六十八、洛中騒乱
西越中を攻略し、足利将軍家に守護代としてのお墨付きをもらった次第については、既に述べた。
大義名分として飛騨では朝廷の権威を用い、西越中では将軍家の権威を用いるあたり節操がないと言われても仕方がないが、朝廷の権威自体が地に落ち、武家官位と後に呼ばれる領地と全く異なる官位が出てくる時代が目前に迫っており、節操がないと言われるほど無節操というわけでもない。そもそも将軍家と朝廷は、建前としては一致しているものなのだ。飛騨のように、朝廷が任命した姉小路家と幕府が任命した京極家とが争う方が稀なのである。
上洛後、一月ほどは内政に専念をした草太であった。毎日、大庄屋と会い、検地に問題はないか、新しい村人たちはなじめているかといった問題から、水利の裁定、そして開墾のために必要な灌漑についての視察などを精力的にこなしていた。やはり、土地はある程度はあるものの特に人口と灌漑設備が大幅に不足しているという話であった。特に人口のうち男性の人口がひどく少ない。女性は基本的には雑兵などにとられないが、男性は雑兵として使いつぶされるためだ。なので、未婚の女性は数多くおり、祭りなどで野合を行ってはいるものの、やはり人口は先細りになる見込みであった。同様の問題は飛騨でもあったが、これといった解決策は思いつかなかった。
同時に後藤帯刀、渡辺前綱以下武将達は軍を鍛え、特に新たに編成された一鍬衆について、集団戦術を訓練させていた。やはり師岡一羽を手放すのは惜しいことをした、と報告を聞きながら草太は思ったものであった。また、確かに体力のあるものも多かったが、時には武装しての行軍ですら体力が持たない者もおり、そういった者たちを集めて体力作りから始める必要のある者たちも少なからずいた。
常備軍としては滝川一益を中心に銃の扱い方の教育が行われていた。滝川一益は近いうちに新型銃の配備が始まる可能性が高いことを知っていたが、それでもいきわたるのは数年先であるという事情から、中筒の使い方を教えざるを得なかった。短い期間しか使わない技術を教えるというのは、あまり気持ちの良いものでもない。ただ、照準の付け方、引き金の引き方、銃床の当て方など、共通して使える技術も数多くあるため、一概に無駄な教育だとは思わなかったが。
これと並行して学校があり、子供は昼間、大人たちは日没後、読み書き算盤、それに常備軍に属する大人たちは陣形についての教育が行われていた。ただし、教育の内容が教員によっても異なることから、何らかの教本なりが必要だとは考えていたが、さてどのような教本を作ってどういった内容の教育を行うかについては、中々難しい問題であった。とりあえず陣形は横に置き、読み書き算盤だけは共通して教えるように指図をしていた。担当は木下藤吉郎ではあったが、実際に教えているのはその手のものであった。数こそ多いが、隠居や僧侶を雇いなんとかさばいていた。とはいえ、千人近い人間を使って読み書き算盤を教えるのは、木下藤吉郎をして他の仕事ができない程度の分量の仕事になっていた。
現代のように出来ても出来なくてもとりあえず年数がたてば教育終了、というようなことはせず、少なくとも仮名文字と算盤を使っての四則計算まではできるように学ばせたためでもあった。とはいえ、徐々にできないものは減っていくため、仕事は新規に来た人に対しての教育だけで済むようになるはずであった。……新しい領土が増え、新しい領民が増えない限りは。
今後、氷見、そして能登、加賀と支配地域が増えるにつれ、仕事は増える一方であることが予想された。そこで木下藤吉郎は建白書を提出した。
「今後、読み書き算盤は師範を養成し、実際の教育は師範に任せ我々は補助だけにすべき、ということか」
建白書を一読した草太は木下藤吉郎に言った。
「左様でございます。これから先の教育は、陣形について、作戦について、応急処置についてなど、下士官以上の教育に絞るというように、読み書き算盤以上の分野に限るべきであると考えます。今は隠居した庄屋などを動員しておりますが、これから数が増えると追いつかなくなる可能性が高くなりますしどうしても質のばらつきが大きい。そこで、読み書き算盤を習得したものの上級者を募って師範となるべき規範を教え、その者たちをしてある程度質を均等にすべきかと」
あくまで読み書き算盤であれば、そう質のばらつきもないような気もしないではないが、質を均等化するという意味ではやはり導入すべきかもしれなかった。草太の現代での経験からも、教え方という問題は確かにあった。
「分かった。許す。ある程度試行錯誤になると思われるから、最初はいくつかの地域に絞って行うが良い。それから下士官以上の教育、軍学校か、その内容は戦訓を踏まえる必要があるだろう。まずは内容を精査せよ」
服部保長は信濃の情勢を見て、ため息をついていた。予想通り、甲斐武田と越後長尾家は決戦を行わず、出来るだけ決戦を避けようとしていた。ここまでは読み通りであった。
だが、読みよりも村上氏が勢力を落としていた。この報告のままであれば、村上氏が復帰すべき土地を全て甲斐武田家に治められてしまっており、それもかなり確固たる地盤を築いてしまっていた。こうなると越後長尾家が決戦をして村上氏の地歩を奪回する以外に方策はかなり限られている上、そのどれも甲斐武田が許すとは思えなかった。中信濃から鰤街道を通じて西に進めばそこは飛騨である。三つ折り屏風の石垣を持つ砦を作って備えているとはいえ、ほかに道がないとは考えられなかった。後回しになっている他の境界防備も、そろそろ手を付けるべきであった。具体的には、石神城と洞城の二城であった。この二城さえ固めておけば、後は山の中での遭遇戦を行うことになるから、我らの敵うところではないとおもわれた。
もっとも、山の中に入って陣取られても、さして影響もないのが現実であった。
甲斐武田、越後長尾の強みは一人一人の強さであり、それが逆に集団戦術発展の妨げになるのだから、何が幸いするのか分からない。
美濃斎藤は相変わらずである。尾張織田と小競り合いをしながら、お互いに自身の守護を邪魔に思っている当たり、似た者同士なのかもしれないと思っていた。
と、そこに急報が入ってきた。天文二十二年水無月(1553年7月)、三好長慶と足利義輝と細川晴元との連合軍が対立が表面化し、文月(8月)には足利義輝が京都東山の霊山城を落とされ敗北、琵琶湖西岸の近江朽木谷へ逃れた、という。放生津幕府の例もあるため、将軍という大駒は手元に置きたいのが服部保長の本音であった。だがそれには草太の許可がどうしても必要である。服部保長は至急、草太へ面会を願った。
草太は午前中の政務を行い、折よく午後は視察もなく平助を相手に剣術の指南という日であった。せめて一人前には剣術を使えるように、というのが平助の意見であり、護身に傾いていたが平助を相手に剣気に当てられたりせぬよう、そして一本取られぬようにというのが鍛錬であった。一丈四方ほどの、剣道場としては狭い中で、平助の全力の剣気を受けながら八方出の足さばきを練り、時折ふいに襲ってくる平助の剣をあるいは躱し、或いは受ける。ただそれだけなのだが、半刻もしない間に体中から汗が噴き出た。
そこへ服部保長の使いが入ってきた。瞬間、平助の気に当てられ、脇差を抜こうとした処へ、草太が鳩尾に短い突きを放ち、す、と脇差の間合いから離れた。離れた時には既に平助が草太の斜め前に立ち、尚も動くようならば、と剣気を木刀に込めて立っていた。しかし最初の草太の突きで意識を失っており、ふ、と剣気を二人とも抑えて部屋に引き込み、平助が活を入れた。暫くせき込んだ後、使いに来たものは何が起こったのか分からなかったらしい。平助が説明した。
「済まなんだな。剣の稽古の時は剣気を二人とも抑えず、まともに浴びて脇差に手が行ったのを御屋形様が鳩尾を突きこんで動きを止めた。本来なら鳩尾ではなく脇差を抜くべき右手首をこそ撃つべきなのだがな。あるいは殺気があれば喉元か、鳩尾も悪くはないが、最善というわけでもない。後遺症を残さずに動きを止めるなら、悪い手ではないがな。……と、剣は剣で良いとして、何用かな」
「服部保長様の使いで参りました。足利将軍家について話があるとのことでございます」
「わかった、すぐ行くと伝えよ」と草太が言い、木刀をかけて汗をぬぐいにかかっていた。平助も同様であったが、木刀を置いた後に脇差を腰に差した点が異なっていた。
服部保長の部屋に入ると、服部保長は難しい顔をして考え事をしていた。挨拶もそこそこに本題に入った。
「将軍を越中にお迎えすること自体、今までに例がないことでもございませぬし、お迎えした後上洛の大義名分としては申し分ございませぬ。ただ、そうなるとかなり遠方の河内、山城、摂津付近で三好一党と戦わざるを得ず、上洛の力はあれども上洛した後京を押さえ続けるのは難しいかと。そうなれば上洛せずに機をうかがうことになるかと思いますが、それをかの将軍が良しとするかどうか、という問題がございます。近江六角の後援で戦うつもりなのやもしれませぬ」
「あくまで京にこだわると思うか」と草太は尋ねたが、「おそらくは」との返事が返ってきた。
「おそらく、近江六角もまだまだ力があります故、その後ろ盾により京にこだわるでしょう。問題は、六角、細川、三好の力、それぞれを拮抗させて将軍の権威を高めようとしているようですが、あまり成功しておらないという点でございましょう。やはり自前の戦力を持たない将軍家では、中々難しいようにございます」
さてどうしたものか、と草太が考えていると、次の間から声がかかった。興仙僧正が来訪いたしましてございます、とのことであった。通せ、という間もなく興仙は勝手に入ってきて座に加わった。
一別以来じゃの、と興仙は言い、
「今回は急ぎじゃ。話を長々とする余裕はないのじゃ。我が主君、政元公のご遺志でもあるから色々動くが、そうでもなければ放っておくところじゃ。話というのはほかでもない、足利将軍のことじゃ。当面は放っておいてもらいたい」
「何故でございますか」草太は聞いた。
「なに、話すと長いので手短にするとな、騒ぎを広げるな、ということだけだ。今更越中公方を気取って加賀、越前、それに近江を平定し京までなどというのはな、話が広がりすぎる。一歩一歩地歩を固めながらならまだ良いが、政治的な利を以て味方を増やそうなどというのは、騒ぎが広がるばかりで良いことなどないわ。じゃからな、いまさら将軍家を越中に、などとは思ってくれるな」
この意見に、草太も納得したため、結局は多少の物的援助以外はしない方針とするのを仮に決定した。本当に決定するのは評定を待たねばならないが、覆ることもないだろう。
「では、儂はもう行く。まだ行くべきところが何か所かあるのでな」
と、慌ただしく興仙は又出立したのであった。




