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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第三章、群雄割拠編
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五十四、礪波郡合戦前夜

 礪波(となみ)郡南端部に陣を構えた草太率いる姉小路軍であったが、その前には一向宗八千が集まり、更にその後ろから神保家の約五千が接近している、更に一向宗八千のうち四千は、顕誓らの説得に応じて一向一揆軍から去った、という状況については既に述べた。


 さて、説得に応じて一向宗を抜けた二千の門徒衆は、顕誓が草太に急ぎ伝えたため、無事に姉小路陣内に収容され、一先ず上見城より北方の山中に待機させることとして、主だったものと草太は会った。


 姉小路家日誌に曰く、

「公、戦により田畑が荒れる様を深く憐みて、戦で荒れた田畑につき姉小路家が賠償し生活に影響が出ぬよう取り計らうと明言され、証文一枚その場にて書かれ、下げ渡されたり」

 日付がないのは、姉小路家日誌に書かれていないためである。欠損があるためか、或いは編年体を基本として書かれている日誌ではあるが、合戦などにより一日に行われたと考えにくい事柄が同一日の項に書かれており、次の日付まで日付が飛んでいるため、日付が書かれていない部分があるためだと考えられている。


 余談にはなるが、実はこの姉小路家日誌を書いているのは、この時代は主に平助である。平助は草太の行動に常に付き従っているため、草太を美化する傾向はあるが、概ね草太の行動については、わざと書かなかったことを除けば概ね全て書かれている。

 より正確に書けば、後に平助の日誌を含むいくつかの資料をもとに編纂されたのが、姉小路家日誌であり、その成立は千六百年代半ばから後半と言われている。しかし、平助の日誌そのものも現存し、内容は多少の修辞的変更や美化はあれども、概ね内容が一致しているのは確認されている。

 もっとも、平助の日誌には平助自身のことも多少書かれているが、それは姉小路家日誌からは一切排除されている。ただ、当時の草太や平助の生活を知るうえでは貴重な資料となっている。


 その日は、多くの一向門徒の受け入れなどにより前日と同じく上見城周辺に留まるとしたが、空堀も深さ二尺まで掘らせ、また鳴り子などを仕掛けさせ、夜襲の警戒を怠らなかった。



 一方の神保長職は姉小路家の動向について、ほとんどつかめていなかった。上見城跡に姉小路家先遣隊が到着した前後に、漸く姉小路軍が接近中との報告を受け、陣触れを出した。

 この当時、常備軍ではないため、陣触れを出してから兵が集まるまで、それなりの時間がかかる。武将はその間に戦略を整えたり補給物資の確保、援軍要請の有無などを決めるのである。少なくとも一向門徒衆の援軍を当てにし、瑞泉寺証心へ書状により援軍を要請した。自身も手勢が集まり次第、出陣する予定である。

 しかし、田植えのこの時期に戦は、短期で終わらせられなければかなり面倒なことになりかねない。それは姉小路側も同じである、と神保長職は考えていた。神保長職は姉小路家が飛騨を統一したのは知っていたし、神通川を通じた水運を中心に椎名氏と近いのは良く知っていた。しかし、知っていたのはそこまでであった。

 軍制のことも鉄砲の有無でさえも、神保長職は知らなかった。一応、鉄砲があるのは分かっているが、今回の出撃に含まれているかどうか、全く分からない。なにより、鉄砲はその運用に莫大な費用がかかるためである。

 これはなにより、神保長職は飛騨には興味がなかったためである。三万石程度の小国でしかなく、西越中半国の神保家の版図の五分の一程度でしかない。精々、椎名氏を攻めるときに後方から援軍として小勢が現れる程度、という認識でしかなかった。この認識不足が、最初の先遣隊を最初、全軍と見誤らせた原因であり、それは陣触れの規模に影響した。五千で充分に圧倒できる、更に一向門徒衆が付くならば、ほとんど無傷で撃退できる、と当初考えてしまった。その後の物見の報告でも、後詰は近付いているものの上見城址付近に留まっているのが、それ以上進出する力はなく、単に椎名氏への圧力を下げるための出兵であると、神保長職に判断させてしまった。

 この判断は、言うまでもなく致命的に間違っていた。

 神保長職の戦略としては、朝陣触れを出し、翌朝出陣、夜には一向門徒衆と合流し、姉小路家に夜襲又は翌払暁に襲撃を行い、痛撃して暫く姉小路家の活動を抑えられればそれでよい。統一してから日も浅いというから、痛撃次第ではそのまま姉小路家の統一自体が瓦解する可能性も、決して小さくない。その様に、姉小路家を軽く考えてしまった。

 手勢を率いて牽制ならば、千数百程度か、と判断をし、自身の手勢五千だけでも勝利できる体制を整えたうえで、なお一向門徒衆を動かしたのは、一つには同じ戦場を往来すれば絆が深まるという利点があり、もう一つには上手くすればその兵力を椎名氏や城生城斎藤氏への圧力に転嫁できないかと考えたためである。

 情報戦では、既に大きく負けているといっても過言ではない。この失点を失点と認識し取り戻せるのは、戦場で余程のことがなければ難しい。或いは、余程の情報戦での勝利をもぎとるかであるが、こちらは絶望的といっても良いだろう。


 神保長職以下神保氏陣営は知らない。神岡鉱山以外にも沢山の鉱山が飛騨にはあることを。草太がばら撒いた一千丁の火縄銃、それに使われる硝石の主な供給源は南蛮から買う以外には飛騨から供給されていたことを。そして、おびただしい食料がその対価として飛騨の国に入っていたことを。

 飛騨という国単体で見るのであれば、三万数千石の小国であるが、食料を自給せずに北は東越中、南は美濃、東の信濃はまだ動乱の影響もあるため食料の買い付けはあまり行われていないが、食料の自給を考えないのであれば数千どころか万余の軍勢を養える、ということを。勿論、丹念に偽装されたこれらの動きを把握できるものは、部外者では中々難しいであろう。

 土地の広さも重要だが、更に重要なのは人であり、それを養うことができる力であることを。

 この辺りの、食料がなければ買えばよいではないか、という発想は、現代に生まれ育った草太だから出来たかもしれない。また、戦乱で荒れ出されて土地を失った真面目に生きようとする人や、特に信濃の二男、三男のように牛馬のように使われて人間扱いされていなかった人たちを人間として積極的に受け入れようという、草太をはじめとする姉小路家臣団の思惑もあった。

 常備軍という、農業以外を職業とする集団が飛騨に出来たのは、屯田の法が発展的に解消したとはいっても、このような革新的な成果があったためである。とはいうものの、このような「革命」は、全くの小国としか思っておらず交流もほとんどない神保氏には、全く入っていなかった。精々、多少鉄砲がある、位の事が判明している程度であった。

 しかも、農民軍と常備軍の練度の差、一対一の戦いが多数同時に行われる合戦が過去のものになり、集団対集団という合戦が行われるようになった場合には、練度の差は絶対的な差に変化する。更にその装備品の違い、例えば槍の長さ、防具の優秀さ、草鞋の有無、こういったもの全てがその差に影響してくる。戦の采配以前の、戦力の差としてこれらは反映されてしまう。


 戦力以前の問題で、神保長職以下神保氏陣営は既に必敗の体勢を整えつつあった。己の長所であったはずの一向門徒衆の支持という支持基盤さえ、既に崩されつつあったという事実を。孫子に曰く敵を知らず、己れを知らざれば、戦うごとに必ずあやうし、という。正に神保長職陣営は当初の先遣隊を姉小路全軍と考えて戦略を練っており、これから少なくとも五六千人はいるはずの一向門徒衆と合流して夜襲または払暁の一撃で壊滅させるという戦略は、姉小路家の行動を知らなければ確かに正しい戦略であったかもしれない。

 だが、一向門徒衆については仕方のない面もあるにせよ、少なくとも物見をその後も出し続けるべきであった。そうすれば数百から精々千数百という先遣隊だけが姉小路全軍であると考えることはしなかったであろうし、空堀など簡易的にではあるが陣を構えたことも知ることができたはずであった。もしかしたら一向門徒衆の一部降伏も知ることができたかもしれない。

 無論、現実には物見は最初の先遣隊を確認した時点で帰還し、それ以降は出されなかった。これは一人神保長職を責めるわけにもいかない。なぜなら物見を行うほどの訓練の行きとどいた武士は、将校として今度は兵を率いて参陣させなければならないためである。動きは緩慢であったことを責めるわけにもいかない。これがこの時代の、というよりも応仁の乱中にもほとんど改革らしい改革をしなかったためである。彼らの軍制は、結局のところ鎌倉末期ころから基本的には変わっておらず、かなり前時代的であった。

 というよりも、軍人という職業が兵というレベルで成り立つほどの生産力を、或いは軍人という職業の人間の生活を支えるだけの基盤を、かつての支配者層は持ち得なかったし、結局のところ農民を徴発して兵として使う方式が最も効率が良かったのだろう。それが時代の変化により、軍人という職業の人間が存在しうる世界に変貌したことに対応できなかった、という方が正しいだろう。

 因みに、かの上杉謙信も武田信玄も最後までこの種の対応はできなかった。この種の対応が出来たのは、織田信長などごく一握りの大名だけであった。神保長職を責めるのは、酷というものであろう。


 とにかく神保長職は、兵五千を率いて井口城から南下して前進しているはずの一向門徒衆と合流した。

 予想よりも少ないが、農繁期のことだ。門徒衆四千と合わせて九千、敵軍は物見では千数百というが、その後後詰が到着したらしく、また飛騨照蓮寺善了らの説得により八千の一向門徒衆のうち四千が降伏し、そのうち二千が姉小路軍の背後にいるという。また空堀を掘り簡易的な陣を敷いていることが見て取れた。とはいえ、数は依然こちらの方がかなり多い。

 神保長職は、おそらく飛騨の現状からして三千が出撃可能な兵の限界であろうと考えていた。しかも背後に一向門徒衆の降伏兵を抱えているというから、押しても簡単に退却もできまいから、前に空堀は掘ったもののそれ以上の前進もできず、さりとて後退も難しい状況に、姉小路軍は陥っていると判断した。

 夜襲をかけるには、空堀に足を取られ水田も多いため、思わぬ被害を受ける可能性が高い。また、急進してきた五千の兵を休ませる意味もあり、明日払暁の攻撃を決意し、軍議を行って瑞泉寺証心に明払暁の日の出と同時の攻撃を告げたのであった。

 証心に否も応もない。ただ、従うだけである。従って勝利をもぎ取り、この砺波郡の支配をより確実にする、それ以外には取りうる方策は考えられなかった。心のどこかに、顕誓の「あと三、四町も進めば皆鉄砲の餌食、槍の餌食じゃ。無駄に命を散らすだけじゃ」という言葉が引っかかり、更に僧侶は僧侶として、武将のまねごとなどすべきではないという言葉を思いながらも、だからといって既に仕方があるまいと思っていた。


9月25日、少し文章を直しました。

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