四十二、河童と山猿
どの資料にも、存在は示唆されるもののその存在の全貌を示すことのない組織、というのは、どの時代も自然発生的に生じる。これは仕方がないことである。日本に限らずどこの国、どこの社会でも、勿論この戦国時代でも、存在しているがその全容は良く分かっていない集団は存在している。
この小説で既に語られた中にも、例えば城井弥太郎の名前と組織は、方々の資料をつなぎ合わせると存在していることは分かる。
だが、その全貌や活動を正確に把握しようとしても、徒労に終わるだけだ。何より、交渉した相手側の資料にしかその存在は書かれることは滅多にない。それ以外に何をしたのか、時には手柄を他の誰かに譲ることも少なくない、交渉自体を記録に残さないその活動全体を、把握することは、通常極めて難しい。
畿内、そして琵琶湖周辺におけるそれは既に語った。そういう社会の枠からはみ出た者たちを受け入れる組織というのは、やはり人の多い美濃、尾張にも存在していた。それが川並衆である。
この川並衆がこれまででてきた集団と異なる点は、この集団が同時に傭兵集団であったことである。当時としてはまだ珍しい、専業の軍人であり、金次第でどちらの側にもつく集団。それが川並衆であった。同時にあぶれ者たちの受け皿としての側面も持ち合わせており、川並衆の全員が専業の軍人であるわけではない。人足仕事を多く請け負うものなど、他に行き場のないものも多く所属し、若き日の豊臣秀吉が所属していたことがあるのもこの集団である。基本的には来るものは拒まず去る者は追わず、が原則であるが、内部の法度を破ってこの集団からすら追放された場合には、野垂れ死にか違う土地へ移るかの二択になってしまう。
さて。
草太が服部保長の献策を受け入れ、川並衆と交渉を持つことについては、既に述べた通りである。姉小路家日誌によれば、天文二十一年如月六日(1552年3月11日)の項に
「房綱公、一門衆後藤帯刀を名代とし、川並衆と談合させ給うべく(略)出立させたり」
とある。姉小路家日誌に川並衆は何度か出てくるが、現存する部分ではこれが最初の登場である。美濃、木曽川流域に縁が無かったことから、これ以前は特に交渉もなかったと見るものもあるが、例えば一鍬衆などに交じって傭兵部隊が存在したと主張する者のもおり、その場合には政元城攻略以前から交渉があることになる。また、行列が美濃を通っていることから交渉がないこと自体が不自然であると見る向きも少なくはない。
ともあれ、姉小路家について確認できる資料からは、これが川並衆に言及した最初の記述である。
草太は服部保長の献策を受けた。これは既に述べた通りである。
「しかし、五百貫文とは、大きく出たな」
と草太が言ったが、服部保長は言った。
「なに、先金以外は実際には支払う必要はありませんよ。どうせ三木は雇いますから」
要するに、この策の根底にあるのは、傭兵の本能とでもいうべき、より金を払うものに着くという習性を逆用したものだと言って良い。
「後金以上の金を、三木が積む。可能なら絶対にそうする」と自信を持って言い、だから後金が高くても気にすることはない、と涼しい顔で言った。とはいえ、実際の交渉に草太が出るわけにはいかない。今や三木がいつ動き出してもおかしくない情勢が迫っている。その瞬間に草太がいないのは、やはり拙い。ということで、一門衆筆頭格である後藤帯刀が召しだされ、草太の名代として川並衆と交渉を持つことになった。
一行は、後藤帯刀が主将として、実務を担当する弥次郎兵衛の配下、つまり陪臣の岩田九兵衛、及び服部保長の配下、つまり陪臣の又兵衛を下人につけて、まずは近江の国は敦賀を目指した。草太からの手紙が別便で沖島牛太郎に届けられ、敦賀の街で落ちあえるように手配してあるためであった。丁度船で尾山から敦賀までの船旅でぐったりしている一行を出迎えたのが沖島牛太郎の配下で、その日は宿を取り、落ち合うのは翌日ということになっていた。一同、船旅の疲れもあるのだろう、ぐっすり眠って朝を迎えた。
翌朝一行は沖島牛太郎と落ち合い、途中長浜で一泊し、超えて美濃へ入り、夕方に大垣城下にあるとある館に入った。この館は川並衆の顔役の一人が管理する館だという。
床の間を背にどっかと座ってるのがこの屋敷を管理する川並衆頭目の一人、坪内利定であった。左右に蜂須賀小六、前野長康、梶田直繁らが並んでいる。彼らの紹介が済んで、沖島牛太郎が姉小路からの使者だというと、一人が笑った。
「で、飛騨の山猿が、木曽の俺たちに何の用だ」
これに色をなしたのは後藤帯刀であった。が、すぐ横の岩田九兵衛が膝を抑え、
「飛騨の山猿が木曽川の河童に用があってきたのだ」
といった。
言われた坪内利定は
「木曽川の河童か、ちげぇねぇ」と頭目たちと陽気に笑った。
「さて、この前も姉小路とかいう山猿が来て行ったが、今回はいくら持って来たんだ」
「まさか前の時のように百とかしみったれたことはいわねぇよな」
口々に、軽口ではあるが三木姉小路と混同しているのか情報が飛び交った。既に三木家から傭兵の打診があったようである。剣呑なことだ。ただし、金額が少なかったためか今のところ契約は成立していない。成立していても銭次第でどちらにでもつくのが川並衆ではあるが。
沖島牛太郎が軽口を制して言った。
「控えよ。この方々は三木のような自称姉小路ではない。姉小路高綱様の後を継いだ姉小路飛騨国司の名代である」
軽口が一斉に止んだ。つまり三木氏との関係を瞬時に悟り、対応もがらりと変わったらしい。
「して、その姉小路飛騨国司様が我らに何用ですか。まさか三木を背後から攻撃せよと仰せか」
と、中央の頭目、坪内利定が言った。これにこたえて後藤帯刀が応えた。
「逆だ。動かないでもらいたい。前金で百貫文、後金で四百貫文」
「支払いを運ぶのは我らが責任を持ちましょう」と、これは沖島牛太郎である。
「よし、わかった。なら、沖島の顔を立てて、前金の百貫は貰えると信じよう。だがな、三木姉小路がもっと高い値をつければそちらに着く。その辺は分かっているな」
坪内利定が言うと、それで決まりであった。ただ一人、蜂須賀小六が小物を一人、そちらに着けると言いだした。
「なに、我らが内情も知らぬ山猿じゃ。猿、お前が行けば丁度好かろう。向こうが気に入ればそれでもよいぞ」
そう言って、なし崩し的に木下藤吉郎という青年を預かることになった。又兵衛は、常道としてこれが間諜であると見抜いてはいたが、見えている間諜などそれほど怖い存在ではない。逆にこちらの思う情報を流すこともできる存在であると知っていたため、とりあえず黙っていることにした。
猿と聞いてピンときた読者も多かろう、この男、本名は日吉だが武士となることを望み、木下藤吉郎と名乗っている。十五の年に家を飛び出し、一時川並衆に身を置き今川家の足軽になったが水が合わず、結局川並衆に舞い戻っている。史実ではこの後、織田信長に仕え、信長の天下取りに大きな影響を与えるのだが、思いがけず姉小路家に仕えることとなった。
歴史が、史実とは決定的に異なることとなった瞬間かもしれない。歴史とは人が作るものだからである。
これに遅れること数日。三木姉小路家から又も使いが来た。やはり傭兵の価格交渉であったが、折り合わず不調に終わった。
そして、焦れて三木直頼が自ら川並衆と交渉にやってきたのは、既に田植えも終わる時期であった。当初の構想では、そろそろ合戦をする時期でもあった。だが傭兵団を集めるとして、戦は夏でも悪くはない。要は兵を集めにくい農繁期に戦が出来れば良いのだ。
「なんじゃ、誰かと思ったら山猿の大将が参ったのか」とは坪内利定である。
山猿、と呼ばれたことにむっとしつつも、努めて冷静に三木直頼は言った。
「そなたらは傭兵だろう、傭兵なら銭で動く。銭なら払う。兵を出してもらいたい」
「だから、その銭を出せと言っているのだ。兵八百名、ならば千貫文。前回それで物別れに終わったではないか」
その千貫文が無いのだ、と言いかけて、辞めた。今までの恩も何も、通用しない。ならば別のもので払うしかあるまい。
「兵糧はこちらで出す。兵八百名、八百貫文。これでどうだ」
ほう、と坪内利定は言い、兵糧が二百貫文か。高いな、と言った。だが、九百貫文で兵糧負担なし、期限は一月。悪くはない。今までの経緯もある。土岐家の事では随分と儲けさせて貰っていた。
「分かったよ、今までのこともある。仕方があるまい、負けておいてやろう。兵糧はそちら持ちで期間は着いてから一月、銭八百貫文で雇われよう」
少しほっとした顔で三木直頼は言った。
「いつ頃、来るのだ。出来れば夏、遅くとも取り入れ前に戦を行いたい」
「銭は先に全額貰う。銭が届いてから参集をかけて、八百ならまず三日というところだな。それから山を登るから、大体十二日の後に桜洞城につけるだろうよ。それから一カ月だ。忘れるな」
そうして三木直頼が出て行ってから一人、ぼやいた。
「河童が山を登って戦、なんてそう上手くいくわきゃねぇのに、何考えてんだろうな、あいつは。それほど追い詰められているなら、もう捨て時か。別の儲け口、ねぇ。斎藤の内紛か尾張の統一戦か。どこかにわたりはつけておかなけりゃな。あの姉小路が南に来てくれるなら、良いお得意になりそうなものだが、どうなるかね」
数日して銭八百貫文が届けられ、兵が集められ、坪内利定が主将、副将として蜂須賀小六と前野長康が付き、河を遡り山を登って桜洞城へ向かって行った。
こうして決戦の日は一日と近付いていくのであった。
9月28日、政元城が坂元城になっていましたので修正しました。




