古くぎを踏み抜いたという程度であった。
しかし、草太は考えていた。弓隊が壊滅するところまでは分からないでもない。矢合わせという古風な戦の仕方であるから。矢が届くかどうかという距離で撃つ当たり、腰が引けていると言えなくはないが、そこまでは分からないでもない。しかし、そのあと足軽雑兵を前進させたのはどういうことなのだ。鉄砲隊の威力が分からなかったというのだろうか。草太は、撤退していく能登畠山軍を追わず、戦場に取り残された、動けなくなった兵をあるいは治療し、或いは楽にする命令を出し、平助に言うともなく言った。
「主が愚かならば家臣が苦労する。そして家臣同士の諍いを主が治めることができなければ内紛になる。馬鹿げた戦をしたことよ」
そしてため息をついて続けた。
「とはいえ、その位に誰かが就いていなければならない。愚かなものが血筋だけで位につく。……いや、違うな。位につくのは先に分かっているはずだ。教育が大事だな。次代がいないのであれば、能登畠山家そのものをなくすべきなのだろうな」
時は少し遡る。
軍使として渡辺前綱と木下藤吉郎は、降伏勧告のために土肥但馬守と向かい合っていた。土肥但馬守は言った。
「すぐ目の前でこの城を救援に来ている軍がいて、よくぞ降伏勧告をしに来たなどといえたものよ」
だが渡辺前綱は涼しい顔で言った。
「石垣に卵をぶつけるようなものでございます。こちらが大きな損害を負うことすらないでしょう。それよりも」
ここまで言ったところで、銃声が轟いた。十五まで数えぬうちに次が、その次が、と四声が鳴り、なり終えた後は静かになった。
「今の銃撃で弓隊が黙りましたな。温井総貞殿が賢こいか愚かなればこれで終わりですが、中途半端に賢しければ一度銃声があるかと」
鏑矢の音と銃声だけで渡辺前綱はそう言い放った。何を根拠に、と俄かに遊佐続光、土肥但馬守が色をなしたが、物見櫓からの報告があれば分かること、と渡辺前綱は澄ましていた。
「さて、話を戻します。降伏の条件はそこにおられる遊佐続光殿の出家、そして末森城の明け渡しでございます。土肥殿が望むなら当家への鞍替えを許す、といわれております。返答やいかに」
遊佐続光が、何を、と言いかけた時、再度の鬨の声、そして銃声が今度は八声鳴り、渡辺前綱は、終わりましたな、と言った。木下藤吉郎が言った。
「鉄砲隊がいることを知っていて正面から足軽雑兵をだすとは、そんなに玉数がないとでも思っているのかね」
物見櫓からの急報と見られる近侍からの耳打ちを受けて、それまで胡坐をかいていた土肥但馬守は正座をして姿勢を正した。
「分かり申した。降伏いたします。私も鞍替えさせていただく。遊佐殿、悪いが出家していただく」
な、という遊佐続光に向けて土肥但馬守は言った。
「全ては、渡辺前綱殿の言う通りでござった。違ったのは側面を突かんとした一隊が即座に別の隊に阻まれて撤退したのみ。今、戦場となった一帯の片づけをしている、その最中でございます。無論、今すぐ千五百の一向門徒衆を連れて出撃するとも止めませぬが、我らは降ることに決め申した」
千五百の兵で出撃する。それは自殺行為である。現に四千五百が壊滅するという犠牲を払ってここにきているのだ。
「条件があります。私が出家したとしても、他の一向門徒衆は加賀に帰してやって下され」
「それは無論のことにございます」と渡辺前綱が言い、和議は整った。
姉小路家日誌天文二十二年霜月二十四日(1553年12月29日)の項によれば、こうある。
「姉小路房綱公、落髪した遊佐続光には尾山御坊でよいから戻るように宣し候後、出家した以上は分を守るが良いとぞ言いける。また末森城主土肥但馬守、降伏し随身致し候。一向門徒衆、及び末森城を出たき者は残らず開放し、末森城に残りたき者五百、降兵として受け入れたり。(略)これよりは雪の季節なりとて、抑えのために平野右衛門尉に槍隊千をつけて残し、越中増山城に戻り候」




