六十、越中東西分割
増山城攻略と降伏の次第については、すでに述べた。その降伏の時から時は少し遡る。
東越中の又守護代、椎名長常は姉小路家からの砺波郡合戦次第及び無用の衝突を厳に避けるために兵を動かさぬよう要請された手紙に接し、物見を多数出すだけに留めていた。この時点では陣触れさえしていない。どちらかといえば、椎名長常はこの手紙の大勝を誇張されたものと考えていた。そうであるならば、兵を出して西越中へ出兵しても手痛い反撃が加えられるものと考えられた。まずは物見により正確な情報を集めるところからである。
そのうえで、大勝が本当であったとして、偶発的にでも姉小路家と衝突する可能性は高い。ならば静観して外交交渉で領土を広げる、というのが現状では最も効果的な策のように思われた。いずれ、越後長尾家とは対立する可能性が高い。その時に姉小路家と対立状態になっているのは、やはり問題である。特に越後長尾家の干渉を排除していく方向性を模索している椎名長常にとって、姉小路家との対立はさらなる越後長尾家の支援を意味するため、望ましい方向性とはいえなかった。
ともあれ、兵をどうするかは別としても、まずは情報である。物見の報告を待つべきであろう。
その夕、もたらされた物見の報告を総合した。まず、砺波郡合戦次第については概ね間違いない大勝であったことは確認できた。姉小路軍は敵方の遺体を荼毘に付したりまだ見込みのあるけが人の治療にと追われている様子であった。更に神保長職は籠城に向け物資、兵を増山城に集めていた。驚いたことに富山城をも放棄して集めているようであった。富山城はちょうど、東越中の喉元に突き付けられた匕首であった。この機会に落とさずしていつ落とすというのだろう。姉小路家には悪いが、兵を出させてもらう。ただし、富山城だけだ。
無用の衝突を避けるために、このことは軍使を立てて申し入れておくべきであろう。
「誰かある。姉小路房綱殿に使者を」
だが、時は既に遅し。椎名長常が兵を集めた時には既に渡辺前綱の手のもの百が富山城に入城していた。兵などほぼいないため、梯子をかけて門の内側に入り閂を開けた。それでも十名程度はいたのだが、衆寡敵せず、ほんの一刻の間に城は姉小路家の手に落ちた。これを物見の報告で知って、収まらないのは椎名長常である。
増山城攻略後速やかに領土画定の会合を開きたい、と申し入れた。正確には開きたいと申し入れた軍使が出る直前に、姉小路家の軍使が来て領土画定のため近日中に会いたいと言ってきた。椎名長常は、常に後手に回っている。そのことを認識せざるを得なかった。なるほど、姉小路家の都合で始めた戦である。後手に回るのは仕方がない。しかし、常に一枚上回れているとは、気持ちに良いものではない。
増山城攻略にどれだけの時間がかかるか、それは椎名長常には分からなかった。正面から攻撃をかけて落とせるような城ではない。もしそれができるほどの能力のある軍であるならば、姉小路軍がどれだけ強いのか見当がつかない。なので、椎名長常は少し先手を打ってやろうと考えた。
「明後日の夕方、瑞泉寺でお会いいたす、というのはいかがか」
明日では家中との話し合いの時間も取れないから、最短で明後日とした。おそらく明後日であればまだ増山城攻略は成っていない。そこを責めて、少しでも多くの土地を要求することにしよう、と椎名長常は考えた。
使い番はそれを判断する権限は与えられていないため、戻って復命すると言って戻った。そして、諾、との返答が来たのは往復の時間を考えれば即答だったようだ。
翌日の夕方であった。椎名長常へ物見が報告をもたらした。
「殿。増山城、姉小路家の手に落ちてございます」
どういうことか、と聞き返したが、仔細は分からず、ただ増山城に立てられた旗は確かに姉小路家のもの、神保氏の竪二つ引両ではなく姉小路家の藤の丸であるという。特に大きな攻城戦が行われた風ではないから、内応か何かの事態があったのであろうと想像された。しかしそれが何かは分からない。内応であるとして、では誰だ、という話になる。ある程度の権限を持つ、神保長職の部下といえば、水越勝重、小島職鎮の二人がまず二巨頭であり、二人とも増山城に入っているという。この二人を出し抜いて内応に応じて城を落とせるとなると、椎名長常には想像もつかなかった。むろん、この二人と神保長職の関係は良好であり、内応に応ずるような者たちでは決してない。
敗戦の混乱の中での入城時に精々数十から百人規模の部隊を紛れ込ませることは、何とか可能だろう。場合によっては二百人規模か。その程度であの城を落とせるとなれば、個々の兵にどれほどの戦闘力があるのか、想像もつかない。その百なりの兵が門を開ける、というだけでも相当難しいだろう。引き込んだ兵がなだれ込む大きな騒乱があるはずだが、物見はそのような騒乱にも気が付かず、竪二つ引両の旗がするすると降りて藤の丸の旗が上った、という。
狐につままれたような、そんな話であった。
そして会談の日となり、瑞泉寺へ供回りを揃えて椎名長常と草太はそれぞれ入った。
草太は先に来て何やらしていたらしい。聞けば葬儀を行っていたという。誰か重臣が、と思ったが、名を聞いて椎名長常は驚いた。神保長職と水越勝重の二人の葬儀である、という。仔細は後にてまずは焼香を、と平助が促し、更に訳が分からなくなっている椎名長常は、荼毘に付された骨壺を前に焼香を行い、住職である証心の読経を聞きながら、南無阿弥陀仏を唱えて本堂を出、会談をすることになっている控えの間へ入った。清めの塩をかけさせ、どういうことか仔細を説明させた。
草太はあっさりと説明した。
「神保長職殿、水越勝重殿は、彼らの事情があって、私の目の前で腹を召されました。我が護衛、平助が介錯を行い、立派な最期でございました」
「事情とは何でございますか。また、小島職鎮殿はいかがなさいましたか」
「事情とは、彼らの志の果てにございます。小島職鎮殿は、これからは我が姉小路家の禄をはむものとなりました」
椎名長常には信じられないが、話を総合すれば小島職鎮が内応し、神保長職、水越勝重の二人に腹を切らせたのだということになる。ではいつから小島職鎮は姉小路家に接近していたのだろうか。全く何の接点も見いだせなかったにも拘わらず、内応するとは考えられない。
ふと、これを平然と明かす理由を椎名長常は考えた。それは、我が配下にもいつでも内応に応じる配下がいるということではないのか。我が配下の方が姉小路家に近いものが多い。姉小路家から全く接点のない小島職鎮でさえ寝返ったのだ。我が配下に調略済みの配下がいてもおかしくない。
それは、椎名長常にとって無言の圧力であった。無論、そのような圧力をかけているとは、草太は全く思っていない。だがこの後も椎名長常は常に自分の部下に対して疑心暗鬼にならざるを得なかった。
「さて、本題に入りましょう。領土問題でございます」
わざと明るい声を出したのは木下藤吉郎であった。辛気臭いのはどうにも彼には苦手だったという理由もあるが、それ以上に椎名長常の感じた無言の圧力を敏感に察し、それを最大限に使おうという魂胆があった。
「我々姉小路家としては、国境を神通川に定め、神通川以東を椎名家が、以西を姉小路家が、それぞれ治めたいと考えております」
椎名長常は最も気にしていることを聞いた。
「富山城はどうしますか」
これにも木下藤吉郎が答えた。
「神通川の東側にありますから、姉小路家としては遠慮したいと。もっとも、椎名家で不要というのであれば、廃城にもできませぬから、我らが管理致しますが」
椎名長常はもめると思っていたが、至極あっさりと城を譲られてしまった。とはいえ、内部構造は既に把握されていることであり、相当な改築をせねば防御力は知れているが。
この会談の間中、草太の顔は暗かった。まだ二人の切腹の衝撃から立ち直っていなかったといっていい。それゆえ言葉も少なく、実務的な話も木下藤吉郎に任せきりであった。このことも椎名長常には不気味に感じられた。
このとき交わした覚書は現在も残っている。覚書の骨子は
一、神通川を境に、東を椎名家、西を姉小路家がそれぞれ支配すること
一、富山城は椎名家に譲り渡すこと
一、今後もこれまで通りの友誼を保つこと
の三点であり、天文二十二年弥生十四日(1553年4月26日)の日付と両者の署名、花押が書かれている。
しかし、この後椎名氏は粛清と代替わりとで大きく力を落とし、さらに武田家への従属と滅亡という、その最初の一歩がこの時の会見であったというのが今日の定説であるが、その理由は分からない。ともあれ、この詳細については項を改めることにしよう。
律令制の下では、越中はまだ氷見周辺が残っている。しかし、ここは畠山家の影響下にあり、草太たちも能登畠山家の一部として認識しているようであった。この周辺では、寺島職定や菊池武勝といった元神保長職配下の国人衆が強硬な姿勢を続けているという。小島職鎮によれば、この度の謀反にも反対の立場であり、借りが多くなりすぎれば踏み倒せばよい、などとうそぶいていたという。立場としては神保長職配下ではあるものの、親畠山であり、むしろ畠山家の家臣団の一部として考えた方が近い部分が多々あった。
草太は、今はまだ守山城から放生津にかけての線、そして守山城から南へと走る丘陵地帯を境に砺波平野の内政をまずは固め、石高相応の兵力を蓄えることに力を注ぐのであった。なにしろ、検地は済んでいないが、荒れ地も残っているものの、大雑把に言って今までの十倍近い石高を抱えることになり、さらに今までは収入の柱として鉱山収入を据えていたが、これからはその割合は徐々に少なくせざるを得ない。即ち商業振興策も行う必要がある。
また、信濃の情勢によっては、飛騨の防備も見直さなければならない。幸いにして鰤街道に作らせた石垣は既に縄張りも終わり石を積み始めている状況であり、一応の警備兵は既に駐屯しているものの二ケ月後には石垣の上に簡単な構造物を建造し必要に応じて兵を込めることができるようにすればよい。その後、奥飛騨に城を築けば、概ね信濃からの甲斐武田の侵攻は防ぎうる。
もう一方の出口である南方、美濃の情勢は安定しているうえ、関係も悪化していないため、この方面は今のところ手薄であった。だがいつまでも何もしないわけにもいくまい。ある程度の防衛体制を整えていく必要があった。
領土が広くなるということは仕事が増えることだ、というのは事実である。したがって、こなすことのできる人間を増やさなければならない。
草太は、人材を増やすことが領主の仕事だと言った弥次郎兵衛の言葉を、今更ながらに思い出していた。




