五十一、改革、改革、改革
秋の風が吹き始めていた。取り入れも順調に終わると、もう戦の季節である。
この時期の飛騨の人口は、たび重なる戦にもかかわらず増えているといって良い。戦による人口減を大きく上回るだけの人口流入が、特に鰤街道を伝って信濃から、信濃の二男、三男の部屋住みで奴隷扱いされている層が中心となって、飛騨に流入していたためである。
このことは後に、女性人口の不足という深刻な問題に直結するのだが、それはまた後に語るとしよう。
だが、飛騨周辺には戦らしい戦は、この年は起こらかなった。というよりも草太がほとんど起こすつもりがなかったという事情があった。何故かといえば、飛騨を統一して足場を固めるとともに、飛騨全体の組織改革をこの時期に行ったためである。
姉小路家日誌の天文二一年神無月三日(1552年10月21日)の項にこうある。
「姉小路房綱公、畠山政国殿の乞いを受け入れ、また越中東半国を治める椎名氏の乞いを受け入れ、西越中半国を治める神保氏及び一向一揆衆を懲戒せんと欲し、兵千ばかりを揃え、岡前館を出で候。飛騨一国の守りは牛丸重近にまかせ、(略)また高山ら国人衆は留め置かれし候。内ヶ島家には後詰を言いつけられ候由」
一鍬衆を七百五十名を従え、六匁火縄銃に統一された火縄銃部隊二百五十名と指揮を担当する部隊、医療隊、小荷駄隊、合わせて約千百の兵が岡前館の前に集結したのは、神無月三日の払暁のことであった。出陣の儀式として酒も出されたが、草太はまだ十二歳である。酔わない程度に薄めた酒を用いた。湯漬を食べ、出陣である。
軍制として考えた場合には鉄砲隊は二百五十名五百丁とされていたが、鉄砲は一人一丁とされ、いわば誤魔化していた。
軍がまず目指すは白川郷、内ヶ島家の領域内を通っての進軍である。先触れは既に通過を内ヶ島家に伝え、後詰の支度のみを考え候様に、との手紙を送ってある。無論、物見は厳重に出し、こちらの動きを神保氏に極力把握されないようにするのは忘れずに行った。
因みに二匁半の鉄砲は大部分が岡前館におかれ、今回の戦では出番がない。留守居と訓練用とされていた。
現在、姉小路家の鉄砲衆の使う弾薬、その硝石は白川郷に頼っていた。流石に今回の出陣の分については既に確保してあるが、後詰で追加できるようには内ヶ島氏理に頼んである。今回の出陣の目標は五箇山とそのすぐ脇にある越中藤井城である。いうまでもなく、これは硝石の自前での調達を目的としたものである。元々の物見によって、藤井城には兵らしい兵はほとんどおらず、空城というよりも廃墟となっていることは判明している。五箇山の攻略には、五箇山が籠城することを視野にある人物を使者に立てることで早々に降伏させた。
その人物は、顕誓と白川郷の僧善了である。
果たしてこの策は上手くいき、五箇山は寺領安堵及び不介入を条件に、硝石を姉小路家に治め、以後姉小路家に敵対しないことになった。事実上の臣従である。また、今後、一揆を扇動する手紙が石山から来たとしても顕誓に連絡し決して加担しないこと、不満があればまずは話し合いにより解決を図り、いたずらに武力に頼らないことを約束した。
姉小路家日誌の天文二一年神無月十五日(1552年11月4日)には、既に帰陣が報告されている。期間からして、五箇山に行って帰ってきただけ、というごく短期的な行動でしかなかったことは明らかであった。
この年の出兵らしい出兵はこれだけである。
岡前館に帰還した翌々日、草太は国友衆の鉄砲工廠を視察していた。
当初は鍛冶場と隣接させるように、と考えていたが、鍛冶場と隣接では危険なことが多い。特に火薬練成方は火元と可能な限り離すべきだという意見が大半であるため、国友衆の鉄砲鍛冶については一般鍛冶場と隣接する地に作ったが、火薬練成方は川を渡った対岸に作られた。
鉄砲鍛冶場には、大きく分けて銃身作成、銃細工作成、銃床作成、組み上げ仕上げの一連の火縄銃作成方と銃弾作成方の二つの班が存在している。元々の国友衆が前者を主に担当するとともに、二人から三人に一人徒弟をいう形で技術を教えさせている。本来なら徒弟をもっと増やしたいが、月五十丁という数を考えれば、分業体制を敷いてもこれが限界なのだという。とはいえ、銃床は木工でありさして精度が必要でもないため、徒弟が一対一であるのに対し、銃細工については技術自体が難しいため、六人いる職人のうち一人しか徒弟はいない。
少しずつでも技術を体得してもらい、工廠自体を大きくしなければならない。これは急務であるとは草太は分かっているが、同時に質をほとんど落とさずにある程度の数の銃を完成させ続ける必要がある以上、無理も出来ない。一番難しい細工作成であっても徒弟がいるだけ、今は良しとしなければなるまい。
一方の銃弾作成方であるが、割合簡単にできるらしく、ほとんどが徒弟であった。鉛という金属を扱う以上それなりに注意は必要だが、注意を怠りさえしなければ、要は溶かして同じ重さに計量し、最後に丸めて終わる。丸める器具については七太郎がひょいと作ったので、同じような器具を使って大量に作っている。
因みに、七太郎が作ったのは、穴が小さいだけでどうみてもタコ焼き機であった。千枚通しでひっくり返すところまでタコ焼き器と同じであった。もっとも、たこ焼自体が昭和になってからのものだから、タコ焼き器とは何の関係もないのはあきらかなのだが。
最初にらせん型の穴を通す器具を作ったのだが、段々と中の鉛が詰まるという問題があり、このたこ焼き器型となった。
そして草太は川を渡り、対岸にある火薬製作方を視察に出かけた。同じ船に、大量の六匁玉が積まれており、これが火薬製作方が作った火薬と一緒に早合としてつくられるのだという。
早合の歴史は意外に古く、日本に鉄砲が伝わる以前から既に存在していた。遅くとも1300年ころにはヨーロッパでペーパーカートリッジと呼ばれる早合が登場しているのだ。日本にないわけがない。
とはいえ、姉小路家の早合は少し特徴があった。まず紙製ではない。革製である。これは周囲が山が多く、革が非常に豊富に取れるという地理的な特性から、あまり売り物にならない革の有効利用を、と考えたのが始まりであるといわれている。言われているというのは、草太も実際にどうなのか、よくわからないのだ。大体、紙だって売り物にはならない。
この革製の早合であるが、現代のレザークラフトで言うところのステッチと呼ばれる技法で一端が細く止められている。逆側は筒状のカバーを掛けるように作られている。ここまでは、どちらかといえば女性の仕事である。これを漆で筒状に固めたものが早合であった。
早合の作り方としては、革製の筒にまず玉を入れ、その上から黒色火薬を詰めて固める。そして筒状の蓋を掛けて少々の水がかかっても火薬がぬれず、火花が飛んでも中の火薬に引火しないようにすれば完成である。
火災でも起こったら大変だろう、と聞いたところ、革はなめしてあると簡単には燃えないのだそうだ。漆を塗ると更に燃えにくく、試しにろうそくの火に近づけてもすすが付いただけで中が熱くなりもしなかった。
草太は実際に試し打ちを見せてもらった。一発撃って次弾発射まで、早合を使ってではあるが三十まで数えることはできなかった。
この早合は、現代で言えば先のとがったフィルムケースを想像してもらえば大体正しい。現存してるものも多く、××博物館の早合コレクションは有名である。飛騨以外にも早合が残っている例も多いが多くは紙製であったためか劣化してしまっているものが多い。飛騨の後期型と言っても良いだろう最終的な普及型は、早合同士が連結されており、技量次第だが百数える間に二十発から三十発を連射することが可能な様に作られている。もっとも、火縄銃側にも仕掛けがあるのだが、そこは後日改めてさせてもらうとする。
火縄銃の特徴の一つとして、火薬量を増やせば(銃が持てば)威力をいくらでもあげられることにある。そのためなのか、飛騨の早合の中には長さの長い早合も多数現存する。最も長いもので約二倍である。もっとも、玉の分があるから、火薬量自体は二倍よりも多い。
とはいえ、このようなものは非常に珍しく、ほとんどが同じ大きさの早合筒である。
同時期に一つ、革命的な、といって良いような革製品が実用化された。それは「ランドセル」である。革製背嚢、と呼ばれることが多いが、草太が革職人に直々に指図して作らせたものである。実のところ、草太は自分のランドセルを持っていなかった。草太の行っていた学校は制服はあったが指定カバンはなかったため、いつもスーパーの袋や百貨店の紙袋にノートや教科書類を入れてもって行っていたから、ランドセルが欲しかったという個人的な問題が根底に無かったとは言わない。
だが、この革製背嚢は丈夫で、内容量が多く取れる割に動きに制約が出にくく、胸の位置で左右の紐を連結する紐(現代で言うところのチェストストラップ)を装着することで相当な重さであっても負担なく持ち運びが可能であり、雨天などの悪天候にも強い。ある意味、画期的でさえあったこの革製背嚢であるが、作成が割合に面倒なことから、女性を中心とした冬の間の針仕事として重宝するのであった。
特に表面に漆を塗ったものは、軽さ、動きやすさ、丈夫さの他に撥水性にも優れ、火縄銃を使う銃兵たちにとって好んで用いられた。また、胸紐を胴丸の一部と連結できるようにしたものは槍兵に好んで用いられた。
中に入れられるのは、糧食類、火打石などの日用品、そして銃兵たちには早合を、多数入れられるという理由で、この革製背嚢は非常に重宝されたのであった。
因みに、軍規でも革製背嚢は「希望があれば」事前に申し込むことで自前の革製背嚢を持ち込み自由とされており、更に革製背嚢に入る量であれば私物の持ち込みを認めたため、出陣に備えて私物の革製背嚢を準備する家も多かった。
また、万事画一的な風を好む姉小路家にとってほとんど唯一傾くことのできる道具として、現代でも様々な装飾のつけられた革製背嚢が残されている。家紋程度のものから派手な意匠のものまで、様々である。




