三十一、広瀬城攻略
秋の風が吹き始めた。作物の取り入れも終われば、もう戦の季節である。今年も戦の季節がやって来たのだった。
広瀬宗城は自領の一郡からの年貢を見て眉をひそめていた。少ない。少なすぎる。通常の年の七割にも届くかどうか、怪しいものだ。それでも領民から徴発をすれば、逆茂木を結って空堀を掘り陣を張っているとはいえ、街道は手をつけておらず、人の行き来は自由である。時折誰何されるものがいるようだが、追い返されるのはほとんどいない。古川富氏の妾の一人が戻ろうとして追い返された程度だ。
現在自分が従っている三木直頼に食料その他の援助を頼んではいるが、あまり色の良い返事がない。向こうも台所事情が苦しいのだろう。だが逆茂木を越えた向こうはどうだ。蕎麦、稗の類ではあるが、よく取れているようだ。冬を越し春小麦を計算に入れなくても来年の収穫までの食料としては充分な量の収穫があることは明白だった。
こちらは、兵を城におかなければいつでも攻め寄せられ城を落とされる恐怖から兵を徴用し、常時八百の兵を城に詰めさせてしまっていた。この八百はほとんど全力に近い兵力であり、動員し続ければ農作業に大きな影響が出るとともに、自分の田畑が荒れて行くのを指をくわえてみていなければならないという焦躁感は、士気に甚大な被害を与えてしまっていた。この状態で敵陣に突撃しても、逆茂木は越えられない。抜けるとしたら特に何もない街道のみだが、街道を抜けるとなれば抜けた部隊が細く長い隊列を組むことを余儀なくされるため、部隊の数の差が利にならない。時間をかければ押し通れるかもしれないが、おそらく抜けきる前に援軍が来るだろう。
少なくとも数百人程度の部隊が小島城に居ると推定されていた。古川富氏の証言によれば、岡前館に三百人分程度、小島城には千人分程度の武器が貯蔵してあり、更に分家の牛丸重近の預る小鷹利城には、二百人程度は常駐しているという。そのため、二百名がただ行軍している間も囮であろうと手出しはしなかったし、境を越えて接近すれば撃退する用意は怠らなかったが、積極的に兵を出して攻撃するつもりもなかった。空堀を掘り逆茂木を結っている間も、こちらをおびきだす、それだけのための策だと考えていた。であるとすれば、全体で千人程度の兵がいる。小島、小鷹利に留守居を残してこちらと同等の戦力を、と考えればその程度の兵力がいると考えなければならない。
そして、頭の痛い問題が、領民の逃散である。逃散した領民のほとんどが姉小路家の領内に移住したと聞く。新しく土地を与えられ、別の村の住人として暮らしているのだという。本当かどうかは分からない。だが領民が逃散してしまい、大幅に人数が減っているのは事実である。現在残っているのは、夫や子供を兵に取られた家族が圧倒的に多い。それ以外で残っているのは、責任感のある庄屋位のものだ。逃げられるものは逃げている、というのが現状であろう。勿論、放棄された田畑を残ったものが手入れをしているが、ほとんど手入れは行き届いていない。絶対的に手が足りないのだ。だからと言って兵を放しても、今からでは、収穫量はさして増えない上、放った兵の大部分は逃げるだろう。勿論姉小路領へ、だ。
周辺地域から人口を奪うように集めて開墾を行わせたりしないのは、単にその土地の魅力がなく人が集まらないからではない、そのような方法では開墾して収穫するまでの食料の確保が難しいためである。
少なくとも古川富氏の証言が正しいとするならば、彼の屋敷にあった資産を勘案しても、少なく見積もっても常時千名前後の兵を徴用して、更に人口を集めて開墾させ収穫までの期間の食料を供給するだけの食料が姉小路家にあったとは到底信じられなかった。開墾をしている人間の分の食料など皆無に等しい。それが早ければ七十日程度で収穫できる蕎麦にしても、だ。
だが現実は、荒れ地を開墾したり山を切り開いて棚田を作ったりしている、とは報告が示す通り事実であろう。どこからか援助を受けているのかもしれない。例えば一条房通公が烏帽子親である。一条家が資産を援助して開発しているのかもしれない。京都の公家の世界には全く縁がないため、一条家がどの程度の資産を持つ家かは分からない。ただ、いわゆる五摂家の一つとしてその家格はその上には皇族しかない最上のものと聞いている。その支援を受けているかもしれない。だが、それだけのものが京から届くとなれば、当然目の前の街道を通るはずであるが、そのような集団は見たことがなかった。江馬時盛からもそのような集団は見ていないと連絡を受けていた。
夏前に一条家御用の幟旗を立てた荷が一荷通過しただけである。
「勝負にならんな」
今や三木直頼の援助は当てにならなかった。このままでは冬も越せない。姉小路家に膝を屈する以外、この苦境を脱する道は見当たらなかった。であれば早い方がよかろう。そう決断した広瀬宗城は、自分の側近を呼んであることを命じた。そしてそれは確実に実行され、草太の下に届けられた。
姉小路家日誌によれば、広瀬城から使者が来たのは天文二十年長月十九日(1551年10月20日)のことである。
「広瀬宗城殿より降伏の使者あり。降伏の証とて古川の首と書状を持参致し候。また嗣子宗直を差し出したしとの申し出之有」
と書かれている。しかし、
「房綱公、古川の首に大いに怒りて(略)宗城と宗直の首を条件と致し候」
と、広瀬宗城、宗直親子の助命を許さなかった。日誌には書かれていないが、講談本では古川富氏の政治能力を買っていて、ほとぼりが冷めたら呼び戻すつもりであった、などと書かれることはあるが、真偽のほどは定かではない。
事実として残されたものは、宗城、宗直親子が逃走し、その後ほどなくして広瀬城は陥落した、という事実のみである。姉小路家日誌によれば長月二十二日(10月23日)のことである。
「広瀬宗城以下一族逃亡に付、城兵門扉を開き一同降伏す。田中弥左衛門、自身の首一つを以て城兵の命を乞うも、公自ら与左衛門を説得し、以後姉小路家の一武将として仕えたり。また城兵の降伏を許し候」
と書かれている通り、実際に田中弥左衛門はこの後も草太配下の武将として戦線に立つことになった。
ともあれ、広瀬城はこうして、一兵も失わないどころか一本の矢も用いずに姉小路家の手に落ちた。この攻略戦で死亡したのは、広瀬城下での餓死者を除けば古川富氏とその一族だけであった。
広瀬城から軍使が来たと聞いたのは、丁度昼の鍛錬を終えた直後であった。最近は見回りに行かない日は、日があるうちは平助と鍛錬をすることが多くなっていた。逆に言えば、それだけの余裕が草太にも生まれてきたということであり、領内の経営が軌道に乗り始めたということでもある。だが気がかりなのは東北方向の江馬氏の動向と、更に気がかりなのは南方の広瀬城であった。広瀬城は城下の領民がかなり憔悴しており、明らかに人手不足で放棄せざるを得なかったと思われる元は田畑であったであろう、荒れた雑草の生い茂った地がいたるところに見受けられた。農地として機能しているのは、おそらく六割から七割近くでしかない。姉小路家に来た人数を出身地別にまとめてあるが、それだけしか田畑を手入れできていないということは、逆に言えば城に、雑兵として集めていると考えるのが妥当であった。南の三木家方面に兵を出していない以上、城にいるはずである。
田畑の手入れ状況から推定ではあるが、七百から九百の間、とみられていた。城に百を残したとして八百の兵が出てきた場合、逆茂木近辺の兵百では抑えきれず、非常招集をかけて岡前館の付近で迎え撃ち、逆茂木から離れていた屯田兵百名が、また小島城の留守居の兵百が、それぞれ側面又は背後から襲撃して撃退することになっていた。ただし、この場合には敵が出てきた後の岡前館以南の収穫の大部分は諦めざるを得ない。戦場となり敵兵が出てきた以上、その田畑の収穫は踏まれ、おられて激減する。支えきれない場合には小鷹利城へ入ることも想定されていた。
その広瀬城から軍使が来たという。源平の昔ならいざ知らず、戦国の世で軍使を出して合戦もあるまい。ともあれ、会わなければ話にならない。
「広瀬城より参りました、軍使の山下源一郎と申すものでございます。広瀬宗城様の名代として参りました」
使者が言う。簾を隔てて草太が座り、丁度よく岡前館にいた弥次郎兵衛を正面左の取次に、平助を正面右にし、面会を許した。
弥次郎兵衛が簾に入ってきて取り次ぎ、簾を出て言った。
「姉小路飛騨国司房綱様は、よく来た、何用か、と問うておられる」
一々取り次ぎを通すあたり、警戒しているのがありありと見受けられる。平助も剣気を抑えることなく座っている。軍使の声に怯えの色が見えた。
「広瀬宗城様、所領安堵の上降伏したいとのことでございます。証拠に古川富氏の首を持参致しました。その一族郎党に至るまで全て首をはねてございます。また、降伏が認められるなら嫡子宗直様を人質として預けたいとのことでございます」
首とみられる下が赤黒くなった箱を弥次郎兵衛が受け取り、簾の中に持って入ってきた。一度は保護した人物を、自分の権力の維持のためにためらいなく殺害して、それが相手が喜ぶものだと信じて疑わないとは、何事か。草太は怒りを抑えきれず、だが簾から向こうに声が聞こえないように小声で弥次郎兵衛に言った。
「降伏条件は広瀬宗城、宗直親子の死。それ以外は認めない。城兵は助ける。それから古川富氏以下の一族は丁重に弔うように」
「それでは徹底抗戦もあり得ますが、宜しいのですか」
「問題ない。徹底抗戦するならするで、現状のまま動かす必要はない。ただこのような所業をするものは許せぬ」
「かしこまりました」
そういって簾から出た弥次郎兵衛は、降伏条件は広瀬宗城、宗直親子の首を出せば降伏を認める、それ以外は認めないと軍使に伝え
「早々に広瀬城に戻って伝えよ。房綱様は酷くご不興だ。命が惜しくばさっさと帰れ」
と軍使を追い出した。
軍使が戻って復命し、広瀬氏一族が揃って亡命したのはその翌日の夜のことであった。
そして城主以下広瀬氏一族が揃って城を落ちたことを知った田中弥左衛門は、これ以上如何ともしがたしと、主だったものを広間に集め、城兵の命だけは何とか助けるよう懇願すると言い置いて、自ら馬に乗って逆茂木の部隊長、渡邊筑前守に主人広瀬宗城が一族と共に落ちたこと、自分一個の命で城兵の命を助けてもらえるよう嘆願するために仲介に立ってもらいたい、と伝えた。
折しも、昨日のこともあり草太は逆茂木の近くまで足を運んでいた。そこに使い番が走って来、田中弥左衛門の件について報告すると、すぐに逆茂木の街道付近にいる田中弥左衛門と渡邊筑前守と合流した。
「事情は分かった。逃げた。そういうことだな」
草太は珍しく怒気を放った声を出していた。なんというよりも、あの広瀬宗城という人物が、草太の逆鱗に触れ続けているようである。
「田中弥左衛門殿、と申されたな。城兵はもとより死なせるつもりはありません。そなたもです。命を以て償うべきは広瀬宗城とその息子宗直のみ。他は全て降伏を認めます。ただし、条件が一つだけ。田中弥左衛門殿、貴方には我々の帷幕に加わっていただく。姉小路家の一武将として全力で戦っていただく。これが飲めるなら今すぐにでも降伏を認めましょう」
こう言われて、田中弥左衛門は涙を流した。これだけのことを言われて、感激の涙であった。
「分かりました。私は姉小路家に仕えましょう。……ときに城兵はそのまま解散でも宜しいのですか」
そうだな、と草太は考えてしまった。そのまま解散でも良いが、後に誰もいない城は不用心すぎる。
「渡邊、逆茂木隊百名を連れて田中弥左衛門と共に城に入り、城を接収せよ。兵は全て城から出してかまわない。後ほど金穀等を検めるため人をよこすから、封印だけはしておくように。田中弥左衛門、そなたは渡邊隊に城内を案内し、米蔵、金蔵などを封印せよ。そして兵が全て城から出たことを確認したら、岡前館に来るように」
活動報告にも書きましたが、飛騨統一までの間は毎日0時に更新します。
推敲が甘くなる可能性もありますが、その場合はご指摘ください。
一部、田中与左衛門が田中与四郎になっており、修正しました。
お恥ずかしい。




