幕間、戦国時代のマッドサイエンティスト
草太は無事に飛騨を統一した。その次第は既に述べた。しかし草太自身、まだたったの十二歳である。これから先も、絶望的な国力差を外交や他国の内紛、局所的な勝利によって雄飛し、或いは一時膝を屈することにより時期を待ち、自身の理想を追い求めて行くであろう。
勿論、そのよって立つ足場が変わらないにしても、その最終的な目標は変わりうるかもしれない。例えば飛騨一国を豊かにする、という形に。
日本全土、唐天竺の果てまでも、という理想は理想としても、現実という壁が立ちはだかる。これは致し方がないことである。
この後の草太については後に述べるとして、今回は一人、草太の配下の中で最も毛色の変わった男について話をしようと思う。章題から予想がついているだろうが、それは失敗太郎こと七太郎である。
史実では彼は歴史の陰に隠れて表面には表れない。草太のように彼を見出す人間が誰もいなかった、というのがその理由であろうと思う。だが、丹念に歴史を紐解けば、彼らしき人間を発見することが、もしかしたらできるかもしれない。
七太郎は芝辻清右衛門配下の鉄砲鍛冶の一人として、一から十まで火縄銃を作ることができたところを見ると、芝辻清右衛門が最初の火縄銃を作成する段階から既に芝辻清右衛門配下の鍛冶師であったと思われる。堺に芝辻清右衛門が移ったのと同時期に移って鉄砲鍛冶をしており、勿論堺の鉄砲であるから、各種飾りの技術、例えば象嵌や金銀銅などの小細工なども行ったに違いない。それにも関わらず、また仕事は有り余るほどあったはずであるにも関わらず、七太郎を持て余して城井弥太郎に相談するほどには、七太郎は常識的な視点からすると危険な人物であったようだ。
博打で身を滅ぼしかけていた滝川一益でさえ「まさか失敗太郎では」というほど、危険な香りのする技術者であったのは間違いない。
とにかく七太郎は、腕は良いがそれ以上に危険な技術を弄ぶ癖のある人物であったと推定される。
こういう人物は、別に七太郎に限った話ではない。例えばノーベル賞で有名なアルフレッドノーベルは兵器商としての成功と失敗があり、爆薬の研究で自身がけがを負い弟と弟子五人が死亡する事故を起こしながらも、最終的にはダイナマイトの作成に成功した。ガトリングガンの発明者リチャードガトリングは南北戦争の最中に「一人で沢山の兵士を殺せればそれだけ多くの人間が助かる」と考えてガトリングガンを発明しているし、彼自身はガトリングガン以外には兵器とはほとんど縁のない人物である。
技術を持った人間が暴走すると、時々洒落にならないことになる、という好例なのかもしれない。
因みに、このガトリングガンが実戦で使われたのは、日本の戊辰戦争であったというのも、中々に興味深い。世界史の観点まで話を広げると収拾がつかなくなるのでこの話はやめるが、ある程度見て行くと、戊辰戦争と南北戦争には深い関係が見て取れる。
話を七太郎に戻そう。彼は鉄砲鍛冶としての技術に飽き足らず、様々な分野の技術を見聞して行った。堺という場所は、南蛮船こそ来ないとはいえ、南蛮渡来の文物や技術が行きかい、また日本中の文物が行きかう場所の一つである。特に畿内より西の文物はほとんど全てこの堺を通ったと思って大体は間違いない。そうではない技術も、例えば初期の灰吹法のように堺を通過しなかった(後に南蛮絞りが伝来する段階で通過したが)例もないではないが、非常にまれである。
こういう、技術が集まるところに、技術を習得できて、それを実現するのみならず発展させる能力を持ち、更に好奇心でもなんでも良いが何らかの理由でその実現を暴走させる癖のある人間がいたとしたら、どうなるだろうか。
しかも、一つの技術だけではある程度までしか意味のない技術が交わることにより、新たな技術革新が生まれるのは世の常であるが、それが個人の中で、それこそ止める者もなく進んでいったとしたら、どういうことがおこるだろうか。
マッドサイエンティストの完成なのである。
勿論、その技術は個人としての技術でしかなく、実戦的な裏付けもなければ裏付けを作るだけの能力、例えば財産や兵器であれば戦争、攻城器具であれば城攻めといったものがなければ、ただの危険人物で終わってしまうか、それこそダビンチノートのようにアイデアを書いたノートが多数残されるだけで世界は平和なままで終わる。
七太郎がどんなに頑張っても、七太郎は個人でしかない。通暁できる技術にも限りがある。使用できる材料にも限りがある。だから突然核爆弾が出てくることもなければ、ダイナマイトを発明することもない。多分、現物を見れば蒸気機関は模倣できるだろうが、ワットの蒸気機関でさえ発明されるまでに二百年近い時間を要する。それも、様々な冶金上の技術革新の上に成り立つ話である。
また、七太郎があまり得意としていない技術分野も存在する。それは農作物の品種改良などもあるが、金属に関しては特に鋳物に関してはあまり得手ではないようである。鍛鉄と鋳鉄とでは性質が大きく異なり、また必要とされる技術も異なるため当然といえば当然かもしれない。
だが、草太がいる。
問題は草太が七太郎を見出し、七太郎の技術に裏付けをつけ、或いは草太自身も思ってもみないようなふとした会話の中で技術上の問題点の解決策を見つけて行くことで、それらの技術の芽を実現させていくことにある。勿論、時がたてば誰かが同じような発明をするか、別の手法で同じような結果を得ることに成功する可能性は、決して低くはない。
七太郎の技術も、突き詰めてしまえば「いつか誰かが」発明し、或いは同等品を発明するだろう。或いは、既に必要がなくなった技術として打ち捨てられてしまうかもしれない。しかし、それが戦国時代に出現した場合にどのような影響を及ぼすのか、それもまた筆者でさえまだ知らない草太たちの行動の結果であろう。
それでは、七太郎の試作品の山を覗いてみることにしよう。勿論、火薬類は抜いてあり、火災時に爆発が起こることはない。だが、試作品として売り込もうとして作ったは良いものの売れなかったり、注文を受けて試作品を納品したが相手が拒否した事例など、試作品の山を作るまでにはそれなりの事情があることは指摘しておきたいと思う。
一つ目は、大筒である。五十匁を撃つ、攻城用の銃である。問題は、一発撃つごとに火薬が五十匁ほど必要であり、大体であるが、一発撃つごとに十貫文程の金額に相当する費用がかかる点である。費用対効果の点で、注文主が違約金を払い没。
二つ目は、棒火矢である。自分で作り売り込もうとしたが、だれも買い手がつかなかったという代物である。棒火矢自体は既に発明され戦国末期に発展するものの、七太郎の棒火矢は「刺さって爆発する」という触れ込みであった。飛ばす前に爆発されては、と二の足を踏まれ、結局買い手が誰もつかず没。
三つ目は、地雷である。正確に言えば地雷索という種類のものであり、土中に埋めた爆薬を導火線を使って爆破する、というものである。勿論、その上に敵がいるという保証は何もない。また、土中では爆発しない可能性も高くなる。充分な酸素がなかったり、水が流れ込んで火薬が湿るためである。工夫をして爆発の率自体は問題のない割合になったものの、導火線の火を踏み消されればどうにもならないと指摘され没。
四つ目は、草太が命じた火縄銃の改装である。あの後色々試して、銃身の手元部分を割って前に滑り出させ、その隙間から火薬と弾を込める機構を作ることには成功した。一応の成功ではあるがまだ試作品の段階なのは、これを撃つと銃身の手元部分、つまり頬当てで撃ったときには丁度顔面に、高温の爆風が当たることになる。色々試したが、現在これを解決する方法は見つかっていないため未だ試作品止まりである。が、もうしばらくするとこの問題に解決を見るのは、既に述べた通りである。
五つ目は、移動式逆茂木である。これは後に述べるが、結局は役に立たずに終わった。だが、技術としては大八車と同じである。さして痛くもない。邪魔ではあるが。
六つ目は、カタパルト、大型ではあるがいわゆる弩である。弓のように矢を放つのではなく、何らかの弾体を発射するような機構となっていた。これは試作すらされず、設計のみで没になった。七太郎が堺にいた当時、中国の弩の話を聞き、半弓を使って試作してみたものの、小型では弓鉄砲に劣り、大型では試作する財力がなかったためである。大型のものもそのうちに思いだして試作するかもしれないが、今は設計図の段階でしかない。
七つめは、銃剣である。銃を撃った後は槍部隊として突撃、という酔った侍の言を真に受けて作ってしまったが、本人もその発言を覚えていなかったため、試作品の肥やしとなる。
まだまだ試作品の山はあるが、これ以上述べ続けるのも興ざめである。だが、マッドサイエンティストがその本領を発揮する陰には、異常なまでの試作品という名のゴミを作る、という好例なのかもしれない。
ただし一つだけ、七太郎と草太がいたがために実用化された技術的な一大革新が一つある。
それは全部品の規格の共有化である。
この時代、例えば一郎という鉄砲鍛冶が作った部品の一部を次郎という鉄砲鍛冶の作った部品と交換することは、基本的には考えられていない。したがって、一部でも部品が欠損した場合には全損と同じ扱いになることがあり得た。しかしこの規格の共有化という概念の実用化により、部品を交換するだけで済む。小荷駄隊も、補給品としては部品を持つだけで済む。
従来と比較して非常に効率的かつ画期的な技術進歩であった。
もっとも、現代人として幼少期を過ごした草太であれば、機械はそういうものだと考えている。七太郎や国友衆は、自分たちの作ったものの複製でしかないため、全ての部品が同一であるということに違和感を感じていない。
こういう理由で、部品の共用化という一大技術革新は人知れず、本人たちも知らない間に起こっていたのだが、それが技術史の観点から光を浴びるのは明治の中ごろから終わりころにかけて、技術史の観点からの考古学がある程度盛んになってからのことである。




