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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第三章、群雄割拠編
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七十、能登動乱

 能登動乱、と書いたがこの名称は一般的ではない。一般的には大槻一宮の合戦と呼ばれることが多い能登守護代遊佐続光と能登守護分家の畠山義綱、及びその重臣の温井総貞の戦いと、その後に草太たちが能登守護代として畠山義綱他を追放した能登天文二十三年の変の二つに分けられて説明される。

 だが、各種資料から明らかなように、草太たちは大槻一宮の合戦が起こることは予期しており、その阻止に動いた形跡もない。むしろ煽りこそしないもののその合戦を待って、その混乱を口実として守護代として能登を攻略したと考える方が自然である以上、これらは一連の行動として解釈する必要がある。そのためにこれら一連の軍事行動は能登動乱と呼ばれる一つの行動であるとして近年は解釈されている。

 能登動乱の背景、及び加賀からの一向門徒衆八千が能登半島を北上したところまでは既に述べたとおりである。今回はこの遊佐続光の挙兵の結末から能登動乱全体を見ていこう。


 姉小路家日誌天文二十二年霜月朔日(1553年12月6日)及び天文二十二年霜月二十三日(1553年12月28日)の項に、こうある。

「姉小路房綱公、能登畠山氏が七人衆の不和に付、かねてより心をかけ候処、俄かにその一人遊佐続光、出奔し加賀一向門徒衆八千を引き連れ能登へ入るとの報之有候。(略)かねてより狼藉に及びし遊佐続光率いる一向門徒衆に対し、畠山義綱、温井総貞らは隠居した前当主畠山義続を主将とし兵六千、これに畠山将監の八百、氷見より長沢光国、寺島職定、菊池武勝の兵千五百を合わせ八千三百の兵で七尾城付近、大槻で合戦に及び候。勢いは互角と見え候が、氷見勢の活躍有りて辛勝とぞ聞こえ候。一向門徒衆は六千程、畠山義続を主将とする温井総貞方は六千に少し欠ける数とぞ。然るのち敗走する遊佐続光を追撃に及びたるも対峙するのみなり」

 その他の資料、例えば長家家譜も概ねこれと兵数や推移が一致していることから、姉小路家はこの戦について正確な情報をつかんでいたことが分かる。



 遊佐続光は出奔後、即座に一族の将と共に加賀の尾山御坊に入り、超勝寺実照からかねて依頼し承諾を貰っていた一向門徒衆の借り上げをうけた。しかしその条件はかなり非情なものであった。能登の村々での略奪を認めろ、というものであったためだ。兵糧に不安があるため、どうしてもこの要件は外せない、と超勝寺実照が強硬に主張し、それに遊佐続光が抗えなかった、という事情もある。だが、略奪を許すとなれば進軍速度が落ちかねない。ただでさえ雪が降る季節である。行軍は迅速な方が良い。

 そして、遊佐続光一向門徒衆八千を率いて加賀の国境を越え、能登に入った。能登半島の西岸の村々で略奪をしながら、羽咋郡を北上、羽咋郡北部から土田荘と進み田鶴浜を経て南下し、七尾城に近い大槻に陣を進めた。この動きに、七尾城からは迎撃のために、畠山義続を主将とし兵六千、これに畠山将監の八百、氷見よりの援軍、長沢光国、寺島職定、菊池武勝の兵千五百を合わせ八千三百の兵が出撃した。


 衝突の日の前日は雪であったが、その日は雪も上がり、地面は半分凍り付きながらもぬかるんでいた。いずれからともなく鏑矢が飛び、矢合わせが始まった。一向門徒衆側はやはり弓隊が少ないようであり、矢数は畠山軍の方が多かった。この矢合わせの間もじりじりと間合いが詰められ、やがて乱戦となった。

「いかんな」

 温井総貞は乱戦となった後、じりじりと下がる前線を見て、危機感を募らせていった。兵の損耗がどの程度かは分からない。だが一向門徒衆側が乱戦を優勢に動かしていた。原因は、一つはここを抜ければ七尾城下での略奪をほしいままに出来る、という欲であることは明らかであったが、もう一つは兵の練度そのものが一向門徒衆の方が高い。最前列に僧兵でもいるのかもしれない。また、低い丘の上を一向門徒衆側が先に取ったため、高低差から一向門徒衆側が有利という理由もあった。

 こうした中で、後方に配置していた氷見千五百が側面へ移動し、一向門徒衆を中央右翼から攻撃をかけた。また、畠山将監の兵八百は左翼から攻撃をかけた。鶴翼の形であるが、だが一向門徒衆側もこれに対応する動きを見せ、畠山将監側は壊滅、氷見勢も一進一退の攻防を続けていた。だが、これらに対応するために振り向けた兵のため、前線の圧力が下がり、畠山義続を主将とした正面は下がり止まり、むしろ徐々に前進を開始し始めた。そして前線と氷見勢が遂に合流した辺りからは最早一向門徒衆側は継戦能力を失いつつあり、遊佐続光はいったん後方に逃れて再編成を行うことを決意した。

 といって、遊佐続光もそれなりに戦巧者である。前線の入れ替えの風を装って後退し、少しずつ交代をしながら後退を重ね、二正面になった北東を諦め南へと転進を開始した。そして、追撃を受けながらもじりじりと前線の交代をしならがらの撤退戦を続け、一向門徒衆の練度不足は一向門徒衆の血で購って、昼過ぎに始まった戦は日没に至り終了した。

 遊佐続光は夜のうちに大きく後退したいと考え、また生き残った一向門徒衆の再編成も行わなければならない。南に逃れるとなれば、一向宗の寺を集結地にするべきと考え、羽咋郡光源寺を集結地として遊佐続光以下主だったものは入り、一向門徒衆も徐々に集まり始めてきた。八千の一向門徒衆のうち約二千が失われていた。戦死したか、集結できずに行方不明になっているだけなのかは分からなかった。逆に言えばまだ手元には六千の兵がいる。

 しかし遊佐続光には、畠山義続が自ら出馬したのを見て、打倒したとして戦国大名として立つべきかどうかが分からなくなっていた。あくまで畠山家は主筋である、という観念に縛られているのだ。


 一方の温井総貞である。勝利はしたが、あくまでも辛勝でしかなかった。というよりも、ここを抜かれると七尾の町が略奪をうける。これだけは避けなければならないと考えていた。その目標は達成したため、勝利であった。鬨の声を上げさせ、兵員の確認と再編成を急がせた。

 兵員数は、大きく減っていた。まず本体である前当主畠山義続を主将とし兵六千のうち千が死亡または行方不明、畠山将監は本人も含めて全滅、氷見国人衆は、国元の事情から奮戦せざるを得ない事情があるためであろうが、八百まで数を減らしていた。八千三百の兵が五千八百まで、実に二千五百ほどが失われた計算になる。兵数はほぼ互角であったが、敗走させた後もおそらくはほぼ互角という情勢は変わるまい。追撃をかけざるを得ないが、また苦しい戦いになるだろうと頭を悩ませていた。

 実際に翌日の昼前には追いついたのだが、既に再編成を済ませた約六千の兵を一度に平らげることはためらわれ、兵糧に不安があるだろうと踏んだ温井総貞は対峙するだけで積極的な攻撃は避けた。

 この対峙で最も被害をこうむったのは、言うまでもないことだが羽咋郡の村々、そこに住む住民であった。ほぼ全域にわたり、徴発という名の略奪が行われ、冬を越すための食料さえ奪われる状況であった。しかも、その略奪者たちは、すぐ目と鼻の先にとどまっているのである。



 さて。時は少し遡る。

 姉小路家日誌天文二十二年霜月霜月十日(1553年12月15日)の項にこうある。

「姉小路房綱公、氷見国人衆千五百が七尾城に参集するをを聞し召し、重臣同士の権力争いにて便乗して騒擾するは言語道断とて兵を進め、まずは氷見の朝日山城、阿尾城、森寺城の攻略を指図致候」

 実情はともあれ、遊佐続光の挙兵に呼応する形で姉小路家も軍を起こし、氷見の討伐を行っている辺り、事前に兵に動員をかけ周到な準備を行っていた証拠であろう。



 加賀から一向門徒衆が遊佐続光に率いられて入ったことを受けて、草太たちは兵を集めておいたのは既に述べた。無論、大きな衝突がなければ動かない。そのため、集まった兵は守山城下に留められた。折しも霜月のことである。守山城に無理に入ってはいるものの、やはり寒さは仕方がない。今はまだ城内であるが、野営をしなければならない場合には問題がある。そんなことを考えながら、戦国時代に流されてくる前にはストーブ一つない部屋に布団をかぶって寒さをしのいでいたのを思い出した。やはり、寒さを凌ぐための何らかの策は、特に野営時の策は、近いうちに講ずべきだろう。

 寒いときは、乾布摩擦をする、というのはソウタ爺の教えであった。それなりに時間の取れるときは剣の修業も体が温まるが、さすがにそう頻繁に剣の修業ばかりはできない。


 そんな折、服部保長から報告があった。要点は二つである。一つは一向門徒衆が略奪しながら北上し、土田荘に入った、とのことである。場合によっては北方に進むことも考えられ、激突自体が起こらない可能性もあったが、それならばそれでも問題はない。

 もう一つは、氷見郡の三城は、こぞって兵を集め、最低限度の守備隊を残して千五百の兵力で七尾城に合流せんと兵を発した、との点である。兵を集め、七尾城に向かうところまでは予想通りであった。それを口実にこの三城を平らげて氷見郡をも自領に加えることも、当初の予定通りであった。しかし草太は、氷見の国人衆がこぞって城の守備に最低限を残しただけで全力にちかい兵を出したことに戸惑っていた。

 彼らは姉小路家が氷見を攻撃しないと思っているのだろうか。

 確かに進軍は守山城で止めた。それ以上に兵を進めようとも、降伏勧告などをしようともしなかった。それを氷見を攻撃しないという証拠と考えていたのかもしれない。あるいは、所領の防衛を最低限度まで落としたとしても兵を出さなければならないほどの何かが能登畠山家にあるのか。

 ともかく、まずは守山城下に集まった一鍬衆八千、鉄砲衆千、馬回り五百、後方部隊として小荷駄隊および医療部隊三百を、所定の通り守山城に槍隊二千を残し、氷見郡の三城、朝日山城、阿尾城、森寺城を攻撃させた。霜月十日(12月15日)のことである。


 ここで意外に、というべきか、攻城の経験があったためか、元々小器用な性格のためか、活躍したのは木下藤吉郎であった。まずは朝日山城を攻撃する際に、正門前に兵を集めておいて搦手を攻め、たちまちのうちにこれを落とした。後詰として守山城に残した兵のうち二百を残置部隊として呼び寄せて残し、北上して岬の突端にある阿尾城を攻めた。正門前の主力部隊以外に別動隊として船で裏から攻撃する構えを見せておいて、正門から攻め落とし、これもたちまちのうちに落とした。ここも残置部隊として百を呼び寄せて残して北上し、森寺城を攻めた。今度は水の手が弱いと見るや、即座に谷川周辺に兵を伏せ、水を汲んで戻る兵をつけて門を開けたところを攻撃してこれもたちまちのうちに落とした。やはり残置部隊として三百を入れ、氷見郡の攻略はわずか七日で終了した。姉小路軍の損害は合計で槍隊百程度であり、守備兵合計の四百ほどに比べても圧倒的に少ない。


 勿論、最低限度しか兵がいなかったという事情はあるにしろ、この結果は充分に満足のいくものであった。草太は木下藤吉郎に城攻めの心得を聞いてみることにした。

「簡単な事なのだがね、相手の弱点を突く。例えば水の手。山城なら井戸では足りなくて谷川に汲みに行く場合が多いから、そこを狙う、とかかね。後は敵の城に兵が少ないなら、いくつかの攻め手を見せておいて、本命以外に防御兵を割かせる。とかかね」

「増山城を落とすとしたら、どうだ」と草太が聞くと

「あら、ダメだ。内応を狙うか、囲んで兵糧切れを狙うか、目の前で援軍を撃破して士気を落とすか。落とそうったって簡単には落ちやしないでしょうな。精々、水の手を切る位で」

と木下藤吉郎は返した。やはり、きちんと準備して籠城された場合には、打つ手が限られるようだ。そういう意味では、水越勝重が謀反に近い諫言を行い、降伏し開城したのは僥倖だったのだろうと草太は考えた。

「水の手があるかどうか、わかるのか」草太は聞いたが、

「大抵は山の形で井戸があるかどうかぐらいは分かりますな。それから水脈の太さも。まぁ、井戸掘りやる人間なら大体は分かる程度のもので、小規模な城なら井戸掘りをやっているかどうか、位は大体は見当が付きますな」


 ところで、姉小路家による氷見郡の攻略により七尾城の氷見勢は大いに動揺したものの、戦に勝てば氷見郡を取り戻すか、さもなければ同等の土地を取らせると温井総貞が約していた。それが勇猛果敢な側面攻撃に繋がり、遊佐続光率いる一向門徒衆の敗因につながるのだから、中々興味深いものである。

 欠けた兵は後詰より補充し、決戦の地に近い朝日山城に後詰を除く全軍を入れ、また弥次郎兵衛に氷見郡の内政を取り仕切らせるよう書状を書いたが、ひとまずは街道が使えるかどうかも調べなければならない。雪山を越えてそのまま合戦、など、自殺行為であろう。


 ところで、この朝日山城での待機中に草太は奇妙ともいえる命令を出している。全員にかんじきを二足作らせ、持つように、という。また、縄を集められるだけ集めさせた。無論、雪の積もっている街道を越えるため、そしてその後決戦をするための準備である。

 こうした周到な事前準備が姉小路軍の強さを支えたという分析も根深い。


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