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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第三章、群雄割拠編
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五十六、砺波郡合戦後処理

 砺波郡合戦の次第については、既に述べた。この次第を書状にまとめたものを、草太は三人の人物に送っている。どうやらこの時期に漸く祐筆を使うようになったようであり、草太の発給する文書に草太以外の筆であるが署名と花押は草太のもの、という文書が散見されるようになった。

 この三通も、内容はほぼ同一ではあるが、全て別の人物の手によるものであるところを見ると、祐筆は少なくとも三名いたことになる。もっとも、名前も分かっておらず、その辺にいた半家の二男辺りを使ったのかもしれない。輸送隊の仕事は戦闘後の補給が済めば基本的にはなくなるためだ。


 その一通は、国元にいる牛丸重近、太江熊八郎の二人に宛てたものである。合戦の次第と今後の予定について報告がてら、穴田衆栗田彦八郎の作業状況について報告するように求めている。

 二通目は、東越中の又守護代椎名長常に宛てたものであり、合戦での大勝とこれに乗じての西進は無用の衝突を避けるため厳に慎むように要請したものである。

 三通目は、越中守護畠山政国に宛てたものであり、合戦での大勝とこれから西越中を接収する旨の報告が書かれている。

 いずれも現代に残る貴重な史料であり、いずれも××資料館に所蔵されている。一般公開はレプリカでされているのみである。

 これらの手紙は、三通目の畠山氏に送った手紙から、合戦後井口城接収までの期間に描かれたことが明白であり、おそらく合戦後日没近くまで遺体を荼毘に付したり負傷者の手当てをしている時間に書かれたものであろうと推定されている。


 さて、砺波郡合戦後、姉小路軍は北上し、砺波郡合戦の夜、井口城を攻略した。攻略したというよりも接収したといった方が正しいのかもしれない。

 井口城は岡前館と同じく行政上の拠点という性格の強い城であるため、特に防御設備はない。塀も低く、櫓も四隅に一つずつあるだけであり、そもそもの収容人数も少ない小城であった。草太たちが到着した時点ではこの城は空城となっており、書類、金銀兵糧などを慌ただしく運び出した跡が残されていた。

 草太はここで隊を三つに分けた。一つは井口城に待機し、周辺の内政を取り仕切る隊で、輸送隊を中心とした部隊がこれにあたった。

 もう一つは瑞泉寺攻略であるが、これには後藤帯刀に千名の兵をつけて、顕誓達に降伏勧告させるように指示した。寺領として寺の周辺千石相当、軍事に手を出さないこと、この二つが草太の出した条件であった。別段棄教などは強要するつもりはなく、宗教のことは宗教界で、政治や軍事には口を挟まないこと、これが絶対的な条件であった。

 最後の隊は、残り全員で神保長職の居城である増山城、そして富崎城、富山城を攻略する隊であった。これらの拠点を攻略し、神通川以西の越中を支配下に置くのが主な目的であった。この隊は草太を主将とし、瑞泉寺攻略の後藤帯刀、井口城留守居の弥次郎兵衛以外の全武将が参加することとなった。


 草太は、増山城は相当に楽観視していた。なにより、二千に満たない兵力であり、大敗の直後であれば逃亡兵も多く徴兵もそれほど早く行うことはできない。おそらく潔く引き払い、先例に倣って金銀兵糧の類を全て山城の守山城に移すだろうと見ていた。富山城も、現代では越中支配の為の城として大きく増築した城になっているが、この当時の富山城は、史実で言うところの墨俣城のように椎名氏攻略の為の出城でしかなかった。このため、防御用の施設は椎名氏側には手厚いものの、西からの防御はほとんど考えられていなかった。掘として神通川を利用しているため、西から攻撃する場合には堀すらなかった。であるならこれも捨てて潔く引き払うか、それとも富山城を築いた水越勝重が独立、降伏する可能性も考えられた。

 したがって、おそらくまともな攻城戦が起こるのは守山城だけであろうと考えていた。


 無論、楽観的過ぎるという発言もあったが、合理的に生き残ることを考えるなら、草太には、神保長職にとってはこれが一番の策であるように思われた。籠城策であり、加賀一向宗、能登畠山に援軍を要請する、という方法であった。守山城は北に抜ければ能登畠山氏の支配圏下に入ることもでき、西に抜ければ加賀である。援軍を期待するのであれば、これが最も適しているように思われた。


 とはいえ、この方向性が草太にとっても理想的であった。特に、能登畠山だけが介入してくる場合が可能性としては最良の場合であった。何しろ能登については守護畠山政国から支配権をみとめられているのだ。そのまま攻め込んで攻め滅ぼしてしまうのが一番良いように思えた。

 勿論、勝てるならば、である。



 だが、それ以上にこの勝利を危惧していたのは、誰あろう弥次郎兵衛であった。彼は、越中西半国という領土がどれほど大きいか、良く把握していた。雑に言って、越中西半国の石高は飛騨の十五倍である。それも控えめに言って、である。検地台帳も持ち去られてしまっており、またこの地域の人口、それも農業生産に関わる人口の数千人が今回の戦で死亡した。これから先、攻略が進めば、おそらく三千を超える生産人口が失われると見込まれていた。戦闘力としてではなく、実際の採算能力そのものが、それだけ減少するのだ。これを埋めるのは簡単ではない。これからの攻城戦も含め、戦死だけではない間接的な死亡まで含めると、復興は相当の労力を必要とする。しかも飛騨のように小国であれば他国からの移民でも問題は小さいが、これほどの規模を埋めるとすると、本来味方であるはずの越後や東越中の人口まで奪うことになり、なにより、人口の不足を他国から移民を募っているだけでは、近い将来に破綻するのは目に見えていた。

 何か手を考えなければならない。とりえあず、西越中平定後の課題として考えるにしても、何か手が必要なのだ。

 それはそれとしても、検地はしなければならない。戦で荒れた部分があれば補償しなければならない。草太が明言したのだから、これは絶対であった。だがいくら補償しなければならないのかは、検地をしなければ確定しない。そして彼らには食料が、すぐにも必要であった。つまりすぐに検地を始め、検地を終わらせなければどうにもならなかった。幸いにして武力という背景があるので、検地に対する一揆の危険性は少ないはずであり、特に瑞泉寺が一揆をしない条件を飲めば一向宗のような一揆の精神的支柱が失われるため、一揆という問題はほとんどなかった。

 もっとも、検地については手間は飛騨の比ではない。飛騨は棚田が多いため、田が四角ではない。だが越中ではほとんどの田が長方形又は台形であるため、面積を計算するのはそれほど面倒ではないはずであった。

 面倒、というよりも厄介なのは、検地をおこなった場合には庄屋以下農民の反感を買う可能性が高いという点であった。今までの検地の結果よりも減っていれば問題はない。だが、増えていればそれを不満に思わない百姓は、ほぼ一人もいないだろう。それを取りまとめる庄屋衆は、多かれ少なかれそういった不満を持つ連中を支配下に持つはずであるため、支配下の農民の不満が伝われば当然にして庄屋衆も不満を持つことになるだろうと考えられた。

 それが、今回の合戦次第を直接見聞きし、あるいはそういった人々と交流のある人間から聞いている場合には、不満に思っても今は反乱にまではつながらない。つながらないが、こういった種類の不満は半永久的に心の中に残るものである。しこり、と言ってもよいかもしれない。もちろん前回の検地台帳を持ち丁寧な検地を行えば、そういったものはほぼ防げるには違いない。だが、そこまで丁寧な検地を行うだけの時間も、割ける人手も、圧倒的に足りなかった。通り一遍の検地でなんとか、というあたりになるだろう。

 まだ支配地は砺波郡南部だけだが、海岸線まで攻め上り、神通川以西を併合した場合には、それだけのことを要求されるのだ。頭の痛い話であった。


 もう一つ、弥次郎兵衛が危惧していたのは、常備軍の制を今後も続けるかどうか、であった。

 軍事ということであれば、弥次郎兵衛が口を出さなくても問題はない。軍政ということであれば評定にかけなければ、どうせどうにもならない。だが、勘定方を預かる身として考えた場合には、大きな危惧があった。今まで、常備軍を雇う金銭的裏付けは、屯田の制、そして常備軍へと発展したが、その発展を支えた財政的な基盤は神岡鉱山をはじめとする鉱山収入である。特に灰吹法伝来後の鉱山収入がなければ、いまだ飛騨統一どころか三木氏との決戦でさえ危ういものであっただろう。少なくとも火縄銃部隊はまったく存在しない。国友衆を雇う財政的な裏付けは、豊富な鉱山資源が存在し、鉱山収入があるためだからだ。別段、西越中を手に入れたからといって鉱山収入が増えるわけもなかった。

 西越中を手に入れたのはよいが、それがために姉小路家が力を落としたのであれば、話にならないのである。



 もう一人、この砺波郡合戦の結果を危惧していた人間を、もう一人だけ書かなければならない。それは服部保長である。危惧していたというよりも、素直に喜べなかった、という方が正しい。何しろ、充分な防諜体制を敷いていたにも拘わらず、最初の先遣隊接近の報を伝えたはずの物見以外、敵の物見を全く発見し処分することができなかった。当然、神保長職は物見を出し続けており、こちらの全容を把握していたと考えていた。それにしては兵も少なく、一向門徒衆に当初八千いたためにその人数としたか、農業生産への悪影響を危惧したかは何とも言えない。しかし、物見を全く発見できなかったというのは、非常に大きな失態であった。もちろん、神保長職が物見を全く出さなかった可能性はないとは言わないが、接近の一報以後一度も出さないということも、少なくとも服部保長には考えられなかった。

 もっとも、現実には服部保長が考えられなかった、接近の一報以後物見を出さなかった、というのが正しいのだが、そして、接近速度から砺波郡南部で迎撃するために集められるぎりぎりの数が、あの五千という数であったのだが、そのことを服部保長が知る由もなかった。

 また、合戦の中で、服部保長が気が付くべき一向門徒衆が側面からの攻撃を準備していたという事実を、木下藤吉郎に発見され報告されてしまった。あの時は後方の予備隊千と馬回り五百で対処できたため、しかも最先鋭には新参の平野右衛門尉を充てており、最も安全な後方中央部ではあったが、大将自ら突撃を敢行するなど、平常では考えれなかった。だが、発見が遅れて側面攻撃を許していれば、相当の被害を覚悟しなければならない情勢であった。敗戦したとは言わない。だが被害がほぼ皆無という今回のような形にはなるべくもなかっただろう。あの滝川一益のことだ、百も削られぬうちに軍を回し、三百程度までの被害で抑えただろう。だが、木下藤吉郎が発見し進言した結果、結局は馬回り十数騎という軽微な被害で済んでいた。

 勿論、戦場のことである。気が付いたのが木下藤吉郎であったという以上の意味合いは、なかったのかもしれない。だが、正面の寄せ手全体を見て一向門徒衆がいなかったことを、それが回り込んで側面から攻撃をかけようとしていたことを見抜けなかったことは、服部保長にとって、誰が責めるわけでもないだけに失態として心に残るものがあった。



 ほかにも、例えば騎馬隊は騎馬隊、槍部隊は槍部隊、鉄砲部隊は鉄砲部隊という風にある程度分けて部隊を編成するよう進言しなおすべきである、と考えていた滝川一益や、今日の勝利を単純に喜んでいる渡辺前綱など、それぞれにとって砺波郡合戦に対しての対応は異なっていた。

9月26日22時、誤字、脱字等が目に余ったので修正しました。


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