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草太の立志伝  作者: 昨日の風
第二章 飛騨統一編
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四十五、飛騨統一

 飯山城決戦の次第は既に書いたとおり、草太率いる姉小路軍の完勝に終わった。

 服部保長は尚も伏兵の存在に気をかけていたが、そもそもそのようなものはいない上、肝心の三木直頼が首となった以上、その存在には奇襲を警戒する以上の意味はなくなったと言っていい。彼らはただ、百程度の小荷駄隊が南へ、益田郡へと急行していることを知るだけであった。馬印からは川並衆と見え、主が討たれた以上戦線を離脱して帰還しようとしてるとみてそれ以上の手出しは進言しなかった。


 草太は三木直頼の首を見、広瀬宗城の身柄を拘束すると、すぐさま兵二百兵と渡邊前綱を連れ、その残りを滝川一益に残して北の方三仏寺城へ向かい、降伏勧告を行った。既に三木直頼が首となっている以上、これ以上の抵抗は無意味である、という渡邊前綱の説得に応じ、無血開城をした。処遇は、平野右衛門尉は武将としての地位を保証し、兵は全て降伏を許すという、寛大なものであった。

 草太はとりあえず兵二百を武装解除した上ですぐ隣城の鮎崎城に入れ、兵五十を残し平野右衛門尉をつれて滝川一益隊と合流した。


 この裏で服部保長とは別に、飯山城下の戦線を任された滝川一益も物見を多数放っていた。言うまでもなく、この後に予想される山下城、久々野城、牛臥山城の攻略のためである。その報告によれば、これらは空城と見えて守将の気配もなく、ただ盗賊などの根城に使われぬようにごく少数の兵が配されているだけであるという。

 益田街道を南下し軍を進めると、水無神社前を通過した辺りで特に降伏勧告も不要で、山下城、久々野城、牛臥山城が相次いで向こうから投降してきた。曰く、戦闘となった場合には全く無力でございますから、と。三城の兵を自軍の兵と入れ変える形でそれぞれ五十を配し、元々籠ってた兵合計三十名は降兵として連れてゆくこととした。降兵と言っても、見張りが付き武装がない以外は、他の兵と同じものを食べ、飲むことも許された。場合によっては縛る必要も考慮されたが、彼らは従順なためことさらに縛る必要はなかった。

 翌日更に進み今井城を攻めようとしたが、空城で兵一人おらず、それぞれの城に存置部隊二十を残して先に進んだ。



 桜洞城に三木直頼敗死の報が届けられたのは、既に牛臥山城が開城した後のことであった。三木氏の後継としては三木自綱が嫡男であるが、この時わずかに十三歳。しかも初陣もまだである。そこで急遽三木直頼の弟にあたる三木頼一を立てる一派と、今まで通りの嫡男である三木自綱を立てる一派が対立し、内部紛争の態をなしていた。

 更に今後の対応も分かれた。徹底抗戦を叫ぶ者、恭順を示して家を残すことを主張するもの、一度宮地城に引くことを主張するものなど様々に分かれ、概ね四派閥に分かれて内部での議論は紛糾した。何より不幸なのは、嫡男である三木自綱がまとめるべきであるにもかかわらず、その能力もそれだけの権威もない、ただの派閥の象徴でしかなくなってしまっていたという点である。


 先鋒隊に恭順派が無血開城を願い出、本隊到着を待って桜洞城に入場した姉小路軍であったが、その荒れ方に驚き果てていた。特に物資はほぼ備蓄がなく、雑兵を含めても五十人程度しかいない。聞けば朝方、姉小路軍先鋒が動き出したという物見の報告に、徹底抗戦派が兵百を引き連れて、自綱を奉じて宮地城に退いた、という。残ったのは恭順派だけであるため、無血開城を申し出たという経緯を聞いて、草太は頭が痛くなってきた。


 そこまでして三木家を残す必要があるのか。

 そこまでして三木家を残す意味があるのか。


 彼らにはあるのだろう。だが草太には理解できなかった。そして何より、草太は三木家を滅ぼすと既に決めてた。その理由は極めて個人的なことだ。あの身代わりになった少年、彼の弔いであるためだ。だが、そのために既に昨日、七百名の兵を殺害させ、命令を下したであろう三木直頼は広瀬宗城の手によって首にされた。この怒りは広瀬宗城に向かったのだが、それでも三木家は滅ぼすべきだ。そうしなければ名実ともに飛騨を統一したとは言えないだろう。

 古代中国の臥薪嘗胆ではないが、ここで情けをかけても得になることはあまりない。軍はそこに残置部隊百名を残し、更に全員の武装解除をして、残りは更に前進し宮地城を前にした野尻盆地に布陣したのは、既に夜になっていた。

 本格的な城攻めは、これが初めてである。また、数十人程度の城であれ攻め落としているという意味で一応は経験者に含まれる渡邊前綱や滝川一益がいるにしろ、防備を行った城にこちらから攻めかかるのは草太の代の姉小路軍は初めての経験である。陣幕に二人を呼んで話を聞くことにした。

 草太は床几に腰掛け、平助がその斜め後ろに座り、四人での軍議が始まろうとしていた。


 すでに、和平交渉の道はない。どう考えても、三木氏は滅ぼす。これだけは変わらない。だから攻撃する。

 城一つ落とす、というだけであるが、その「だけ」が難しいように思った。

「手勢は最初千、その後、それぞれに残置部隊を残し、また物見も出しておりますので、城攻めに仕える兵は七百五十名ばかり。対する敵方は桜洞城からの百名と元からの兵二百、合わせて三百と推定されます」

と、まずは現状を確認する意味で一益が簡単に説明した。

「敵将は徹底抗戦を唱えている連中です。和平交渉は無意味かと」

と渡邊前綱が言った。

「兵糧の備えは少なかろう、兵糧攻めがよいだろうと思うがどう思うか」

草太はそう言った。

「左様でございますな。力攻めは兵力差から危険、となればやはり穏当なのは兵糧攻めかと。ただし、我らも腰兵糧だけで来ておりますので、兵糧を運ばせる必要がございます。手配はしておりますが長期となればやはり問題も起こるとは愚考致します」

と滝川一益は賛成したが、渡邊前綱は反対であった。

「桜洞城の兵糧蔵には兵糧がほとんど残っておりませんでした。元がどれほどあったかは分かりませんが、これが宮地城に運ばれておれば長くかかりまする。兵站の長い我らには不利にございます。誘いの隙を見せて誘い出し、野戦から城になだれ込む形が最良にございましょう。なだれ込めなくても、兵なしには戦えませぬ。力攻めも可能になるかと」


 ふと顕誓の言葉を思い出した。城を落とすには、単に門を開かせればよいのだ。

 開くのは将でなくても良い。兵で良いのだ。

「降伏勧告だ」草太は言った。

「先ほども申しましたように徹底抗戦を唱えている連中ですから難しいかと」と滝川一益が言ったが、草太はそれを制して言った。

「だが兵はどうだ。城門を開き開城すれば助命の上賞する、逆に開城しなければ三族まで撫で斬りにする、とでもいえば、それでも城門を開けないほど城兵は忠義の兵かな」

 草太が言うと、滝川一益も膝を打った。

「なるほど、御屋形様は善政を敷く将であるという評判があると同時に、一旦戦となれば過酷苛烈な将であるという評判がございます。その評判が、ここでも生きてくるでしょうな。先日の飯山城下の合戦の模様も、既に伝えられている様子でございます」

「確かに、援軍のあてもなし、ただ籠っているだけの兵にございます。落城は時間の問題かと。であれば、その勧告も兵には生きてくるかもしれませんな」

 軍議は決した。


 草太は翌朝、声の大きいものを集めて叫ばせた。いくつかの首を持って兵たちの代表が来たのは、その昼過ぎであった。


 こうして宮地城は落城し、三木家の勢力は駆逐された。


 姉小路家日誌の天文二十一年卯月二十日(1552年5月27日)の項にこうある。

「姉小路房綱公、大音声にて宮地城内に降伏を促され候処、その威徳に感化されし雑兵等、集いて三木自綱、三木頼一以下数名の首を持参し開城仕り候。公この様子を憐み、首となった敵将の菩提を丁重に弔うと共に、城に残りし三百の兵に、それぞれ銭十疋を下さり候(略)」


 ただし、内政に限って言えば、これは地獄の戦争の始まりであった。高山盆地三仏寺城以東の一郷、及び益田郡六郷が新たに直轄地として組み込まれた以上、それに係る内政上の問題は膨大であった。思えば江馬領を接収した際の吉城郡六郷はそこまでのことはなかった。なにより、兵が集められていたにせよ兵を帰農させれば人口上のほとんどの問題は解決を見たのだから。

 しかし、三木領益田郡については全く事情が異なっていた。ほとんどの兵を帰農させたとしても、既に姉小路領のあちこちに移住した後であり、既に開墾を行った後である。開墾した田畑を捨てて戻らせることもできない。また、逃散についても相当厳しく罰したのであろう、人口そのものも大幅に少ない。これまでの三木家の苛政のつけを、姉小路家が払うことになるのだ。

 三木家の城を全て落城させて分かったことは、既に三木家の財政は破綻しており、ここで乾坤一擲の博打で勝負して勝たなければ、国を維持することも出来ないほどの荒廃状態にあった、ということであった。

「こういう負けが込んだ時に一気に取り返そうとすると、もっと負けるものだ」とは、博打好きの滝川一益らしい言葉であった。



 姉小路家日誌天文二十一年皐月七日(1552年6月1日)にこうある。

「姉小路房綱公、ご不興にて候。内ヶ島氏理儀、岡前館を訪れ、房綱公引見致し候。公歓びて(略)、また書状一通渡されたり」

 現在、この書状が何であったかは不明であるが、所領安堵の書状であったという説と硝石購入に関する覚書との二つの説がある。いずれにせよ、多くの場合、内ヶ島家が臣従した日をこの日とするのが通説であり、この臣従を以て飛騨の国の統一がなった、というのが通説である。実際、この後内ヶ島家は軍路の提供、後詰など多くの場面で活躍することとなる。



 三木氏を滅ぼして数日が過ぎていた。既に岡前館に草太が戻ってから二日になる。しかし、未だ軍勢の大部分は帰還の途にあるはずである。渡邊前綱を将に、滝川一益と草太、それに平助だけが一足先に岡前館に帰還していた。

 草太が飯山の惨劇を思い出し、またしてもあれだけの犠牲を強いたことに強い衝撃を受けていたとともに、自分達の力量に自信を持ちすぎて過剰な行動をしないか不安でさえあったためである。前回の政元城、神岡下館、今回の飯山城、いずれにも言えることは、敵の練度が低いこと、こちらと数が同等或いはこちらがやや優位であること、そして全て防衛戦であったことである。こちらから攻め寄せて行く戦ではない。

 当然、自衛のための戦だといえるかもしれないが、例えば政元城に兵を出したのはそもそもこちらである。それを救援に来た兵を迎え撃った、という意味での防衛戦である。だから、自衛のためだからというのは、全くの自己欺瞞に過ぎない。敵方にこそそれを言う権利があるかもしれない。今回の飯山城下の合戦では、狭い道を進む敵兵を、鉄砲で一方的に崩し、槍で殲滅した。死者数、約七百。これを草太の命令により行わせたのだ。敵が無策に突っ込んできたという事情があるにせよ。

 草太は悩んでいた。民のための戦をする、と言っているのに、なぜ民の血をこんなにもながさなければならないのか。なぜ民をこんなに殺さなければならないのか。そしてこれだけの力に酔って破滅することを恐れた。

 しかし政務はそんな草太に関わらず、こなさなければならない。一日の遅れが手遅れになる事例も、ないではないのだ。


 そんな折、来客を告げる使者が来た。内ヶ島氏理であるという。

 久々に会った友人と呼べる人物の顔を見て、多少ほっとした。だが、群臣が並ぶ政務の間であり、今は公式の場である。要件を聞くと過日の約束通り臣従に来たという。更に、硝石の生成に成功したので、見本を持って来たという朗報を告げた。

「少し、庭を歩かぬか」

と草太は内ヶ島氏理を誘い、目で平助をもはずして一個の草太という人物と一個の内ヶ島氏理という人物に、全くの私人の立場となって話をした。他愛もない、どうということもない話であった。

 最後に草太が言った。

「私は民のために戦のない世の中をつくるため、戦をしている。自分でも矛盾しているようだが、そうなのだ。……この後、道を間違えそうになったら、とめてくれるか」

「無論でございます」と氏理は答えた。「友が道を間違えようとしているのを黙って見ていられるほど、自分は薄情ではないはずですから」

 この後、広間に戻りさらさらと草太が書いて氏理に渡した書状には、こうあった。


 内ヶ島家は今後、一門衆に準ずる家とする。



 なにはともあれ、内ヶ島家の臣従により、飛騨の国は姉小路家の手により統一を見た。時に天文二十一年皐月七日(1552年6月1日)、草太が国入りしてから一年ほど後のことであった。

 ただし、一つだけ指摘しておきたい。飛騨の国は石高が精々三万数千石の非常に小国であり、例えば南の美濃は石高が六十万国と実に二十倍近い差があるということを。一つの国を統一する、というのは偉大な事業に思えるかもしれないが、実態は非常に狭い地域の、非常に小さな規模の統一でしかない。

 それでも統一を見た。

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